仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

小田眼科より、毎月発行しているニュースを載せています。

平日朝8時からの早朝診療を2009年12月から始めましたが2017年1月末で終了しています。

眼科の診療時間、場所の地図をひとつの記事にまとめました。
FC2ブログより引っ越しました。           
2006年(平成18)11月1日より病院住所が変わりました。電話番号は変更ありません。
 
小田眼科医院                              
住所:仙台市青葉区八幡2-1-23
電話番号:022-234-7408
小田眼科ニュース医心伝信
第367号2020年8月号「ペスト」の話



世界中で、COVID-19の流行が続いています。7月24日現在、世界では1日に20万人ずつ感染者が増え、全体で1,500万人が感染し、死者は50万人を超したということです。短期間の流行拡大は脅威ですが、それでも14世紀から17世紀にかけて起きたペストの大流行には及びません。
 これまでの歴史の中で、最も致死率が高く、人類に壊滅的な被害をもたらした感染病のひとつがペストであることは間違いありません。

 それで、今月は、「ペスト」についての話です。

 ペストはこれまでに3度、世界的大流行を起こしました。
 第1回目は、541年から767年にかけて、ユスティニアヌス帝時代の東ローマ帝国を中心に流行した「ユスティニアヌスの疫病」ともいわれるペストの流行で、当時の人口の50パーセント近くが死亡し、ローマ帝国の崩壊を早めたと考えられています。
 第2回目の流行は14世紀に流行した腺ペスト(全身が黒くなって死ぬので黒死病ともいわれた)で、わずか数年でヨーロッパ全体に広がりました。この流行は、1331年に中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るった後、ヨーロッパ、中東、北アフリカへと拡散しました。この流行は1348年から1420年にかけてヨーロッパで、断続的に流行し、致死率は30%から60%に及び、およそ8000万人から1億人が死亡したと推計されています。
 当時、ヨーロッパでは、疫病は神が下した罰とみなされていました。多くの聖職者が一般人と同様、ペストに感染して死亡することで、人々に教会の存在意義と教会の権力に対する疑念を持たせました。また、ペストによる人口減少は、封建領主を支えていた農民の減少となり、地主である貴族や教会に大きな打撃を与えました。これらの人々の意識の変化と労働力の減少は中世の「暗黒時代」と決別し、人間を解放する運動である「ルネサンス」をもたらす原動力の一つになったと考えられています。
 第3回目の流行は19世紀末、またも中国を起源とするペスト流行でした。これは、1855年に雲南省から始まり、1894年の香港での大流行を経て世界的に拡散しました。この時、日本への流行波及を恐れた政府は北里柴三郎らを香港へ派遣しました。そこで、北里は腺ペストの病原菌を発見しました。ほぼ同時に、パスツール研究所の細菌学者イェルサンもペスト菌を発見し、ペストの原因が細菌であると確定しました。その後、北里により腺ペストに有効な血清療法が確立されました。
 日本では明治以前にはペスト発生は確認されていません。日本でペストが初めて報告されたのは、明治29(1896)年に横浜に入港した中国人船客が罹患したペストでした。それ以来、日本で断続的にペストが流行しました。
 特に大阪では2回流行が起きました。大阪での第一次流行は明治32(1899)年から翌年にかけて起きた流行で、患者161名(うち死者146名、致死率90.7%)、第二次流行は明治38(1905)年から明治43(1910)年に起きた流行で、患者958名(うち死者860名、致死率89.8%)に達しました。
 現在は治療薬の普及や環境整備などが進み、上記のような規模でのペスト大流行は発生していません。しかし、世界では散発的な発生例が報告されており、死亡者も決して少なくはありません。
 最近は世界的に交通網の発達が進み、ペスト菌に感染した動物との接触機会も残されています。注意は怠れません。


小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.
小田眼科ニュース医心伝信
第366号2020年7月号「日本最古の災害記録 方丈記」の話



 コロナの流行、第一波は終わったと見て良いようです。県境、国境を越えての移動が緩和されました。出産、病気見舞、友人訪問、旅行などで、たまたま、他県に行っていた、他国に行っていた、他国から日本に来ていたなどの事情で不便を余儀なくされていた人たちの移動がある程度ですが緩和されました。
 今は無くなりましたが、ドイツの首都ベルリンが東西に分離され、その間の交通を制限する壁ができたときにも同じような問題が起きました。ベルリンの壁というのは東西冷戦の時代、東から西への人口流出を防ぎ、東ドイツの体制を守るべく、1961年8月13日、一夜のうちに東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリン市の周囲を最初は有刺鉄線(のちにコンクリート)で囲った壁のことです。この壁は、1989年まで存在し、この壁を越えようとして多くの人が命を落としました。
 このために、たまたまその日に東西ベルリンの境界を越えて移動していた人に、今回のコロナによる移動規制と同じような事態が生じました。自宅に帰られなくなり家族と離ればなれになった人、勤務先に出勤できなくなり失業した人、恋人と会えなくなった人、学校に通えなくなった人と様々な悲喜劇が起きました。
 世の中、いつ何が起きるか全く分かりません。

 それで、今月は、「日本最古の災害記録 方丈記」についての話です。

 『方丈記』は鴨長明が書いた鎌倉時代の随筆で、『徒然草』『枕草子』とならび「古典日本三大随筆」に数えられています。
 鴨長明は晩年になって、京の郊外・日野山に一丈四方(約9㎡)の小庵をむすび隠棲し、当時、起きた災害を記し「方丈記」と名づけた記録を残しました。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の書き出しで移り行くものの「はかなさ」を語った後、長明は、安元3(1177)年の都の火災、治承4(1180)年に都で発生した竜巻およびその直後の福原京遷都、養和年間(1181~1182年)の飢饉、さらに元暦2(1185)年に都を襲った大地震など、自らが経験した天変地異を記述し、これらの災害は歴史に記録されています。日本初の災害記録文学ともいわれる所以です。
 方丈記にある「安元の大火」は安元3(1177)年4月28日午後8時頃、都の東南で、舞人の宿屋の火の不始末が原因で出火しました。火はまたたく間に燃え広がり、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などが一夜のうちに灰燼に帰し、公卿の邸宅だけでも16軒、一般家屋に至っては都の3分の1が焼失しました。
 「治承の竜巻」は治承4(1180)年4月、中御門大路と東・京極大路の交差点付近で発生した大きな竜巻(辻風)です。風は家財道具や檜皮、葺板などを、冬の木の葉のように舞わせて市街地を吹き抜けました。
 「養和の飢饉」は養和年間(1181-82)に2年間にわたって飢饉があり、多くの死者が出ました。旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷は加持祈祷を試みましたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲いました。仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁しました。その数は、養和2年の4月・5月、左京だけで、42,300人余に達しました。
 「元暦の地震」元暦2(1185)年7月9日、大きな地震が都を襲いました。山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ち、余震は3か月にわたって続きました。
 1177年から85年までのわずか8年間に、長明が記録しているだけで火事、竜巻、地震、飢饉、疫病と大災害が立て続けに起きました。この時代から1,000年以上後の現在も、全く変わらない災害大国日本があります。



小田眼科医院理事長 小田泰子
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小田眼科ニュース医心伝信
第365号2020年6月号「人は忘れる」の話



 
 新型コロナウイルス感染症拡大に対する緊急事態宣言と「ステイホーム」の呼びかけで、日本中の人々が家にこもっている間に、桜、チューリップ、水仙、ドッグウッド、つつじ、ライラック、藤と花は咲き、散り、いよいよバラが咲きはじめ、気温も初夏の雰囲気を見せ始めました。5月25日に政府は緊急事態宣言を全面解除しましたが、まだまだ油断はできないと釘を刺しています。

 それで、今月は、「人は忘れる」についての話です。

 物忘れに悩まされる日々ですが、もともと人間というものは忘れるのが得意な生き物ではないかと考えます。毎年、その日が近づくと新聞やテレビは、広島・長崎の原爆投下、阪神淡路大震災、東日本大震災などを忘れないように、呼びかけますが、前号で書きましたようにスペイン風邪流行が終わった後、人々はすぐ、流行がなかったかのように振るまいました。スペイン風邪だけではありません。17世紀に起きたペストの流行が去った時、人々はその恐ろしかった経験をすぐに忘れました。
 1664年9月のはじめころからロンドンで起きたペストの流行を詳細に記した『疫病流行記』(泉谷 治訳)の最後で、著者のダニエル・デフォーは「ロンドンでは、この3週間に死亡者は3万名を下らず、発病者は10万名近くもあった。そのような状態に追い込まれている最中に神が手を下し、いわば、敵から武器を取り上げてくれたのでした。それは不思議なことで、医者たちでさえもただ驚くばかりでした。それまでであれば、数日で死んでしまった患者たちがみんな快方に向かったのです。一人として死ぬ者はありませんでした。新しい治療法があみだされたからではありませんでした。信仰心などはほとんど持ち合わせていない医者たちでも、このことはまったく超自然的であり、異常であって説明のつかないものであると認めなければなりませんでした。この結果、通りには人があふれ、1週間前であれば感染をおそれて、道で人とすれ違うのを避けていたことをすっかり忘れて、まだペストから完全に回復していない、吹き出物が顔に残っている人の側を平気で通るようになりました。」(一部略)と書いています。
 『史上最悪のインフルエンザ』を書いたA・W・クロスビー(西村秀一訳)も最後の章「人の記憶というものーその奇妙さについて」で、たった1年ほどで多くの人の命を奪い、多くの生命保険会社を倒産の危機に追い込んだパンデミックであったが、その流行が去った後、合衆国政府はインフルエンザの徹底的な研究と公衆衛生に対する特別予算を組まなかったのはなぜかと問い、ニューヨーク・タイムズの編集者が「この大流行に関して奇妙なことは、この流行は人々にパニックはおろか、興奮状態を起こさなかった」と書いたことに言及し、スペイン風邪の流行の最中に生きた多くの、いわゆる「失われた世代」の作家たち、例えば「失われた世代」の命名者である「ガートルード・シュタインは、流行の最中フランスで救急車の運転手をしており、同じ世代の作家ドス・パソスは、彼が乗った兵員輸送船内でスペイン風邪が蔓延し、毎日多くの兵が亡くなり、ドス・パソス自身もひどい肺炎に罹ったと手紙に書き、さらに、スコット・フィッツジェラルドは第一次世界大戦に参戦したいと志願したが、スペイン風邪流行のために輸送船が出航しない間に戦争が終わった。これら作家はこの後多くの作品を世に出したが、スペイン風邪に触れた作品を残していない」とクロスビーは指摘し「彼らはこの流行を記憶の中に置き忘れたのではないか」と述べています。
 日本でもスペイン風邪は流行しました。当時、白樺派の志賀直哉・有島武郎や芥川龍之介・山本有三・菊地 寛などが作家として活躍していましたが、スペイン風邪流行に言及している作品を残念ながら知りません。
 今回の流行は、紆余曲折はあるでしょうが、いつかは終わるでしょう。その後、人々はこの流行をどのように記憶し、記録していくでしょうか。



小田眼科医院理事長 小田泰子
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小田眼科ニュース医心伝信
第364号2020年5月号「スペイン風邪の流行を知る」の話



 
 新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止対策で日本中が外出制限、学校の休校、三密禁止などの負荷を強いられ、人々は戸惑い、これからどうなるのか、流行はいつまで続くかなどに不安を持っています。この流行が、これからどのような経過を辿るかを知ることができれば、コロナ流行のまっただ中にいて五里霧中の我々にある程度の展望を与えてくれると考えます。
 100年前に起き、世界中に感染が広がった「スペイン風邪流行」の経過を知ることは参考になるかもしれません。

 それで、今月は、「スペイン風邪の流行を知る」についての話です。

 1914(大正三)年6月にオーストリア皇太子夫妻がサラエボで暗殺された事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発しました。この戦争は最初は局地戦でしたが、参戦国は徐々に増え、オーストリア、ドイツ、ロシア、イギリス、フランスなど30か国以上が戦った初の世界規模の戦いとなりました。この戦争に日本は1914(大正三)年8月、アメリカは1917(大正六)年4月に参戦しました。
 アメリカ参戦の翌年1918(大正七)年11月に、この戦争は終わりました。終戦になったのは、1918年8月ころから戦場で突然、その後「スペイン風邪」と云われるようになった流行病が始まり、多くの兵士が感染し、死亡し、戦争を続けられなくなったためと言われています。
 スペイン風邪は1918(大正七)年3月アメリカのカンザス州にあったアメリカ兵のキャンプで始まったと考えられています。この疾患は最初は良性の「三日熱」でしたが、その1週間後には罹患者が急速に増え、重症度を増しました。この病気は4月始めに、感染の潜伏期にあり、無症状であった兵とともに西太平洋を渡り、戦場の多くの兵に感染させたと考えられています。一般市民への感染を経て急速に全世界に広がりました。この戦争で中立国であったスペインでは報道規制がなかった為に、スペイン王が罹患した流行病を報道しました。「スペイン風邪」と言われるようになった所以です。
 この流行は5月には日本に上陸し、8月には東北地方でも流行が始まりました。河北新報は郵便集配人の病欠、夏季訓練を終えた第二師団の兵士の感冒流行を記事にしました。最初は遠慮がちの報道でしたが、流行の拡大と共に、宮城男子師範学校、県警察官などの流行、さらに学習院、近衛歩兵連隊での流行と死者の増加が報道され始めました。11月に、内務省から感冒予防告諭が出され学校は休校し、児童の死亡も報道されました。この流行は、11月ころから終息の兆しを見せ始めましたが、翌年7月まで、全国の流行は続きました。
 内務省衛生局はこの流行を総括して、第一回の流行は1918(大正七)年8月から翌年7月まで、第二回の流行は1919(大正八)年10月から翌年7月まで、第三回の流行は1920(大正九)年8月から翌年7月までとしています。
 この中で感染者数が最も多かったのは第一回の流行で、全国で二千百万人余の人が感染しました。その後の流行での感染者数は、200万人余、20万人余と急速に減少しました。
 現在は、100年前よりも医学は進歩しています。コロナに効果のある薬品やワクチンの開発に世界中の科学者が、一刻を争ってしのぎを削っています。ニューヨーク州で行われた抗体検査では無症状者の10%以上が抗体を持っているという結果でした。これが信頼できるデータであれば流行は間もなく終息に向かうと期待できます。
 しかし、まだまだ我慢の日は続くのは覚悟しなければなりません。
 スペイン風邪は世界人口や経済に大きな影響を与えたはずですが、流行が去った後、人々は流行など無かったように振るまい、忘れられた流行と言われています。



小田眼科医院理事長 小田泰子
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第363号2020年4月号「ウイルス・この不思議なもの」の話



 3月11日、世界各国で猛威を振るう新型コロナウイルス感染症についてWHOのテドロス事務局長は「パンデミック(世界的な大流行)である」と表明しました。
 WHOが「パンデミック」という表現を使うのは、2009年の新型インフルエンザ以来11年ぶりのことです。23日、テドロス事務局長は「世界中のほとんどすべての国であわせて30万人以上の感染者が確認された。『パンデミック』は加速している」「さらに、感染者が初めて確認されてから、10万人に増えるまで67日間、20万人に増えるまで11日間かかったのに対して、20万人から30万人に増えるまではわずか4日しかかからなかった」と述べました。
 東京オリンピック・パラリンピックの開催も延期になりました。
 数値は日々変わりますが、米ジョンズ・ホプキンス大学の集計では、3月30日現在、感染者数が最も多いのはアメリカ(約13万7000人)、イタリア(約9万8000人)、中国(約8万2000人)、スペイン(約7万9000人)、ドイツ(約6万1000人)となっています。死者はイタリアが最多の約1万1000人、次がスペインが約6,600人、中国が約3,300人、イランとフランスが約2,600人、米国が約2,400人となっています。
 日本の感染者数は1,693人、死亡者は52人となりました(3月29日現在、厚労省)
 
 それで、今月は、「ウイルス・この不思議なもの」についての話です。

 コロナ・ウイルスはいろいろな種類のあるウイルスの中の一つですが、ウイルスは様々な点で一般的な微生物とは大きく異なります。
 ウイルスは他生物の細胞を利用して自己を複製させる、光学顕微鏡では見えず、電子顕微鏡で姿を捉えることができる極微小な感染性を持つ構造体で、基本的にはタンパク質とその内部に入っている核酸からなる粒子です。
 一般の生命の最小単位である細胞や細胞膜を持たず、細胞内の小器官もなく、自分でエネルギーを産生することも、自己増殖することもできません。それで「非生物」とみなされることもあります。ウイルスは自己増殖はできませんが、遺伝子を有するという、生物・非生物両方の特性を持っており、「非細胞性生物」「生物学的存在」ともいわれます。
 また、大部分の生物は細胞内部の核にDNAとRNA、二つ核酸を持ちますが、多くのウイルスはDNAかRNAどちらかしか持たず、他の細胞に寄生しなければ生きられません。さらに、ウイルスは自分の力で他の細胞に入る能力は持っていないのですが、細胞が間違ってウイルスを取り入れることで細胞内に入ります。細胞に入ったウイルスはその細胞を乗っ取り、増殖し、細胞を破壊します。通常の細菌は二つに分裂して増殖しますが、ウイルスは一気に数を増やす「一段階増殖」で増えます。ウイルスが細胞を壊すことで起こる病気をウイルス感染症と呼びます。インフルエンザや天然痘、麻疹、風疹などがありますが、ウイルス感染症は、しばしばパンデミックとなり、多くの人々の命を奪いました。
 現在、ウイルスに有効な薬剤はまだ多くは見つかっていませんが、ウイルスに感染すると身体に免疫ができます。この免疫により生物はウイルス感染を免れるようになります。この免疫という防護機能を利用して人類は人工的に免疫を与える「ワクチン」をつくり感染の拡大から身を守る手段を得ました。現在は、ウイルスに対抗する手段は有効なワクチンを作る事に尽きます。しかし、有効なワクチンが開発され、多くの人々の安全が守られるようになるのは、1年以上後の事になると危惧されます。
 自然界のことに対処するには多くの優秀な頭脳と時間が必要ですが、いずれ人類はこの感染症をコントロールできると信じています。



小田眼科医院理事長 小田泰子
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小田眼科ニュース医心伝信
第362号2020年3月号「新型コロナウイルス感染」の話



暖かだった冬も終わりに近づき、花粉が飛び始めたようです。雪不足でスキー場は閉鎖、雪まつりは中止などのニュースが聞かれましたが、それでも旧暦のお正月を迎えた後、日本中に寒波が到来し、雪不足が解消した所もあるようです。そして、今年は年初から中国で始まったコロナウイルスの流行とそれへの対応で世界中が忙しく動いています。
 流行は昨年2019年12月31日付けで中国がWHOに「中国の武漢市内で原因不明の肺炎が広がっている」と報告し、世界中に知らされました。

 それで、今月は、「新型コロナウイルス感染」についての話です。

 新年の仕事始めを迎え漸くお正月気分が抜け始めた1月7日に中国は「武漢市の肺炎患者から、新型コロナウイルスを検出した」と発表しました。「新型コロナウイルス?」と考えているうちに、「1月1日、武漢市内の海鮮市場を閉鎖」「1月12日、武漢市で初の死者を確認」「1月13日、武漢市からタイを訪れた中国人の女性から、新型コロナウイルスを検出」「1月16日、日本国内で初の感染確認」「1月20日、ヒトからヒトへの感染が判明」「1月23日、武漢市は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、交通機関の運行を停止し、市を封鎖した」「1月27日、中国旅行社協会は、国外旅行を含む全ての団体ツアー旅行を一時禁止」「1月28日、日本人に初の感染者発生、武漢市から来たツアー客を乗せたバスの運転手」とコロナウイルスに関する報道が矢継ぎ早に出され、人々を不安に陥れました。
 この病気の最初の流行地となった武漢市は長江中流域にある都市で、3,800年前の「楚」文化の発祥地の一つです。また、この地には製造業を中心として約200社の日本企業が進出しています。
「1月29日、武漢からのチャーター機第1便が206人の日本人乗客をのせて羽田空港に到着」「1月30日、第1便の帰国者のうち3人に感染確認」「1月31日、WHOが国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態と宣言」と息をつく暇もない速さで事態は進行しました。
 2月に入りました。「2月1日、日本は新型コロナウイルス感染症を指定感染症(公費による医療を提供)に指定」「2月5日、横浜港に停泊していた豪華客船・ダイヤモンド・プリンセスの乗客乗員10人に、新型コロナウイルスの感染を確認。厚労省は乗員乗客に14日間、船内待機方針を示す」「2月11日、WHOは新型コロナウイルスによる肺炎などの疾患名を COVID-19(コービッド・ナインティーン)」と命名」「2月13日、新型コロナウイルスによる初の国内での死者が発生、80歳代女性」
 感染経路の詳細な探索がなされる中、感染経路不明の感染者が徐々に増えたために、日本では、流行を避けるのは困難として、水際対策から検査や治療ができる病院をふやし、重症者を減らす方へと方向変換をしました。
 横浜港に碇泊している客船には乗客・乗務員合わせて約3,700人が乗船していましたが、香港で下船した乗客がCOVID-19に感染していたことがわかり、乗客により日本国内にウイルスをもたらすことが危惧されたために、14日間、船内に留まる事になりました。船の中でも乗客同士の接触を少なくする為に客室から出ることを制限するなど感染拡大を予防する措置がとられましたが、船内では次々と感染者が発生し、人々を不安に陥れました。2週間の期限がきて乗客は自国に帰る事になりましたが、自国でもさらに2週間の行動制限の措置が取られるようです。
 これまで人類を含め生物全般は多くの病原菌にさらされてきました。それらの病原菌への抵抗力・免疫力を獲得した者が生き残ったのです。今回のウイルスも、地球上の常在微生物として、住み続けることになるでしょう。今は、一日も早く、流行が終熄し、工場が再開し、物流や経済活動が正常に復帰するのを祈るばかりです。

 
小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.
小田眼科ニュース医心伝信
第361号2020年2月号「男女平等 ジェンダーギャップ」の話



 「セクハラ」「パワハラ」などの新聞記事を目にする度に、どうしてこのようなことが繰り返されるかと考えます。「こんなことを言うとセクハラになるか」と、あたかもセクハラは「濡れ衣」であるかのように考える鈍感な男性が多いのですが、セクハラ発言や行動に鈍感なのは女性を軽く見ているからです。とくに、ある程度の年齢で、それなりの地位にある男性のセクハラ言動に対する鈍感さは、他者に対する配慮のなさを感じます。

 それで、今月は、「男女平等 ジェンダーギャップ」についての話です。
 
 昨年末、世界経済フォーラムは、世界各国の男女差の度合いを示す2019年版の「ジェンダー・ギャップ指数」を公表しました。それによりますと日本は、調査した153カ国中121位と、過去最低になりました。日本は先進7カ国の中で最も低いばかりでなく中国や韓国よりも低い順位となりました。
日本で、AI分野で働く女性は22%で、他産業と比べて3倍近く女性が少ない上、同じスキルや知識を持っていても、女性はデータ入力やデータ集めなどの単純作業に従事している人が多い一方、男性は専門性の高い仕事をしている人が多いことが分かりました。AI分野は新しい職業分野で、これからの成長が期待されていますが、今、その分野で働く女性が行っている仕事はAI操作のスキルが期待されているだけで、AIの仕組みや開発・発展に関する専門性が期待されない分野への進出です。このことは、かつての花形職業であった大企業に勤務するOLの主な仕事が「文書コピーとお茶くみ」だったことを思いださせます。未来のジェンダー・ギャップ拡大につながるのを懸念します。
「ジェンダー・ギャップ指数」は、経済、教育、健康、政治の4分野14項目で算出されます。指数が1に近いほど男女平等であることを意味します。
 総合ランキングでは、アイスランドが1位、ノルウェーが2位など北欧勢が上位を占めています。ドイツが10位、米国が53位、中国106位、韓国108位、アラブ首長国連邦120位、そして日本は121位です。
 日本は教育、健康の2分野での男女差は少ないのですが、経済と政治の分野での男女差が大きいのです。日本の衆議院で女性議員が占める割合は10%弱と世界最低で、政治分野での日本の男社会ぶりが際立っています。
 明治時代に福沢諭吉は女性の社会的地位の低さを問題視し、その著書『新女大学』で「兎にも角にも今の女子をして文明普通の常識を得せしめんと欲する者なり。ことに我輩が日本女子に限りてぜひともその知識を開発せんと欲する所は、社会上の経済思想と法律思想とこの二者にあり。その思想の皆無なるこそ女子社会の無力なる原因中の一大原因なれば、何はさて置き普通の学識を得たる上は同時に経済と法律の大意を知らしむること最も必要なるべし」と述べました。大正時代には渋沢栄一も「女性の教育は進歩したが、新しい教育を受けた者はわずかでしかなく、社会における女性の実体は江戸時代の『女大学』から出ていない。いまだ女性教育は過渡期の段階である。女性を道具扱いしてはいけない、女性も重んぜられるべきであり、これからは女性教育を活発化させ、人口の半分たる女性を活用すべき」と論じました。
 100年前の1919年に平塚らいてう、市川房枝、奥むめお等が「新婦人協会」を立ち上げ、女性の参政権獲得、働く女性支援、消費者運動などを始めました。この活動は3年しか続けられませんでしたが、治安警察法の一部改正に成功し、女性の政治的権利獲得に成功した戦前唯一の婦人団体として、大きな足跡を残しました。
 現在でもハリウッドの女優たちが声をあげた「#MeToo」運動が話題になっていますが、男女差・女性蔑視は、私たち女性の大きな関心事です。

 
小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.
小田眼科ニュース医心伝信
第360号2020年1月号「日本の人口 人口減少社会」の話



 今月号でこの「ニュース 医心伝信」は360号となり、30年目を迎えました。読んで下さる方に感謝しつつ、もう少し書き続けたいと願っています。
 日本の人口は江戸時代の後期から、約一世紀に亘って増え続けてきましたが、2011(平成23)年には26万人、2019(令和元)年には51万人の減少となりました。
 最近『2025年問題』という言葉を良く聞きます。2025年問題とは第二次大戦後のベビーブーム時代に生まれた世代が75歳以上になる2025年ごろから起こると予測されるさまざまな問題を指します。2025年には約800万人が75歳以上(後期高齢者)になると推定されますので、現在の後期高齢者数と合わせて2,200万人以上、国民の4人に1人が後期高齢者となります。高齢者が増える一方で若年層の人口が減少し、少子高齢化はさらに加速し、経済はもちろん医療や社会保障などを若い世代だけでは支えきれないと心配されています。

 それで、今月は、「日本の人口 人口減少社会」についての話です。

 歴史人口学の知見によりますと、これまで日本列島は縄文時代から過去1万年間に4回、人口の増加と停滞を繰り返しながら増加してきました。人口変動のきっかけとなったのは利用できる「エネルギーの転換」でした。食糧を狩猟・採集のみに頼ってきた社会が農業を知り、動物や植物を利用して多くの食糧を得る事により、多くの命を養うことができるようになり、人口が増加しました。次に、科学技術の進歩により、地下に埋蔵されていた石炭・石油に代表されるエネルギー資源を利用する事で、経済成長と人口増加を可能にしました。
 しかし、石炭や石油は数億年前の地球に存在した生物に由来するエネルギー資源で、親から子へ伝えられる遺産のようなものです。これを使い切ってしまったら次の世代はどうするのでしょう。
 二十世紀はこれらの地下資源を利用することで起きた機械工業の発展と人口爆発とも言える人口増加の世紀でした。1998年に地球上の人口は98億人を記録しました。この人口爆発は先進国の人口減少(少子高齢化)と発展途上国の人口増加とで現在も続いていますが、発展途上国の多産・多死は長い時間をかけて、先進国並みの少子高齢化に移行し、世界人口は停滞し、さらに減少に向かうと予想されています。
 人口は自然環境の変動の影響を受けると共に、文明システムの転換や国際関係の変化にも密接に関連します。新しい文明システムは食糧生産力の向上と居住空間の拡大によって人口増加に対応します。しかし、人口が上限に達すると、人口停滞、さらに人口減少へと転じます。これが、現在の人口減少の流れです。
 次の文明システムがどうのようなものかは予想できませんが、これまでの研究がそれを予言しています。
 いずれにせよこれから起こる資源と人口との不均衡で生じる問題を避ける一つの手段(避妊)を人間は獲得しました。人間の生と死に関する裁量の度合いが大きくなりました。居住空間の拡大は宇宙がいくらかの役割を担えるかも知れません。
 今、日本では少子による人口減少のマイナス面のみが強調され、出生率を上げる方策や外国人労働者受け入れなどが検討されていますが、人口変動の歴史から言えることは現在の出生率低下は人口転換の最終局面へ向かう予定されたプロセスです。これまで人間はいくつかの変換点で、生活程度を落とさないように、その時得られる手段(非婚、堕胎、間引き、時には戦争など)で人口を調節して生き延びてきました。
 次の文明の変換点、エネルギー革命が訪れるまで、人類はさらに人口を減らし、生き延びると予想されています。確実に人口を減らすのに有効な手段は戦争ですが、そのような事態にならないように願っています。

 
小田眼科医院理事長 小田泰子
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小田眼科ニュース医心伝信
第359号2019年12月号「ベルリンの壁崩壊とその後に残った格差」の話


 11月9日で「ベルリンの壁」が壊されてから30年目になりました。ベルリンの壁とは1961年から89年までの28年間、ベルリン市内に設置されていた壁です。
 第二次世界大戦で敗北したドイツは、1946年から「ヤルタ協定」によってアメリカ、フランス、イギリス、ソ連の4か国によって統治されることになりました。米仏英の自由主義陣営によって統治されたのが、西ドイツ。ソ連による統治を受けたのが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)でした。
 東西に分断された後、間に置かれた検問所を通って、毎年15万から30万人の東ドイツ国民が西ドイツに流出しました。その数は、東ドイツ人口の約15パーセントに上ったとされています。西ドイツに逃れた人の多くは、25歳以下の若者や、医師や技術者・熟練技術者などの頭脳労働者でした。このことは東ドイツ経済や社会層に大きな影響を与えました。
 東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、東西ベルリン間の通行をすべて遮断する有刺鉄線の「壁」をベルリン市民が寝静まっていた深夜に作りました(後にコンクリート)。
 翌朝、突如現れた壁に人々は混乱に陥りました。それまでは東ベルリンに住み、西ベルリンに職場がある人々もいましたし、たまたまその日に旅行で東西の境を越えていた人もいました。この結果、多くの人が帰宅できなくなったり、学校や職に行くことができなくなりました。この壁を越えようとした人が射殺されるなどの混乱と悲劇が起こりました。
 この壁は、1989年11月9日に壊され、東西ドイツは再び一つの国になりました。

 それで、今月は、「ベルリンの壁崩壊とその後に残った格差」の話です。

 ベルリンの壁崩壊から30年になる11月9日にケーラー駐日ドイツ総領事はベルリンの壁崩壊によって、東西の全てが同じになったわけではないとしつつも、東西ドイツ統合は「20世紀の政治的なプロセスの中で、最も幸せなものの一つに数えられると思う」と評価しました。しかし、世論調査では旧東ドイツ人の複雑な感情が伺えます。統合の結果、社会主義政権の下にあった旧東ドイツ人は言論の自由、移動の自由、経済水準の向上などを得はしましたが、「自分はドイツ人」と答えた人は旧東ドイツでは44%に留まり、47%の人は「自分は東ドイツ人」と答え、旧西ドイツの人の約70%は「ドイツ人」と答えたそうです。
 また、ドイツ政府が旧東ドイツ人を対象にした調査では、57%は自分を「二級市民」と感じており、「統一は成功した」と答えた人は38%でした。
 統一後、旧東ドイツにあった多くの企業が倒産し、西側の企業に買収されました。その結果、東ドイツ圏で失業者が増え、その多くは西側に移住しました。
 今、ドイツの政界や学界で要職を占める人の大半は旧西ドイツ出身者で、主要な大学の学長で旧東ドイツ出身者はゼロ。連邦政府の大臣で東ドイツ出身者はメルケル首相とギッファイ家族相だけということです。このような格差が生じた原因として「変化を求める若く知的な層が東を去り、代わりに西からきた人たちが指導的地位を占めていった」ため、と分析されています。
 東ドイツに残った人たちは統一後の混乱を経験し、西ドイツから来た人々に従わせられ敗北感を味わいました。
 「東独時代はカネはなかったが、物は安く、皆幸せだった」と回顧する人もいるそうです。被支配者に自由を与えず服従を強いる社会主義体制は停滞をもたらし、自由な競争社会である西側に対抗する力を弱めるようです。
 今も、中国と香港、北朝鮮と韓国など、一つの国で、体制が異なるところがあります。もし、これらが統合されたらどんなことが起こるか、興味深いことです。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第358号2019年11月号「地震雷火事親父 令和元年台風第19号」の話


台風に続き、昨日は首里城の火災がありました。見事に焼失してしまい、本当に残念です。
 台風19号は、2019年10月6日にマリアナ諸島東の海上で発生し、12日に日本に上陸し、関東・甲信地方、東北地方などで記録的な大雨となり、甚大な被害をもたらしました。
 2018年に気象庁が定めた「台風の名称を定める基準」によりますと、この台風は浸水家屋数が基準に相当する見込みとなり、「沖永良部台風」以来42年ぶりに「令和元年台風第19号」と命名される見通しとなりました。
 政府はこの台風の被害に対し、激甚災害の指定を行ったほか、台風としては初となる特定非常災害に認定しました。また、災害救助法適用自治体は10月19日現在で13都県の317市区町村となり、東日本大震災を超えて過去最大の被害をもたらし、今後も被害は増える見通しです。

 我が国は、その位置、地形、地質、気象などの自然的条件から、台風・豪雨・豪雪・洪水・土砂災害・地震・津波・火山噴火などによる災害が発生しやすい国です。
 世界全体で日本が占める災害発生割合は、マグニチュード6以上の地震回数は、20.8%、活火山数は、7.0%、死者数は、0.4%、災害被害額は、18.3%などと、日本の国土面積が、世界の0.25%に過ぎないのに比して、災害発生と被害が非常に多い国なのです。
 古くから日本では大変恐ろしいとされているものを、その順に並べて「地震雷火事親父」といわれてきました。

それで、今月は、「地震雷火事親父 令和元年台風第19号」の話です。
 
 この中で「親父」は、男性優位の家父長制のもとで持っていた権威を失ったとも言われます。しかし、地震雷火事についてはまだ、その脅威の座を維持しています。
 日本は、おおむね温帯に位置し、春夏秋冬のいわゆる四季がはっきりしている国です。
 春から夏への季節の変わり目には、梅雨前線が多量の雨を降らせます。また、夏から秋にかけて、熱帯域から台風が北上し、年平均10.8個の台風が日本近辺に接近し、そのうち約2.6個が日本に上陸し、大雨や、暴風雨による被害をもたらします。 立春を起算日として210日目にあたる9月1日ごろは、台風襲来の特異日とされ「二百十日」として記憶されています。
また、日本はもともと地形が急峻であるために河川は急勾配で流れ、一度、大雨が降ると急激に河川の水量が増し、堤防の決壊、洪水などの災害が起こりやすいのです。また、洪水時には河川水位より低くなる河口に近い沖積平野に人口が集中しているために、河川の氾濫等による被害をさらに大きくしています。
また、日本は、地震や火山活動も活発であるという国土条件に、台風や豪雨、豪雪に見舞われやすいという気象条件が加わり、土石流、地すべり、がけ崩れ等の土砂災害が発生しやすい条件下にあります。特に、近年は、森林や傾斜地又はその周辺の開発が進み、人がそこに住み始めていることもあって、土砂災害による犠牲者は、自然災害による犠牲者の中で大きな割合を占めるようになりました。
さらに、日本は海洋プレートと大陸プレートの境界に位置しているため、プレートの沈み込みにより発生するプレート境界型の巨大地震、プレートの運動に起因する内陸型地震が発生しやすい上に、四方が海に囲まれ、海岸線が長く複雑なため、地震発生時に津波が発生しやすい地形となっています。
その上、日本は、環太平洋火山帯に位置しており、全世界の約7%にあたる108の活火山があります。 
 まさに災害大国日本です。この国に住む覚悟を新たにしました。

小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.