小田眼科ニュース 医心伝信 Produced by *J.O.Y.
第376号 2021年 5月号
庭に一本の赤松があります。亭々と大空に伸び、毎年大量の松葉と松ぼっくりを落します。大木ではありますが、木陰を作らず、まっすぐに伸びている様は逞しく、私どもを見守ってくれているように感じ大事にしています。
ここに住み始めて50年を超しました。毎日目にしてきた松ですが、ある日、ふと、少し太くなったように感じました。
この松の樹齢を知りたいと、調べました。松は年に一本枝を出すので、枝の数を数えれば樹齢が分かるというのですが、とても数えきれません。また、松の成長は、環境によって変わりますが、毎年0.5から1センチくらい太くなるということが分かりました。根元から1メートルのところの幹の直径で大凡の樹齢を知ることができるという事です。早速、測りまして、樹齢200から250年くらいかと判定しました。
それで、今月は、
「赤松が見た時代」
の話です。
仙台藩の藩祖・伊達政宗は慶長6(1601)年に、居城を仙台に移し、城と城下町の建設を始めました。この松がここに根を下ろした頃の仙台藩当主は第7代藩主・伊達 重村でした。重村は宝暦6(1756)年に家督を相続しましたが、襲封早々、前年に発生した「宝暦の大飢饉」による、藩財政悪化への対応を巡って、藩内で意見が対立する「宝暦疑獄」が発生しました。この疑獄問題が漸く解決に向かったのち、重村は藩財政の建て直しに取りかからずに、薩摩藩主・島津重豪への対抗意識から猟官運動に莫大な資金を投じ。藩の財政をますます逼迫させました。このような中で、重村は藩校・養賢堂を拡充させました。
当時、徳川幕府の征夷大将軍は第10代藩主・徳川家治でした。家治の幼名は竹千代で、幼少時よりその聡明さから、第8代将軍であった祖父・吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育ちました。吉宗の長男で第9代将軍となった家重は、生来虚弱で、脳性マヒによる言語障害があり、発音が不明瞭であったために、大奥にこもりがちだったと伝えられています。
吉宗は家重の長男で孫の家治に期待し、家重には伝えられなかった帝王学等を家治に教える、一方では幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、市民の意見を取り入れるための目安箱を設置するなど「享保の改革」を実行しました。
吉宗は長男・家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから「米将軍」とも呼ばれています。
家重の時代の初めは吉宗が残した遺産がありましたが、宝暦5(1755)年の凶作をきっかけとする増税策により百姓一揆が続発しました。
家重の後を継いだ家治は文武に明るく学芸の才能にも恵まれました。父・家重の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励み、祖父・吉宗以上の名君たらんと努力しましたが、次第に幕政に興味を失い、晩年は老中・田沼意次に幕政を任せ、自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなったといわれています。
家治は将棋七段の免許をもっており、棋譜も残っているそうです。関西棋院は「周囲が若干緩めて対局している風が棋譜から感じられ、実力七段は疑問ではあるが、 現在のアマ高段の力は十分にある」としています。詰将棋作家として名高いプロ棋士の二上達也は、家治の将棋は「所詮は旦那芸」と切り捨てましたが、詰将棋については「他の追随を許さぬ名作・好作を残している」と評価しています。
しかし、家治の将棋マナーは悪く、対局中に、待ったをして、駒を元に戻したとも伝えられています。
この樹はこのような時代も見てきたのか、長命であって欲しいと願っています。
仙台市青葉区八幡2-1-23 ℡ 234-7408 小田眼科医院 小田泰子
平日朝8時からの早朝診療を2009年12月から始めましたが2017年1月末で終了しています。
眼科の診療時間、場所の地図をひとつの記事にまとめました。
FC2ブログより引っ越しました。
2006年(平成18)11月1日より病院住所が変わりました。電話番号は変更ありません。
小田眼科医院
住所:仙台市青葉区八幡2-1-23
電話番号:022-234-7408
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