「これから、私がしたいこと」(第373号2021年2月号) | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

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第373号2021年2月号「これから、私がしたいこと」の話


 二月、一年で最も気温の低い月を迎えました。
 色々な事情が重なり、3月で小田眼科を閉院する決心をしました。以来、毎日の過ぎるのが早いこと。一日はあっという間に終わり、一週間も瞬く間、という印象です。
 閉院を公表してから多くの患者さんに、ここがなくなったらどこへ行ったら良いか、先生とお喋りができなくなるのが淋しい、すでにいなくなった家族、今は仙台を離れている家族がここで診療を受けたなど、色々なお話を伺い、本当に長い間この地でお世話になったことを思い、改めて感謝しています。

 それで、今月は、

  「これから、私がしたいこと」
                           の話です。

 健康でいられたら、ルーツを探りたいと考えています。
 私の先祖は父方、母方共に四国から北海道へ移住してきました。父方の祖父母は香川県の引田から北海道の美唄へ来て商店を開きました。母方の祖父母は、徳島県の羽ノ浦から石狩川縁の農場に入り開墾を始めました。
 その数年前に羽ノ浦から北海道へ移住した人たちがいて、その人を頼っての移住でした。羽ノ浦の近くを流れていた那賀川が氾濫して、川の工事のために土地が削られ、もともと狭い土地でしたので、農業を続けられなくなり、やむなく北海道へ渡る決心をしたようです。明治27年3月のことでした。
 北海道の夏は短いからと、3月に北海道へ来て、原始林の樹を切り開墾の準備をしましたが、雪が解けたら、地上2mの所に切り株が並んでいたという話が残っています。幸いなことに土地の地味は豊かで、その年は肥料を何も使わずにハダカムギ、イナキビ、ジャガイモ等が大量に収穫できてほっとしたという事でした。
 北海道へ来てからも石狩川は数年に一度、氾濫し、家も家畜も作物も流されるということを経験しましたが、そこに留まりました。石狩川縁の土地は湿地でしたので、まだ雪がある頃から近くの山の土を運んで耕作地に入れました。これを客土と云いますが、客土をする事で、田んぼの雪解けが早まるという利点もありました。春先、馬を使って大量の土を運び、田んぼに撒く叔父の姿が眼に焼き付いています。このように北海道で米作ができるようになるまでには多くの苦労がありました。
 北海道の農業指導のためにアメリカから来たクラークさんたちは、北海道のような寒冷地での米作は不可能と断定して麦を植えることを勧めました。米がなければパンを食べれば良いと考えたのです。しかし、農民は米作にこだわりました。四国で米を栽培した経験もありました。また、例え、米を植えて米が採れなくても、稲わらには蓑、俵、縄、敷物、カーテン、馬の飼料など無限の利用価値がありました。
 このような努力が実って、今では石狩川の両岸は北海道で最も豊かな米穀地帯になりました。その原点ともいえるのが「きらら397」でした。「きらら397」は粒がしっかりとしていて汁気の多い食材と組み合わせても「ふやけ」ないことから、牛丼チェーンの吉野家などが業務用米として用いるようになったのです。
 しかし、「きらら」は誕生から既に30年以上が経過しました。北海道の農家は高価格の「ゆめぴりか」や「そらゆき」へ生産を置き換えつつあります。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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