仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

小田眼科より、毎月発行しているニュースを載せています。

平日朝8時からの早朝診療を2009年12月から始めましたが2017年1月末で終了しています。

眼科の診療時間、場所の地図をひとつの記事にまとめました。
FC2ブログより引っ越しました。           
2006年(平成18)11月1日より病院住所が変わりました。電話番号は変更ありません。
 
小田眼科医院                              
住所:仙台市青葉区八幡2-1-23
電話番号:022-234-7408
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         第376号        2021年 5月号

 庭に一本の赤松があります。亭々と大空に伸び、毎年大量の松葉と松ぼっくりを落します。大木ではありますが、木陰を作らず、まっすぐに伸びている様は逞しく、私どもを見守ってくれているように感じ大事にしています。
 ここに住み始めて50年を超しました。毎日目にしてきた松ですが、ある日、ふと、少し太くなったように感じました。
 この松の樹齢を知りたいと、調べました。松は年に一本枝を出すので、枝の数を数えれば樹齢が分かるというのですが、とても数えきれません。また、松の成長は、環境によって変わりますが、毎年0.5から1センチくらい太くなるということが分かりました。根元から1メートルのところの幹の直径で大凡の樹齢を知ることができるという事です。早速、測りまして、樹齢200から250年くらいかと判定しました。

 それで、今月は、

  「赤松が見た時代」
                          の話です。

 仙台藩の藩祖・伊達政宗は慶長6(1601)年に、居城を仙台に移し、城と城下町の建設を始めました。この松がここに根を下ろした頃の仙台藩当主は第7代藩主・伊達 重村でした。重村は宝暦6(1756)年に家督を相続しましたが、襲封早々、前年に発生した「宝暦の大飢饉」による、藩財政悪化への対応を巡って、藩内で意見が対立する「宝暦疑獄」が発生しました。この疑獄問題が漸く解決に向かったのち、重村は藩財政の建て直しに取りかからずに、薩摩藩主・島津重豪への対抗意識から猟官運動に莫大な資金を投じ。藩の財政をますます逼迫させました。このような中で、重村は藩校・養賢堂を拡充させました。
 当時、徳川幕府の征夷大将軍は第10代藩主・徳川家治でした。家治の幼名は竹千代で、幼少時よりその聡明さから、第8代将軍であった祖父・吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育ちました。吉宗の長男で第9代将軍となった家重は、生来虚弱で、脳性マヒによる言語障害があり、発音が不明瞭であったために、大奥にこもりがちだったと伝えられています。
 吉宗は家重の長男で孫の家治に期待し、家重には伝えられなかった帝王学等を家治に教える、一方では幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、市民の意見を取り入れるための目安箱を設置するなど「享保の改革」を実行しました。
 吉宗は長男・家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから「米将軍」とも呼ばれています。
 家重の時代の初めは吉宗が残した遺産がありましたが、宝暦5(1755)年の凶作をきっかけとする増税策により百姓一揆が続発しました。
 家重の後を継いだ家治は文武に明るく学芸の才能にも恵まれました。父・家重の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励み、祖父・吉宗以上の名君たらんと努力しましたが、次第に幕政に興味を失い、晩年は老中・田沼意次に幕政を任せ、自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなったといわれています。
 家治は将棋七段の免許をもっており、棋譜も残っているそうです。関西棋院は「周囲が若干緩めて対局している風が棋譜から感じられ、実力七段は疑問ではあるが、 現在のアマ高段の力は十分にある」としています。詰将棋作家として名高いプロ棋士の二上達也は、家治の将棋は「所詮は旦那芸」と切り捨てましたが、詰将棋については「他の追随を許さぬ名作・好作を残している」と評価しています。
 しかし、家治の将棋マナーは悪く、対局中に、待ったをして、駒を元に戻したとも伝えられています。

 この樹はこのような時代も見てきたのか、長命であって欲しいと願っています。

仙台市青葉区八幡2-1-23 ℡ 234-7408 小田眼科医院 小田泰子
小田眼科ニュース 医心伝信 
         第375号        2021年 4月号

 今年の大河ドラマ「青天を衝く」は幕末から昭和初めに活躍した渋沢栄一の話ですが、栄一は埼玉県の藍農家生まれであったことを知りました。
 藍はタデ科イヌダテ属の一年草であるタデ藍の葉から作られます。藍は古くから各地で栽培されてきましたが、江戸時代に徳島藩の蜂須賀家がこれを奨励して、阿波藍として良質のものを生産し、全国に売り出しました。藍は徳島県の特産品になりました。

 それで、今月は、

  「藍」
                          の話です。

 紀元前3000年のインダス文明の遺跡から藍染めのための染織槽跡が発見されました。これが、藍に関する世界最古の記録といわれています。
 紀元前300年頃にはシルクロードを藍染の布が盛んに往来していたとされ、インドやエジプトを中心に世界各地に藍が流通していました。
 日本における藍は、奈良時代まで遡ります。藍は唐から朝鮮半島を経て伝来され、シルクロードの終点である法隆寺や正倉院には藍染めの布類が、多数保存されているそうです。その藍はタデ藍です。藍には多くの品種がありますが、それぞれの土地に地藍といわれる藍があります。
 藍の色素はインディゴといわれる紺色で、本来はインドで栽培される藍からとれる天然藍(インド藍)を指し、「インドからきたもの」という意味です。
 紺よりもさらに濃い、黒色に見える暗い藍色は「かちいろ」と言われました。色名の「かち」は、藍を濃く染み込ませるために、布などを「搗(かつ=叩く)」ことからきており、『搗色』『褐色』の字があてられました。
 鎌倉時代には濃い藍染が好まれ、色名の「かち」に「勝」の字をあてました。日清・日露戦争時の軍服は『軍勝色』に染められました。
 江戸時代に入ると、木綿の普及に伴い、幅広く藍染めが使用されるようになりました。中でも徳島の藍玉「すくも」はインディゴ色素の含有量が高い高品質の「阿波藍」として別格の扱いを受け、明治中頃には全国市場を席巻し、生産量もピークを迎えました。
 藍の栽培は3月から始まり、6月頃には収穫が可能になります。刈り取って、葉だけを乾燥し、発酵させ藍染めの染料「すくも」(藍玉)を作ります。「すくも」を作る人を藍師といいます。
 藍の生産は手間がかかる上に,多くの肥料が必要でしたので、安価な化学染料の普及に伴い、明治30年代から衰退の一途を辿りました。
 しかし、近年は、天然藍が持つ美しさや風合いが見直され、世界中でブームが起ころうとしています。衣類はもちろん皮製品、壁紙、床材などに使われるばかりでなく、藍葉を使用した青汁やハーブティー、サプリメント、健康食品、クッキー、化粧品などが開発されています。
 
 「出藍之誉」(弟子が師よりもすぐれた才能をあらわす)
 「青はこれを藍より取りて藍よりも青し」(『荀子』勧学)
 などの格言もあります。
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         第374号          2021年 3月号
3月を迎え少し春めいて参りました。
 これが小田眼科ニュース最終号となります。長い間のご愛読を感謝申し上げます。

 今月は、

  『小学校の「さんすう」と数学記号』
                          の話です。

 わが国における学校教育制度は、明治5(1872)年8月の「学制」の発布に始まりました。
 「学制」というのは明治政府が定めた学校制度や教員養成に関する基本的な規定で、学制頒布の前日に出された太政官趣意書では「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」と高邁な目的を述べ、学校で学ぶことにより、身分や階級、男女にかかわらず、人生の成功を約束するものであり、「学問は身を立るの財本」であるとしています。
 
 しかし、国民の理解はなかなか得られませんでした。国民皆学の原則がうたわれはしましたが、教育にかかる費用は、国民自らが負担することになっていました。当初の構想は日本全体を大学区、中学区、小学区に分け、小学校は人口 600 人に一校、中学校は人口 13 万人に一校の割合で設置するというものでした。
 欧米の教育制度を模範に定められた学制でしたが、民情・文化の異なる日本で画一的に実施するには、学校の運営に要する地方の経済的な負担が大きく、地方の事情が十分に考慮されていませんでした。文部省は明治10(1877)年に学制の改正に着手し、学制に代わり教育令を公布しました。
 このような問題はありましたが、学制発布から数年後には全国で2万校以上の小学校が整備され、約40%の就学率が達成されました。
 また、当時は教科書がありませんでした。小学校用の教科書は、それまで寺子屋で使われていた『四書五経』や『往来物』ではなく、福沢諭吉や箕作麟祥など、文明開化に指導的な役割を果たした啓蒙家の著書・訳書を採択し、合理主義的な思想に基づき教育の刷新を計ろうとする意欲的なものが作られました。
 また教育方法も改まり、寺子屋での個別教育に代わり、等級別の一斉教育が行われ、今日、見られるような授業スタイルになりました。
 特に「さんすう」は、寺子屋で教えられていた「和算」ではなくて「洋方」を教えることになりました。これにより数学記号が正式に採用されました。当時の教科書には、最初のページから「1+1= 」というような問題が並んでいます。
 和算では「1に2を足すと3になる」と言葉で表現し、算木を使って数を表していました。それに比べると、洋方の 1+2=3 と数学記号を使った数式では、学年が進み、記号が多様になるに従い、記号が意味するものを理解できず、数学を苦手とする子どもが増えました。
 数学教育をどのようにしたら良いか、数学教育関係者間で、問題となりました。当時の教科書は『黒表紙教科書』といわれていましたが、その批判に答え、文部省は『緑表紙教科書』を作成しました。学校で洋方の数学を採用してから63年後の昭和10(1935)年の事でした。その教科書では+、-、=などの数学記号は一切使わず、ひたすら色や形の違う花や丸などを数えるものでした。数学記号が全くない『緑表紙教科書』を見たときに違和感をもつと同時に、何年生になったら数学記号を教え始めるか興味を持ちました。
 今は小学校入学準備のための『算数ドリル』があります。それを見ますとドリルの初めのうちは、丸や花などがいくつあるかを数え、その答えを数字で書き込みます。本の中程になって始めて、数学記号を使った数式が出てきます。このやり方はこれからも変わる可能性があります。教育は奥深い、と改めて認識しました。

仙台市青葉区八幡2-1-23
℡ 234-7408
小田眼科医院理事長 小田泰子

小田眼科ニュース医心伝信
第373号2021年2月号「これから、私がしたいこと」の話


 二月、一年で最も気温の低い月を迎えました。
 色々な事情が重なり、3月で小田眼科を閉院する決心をしました。以来、毎日の過ぎるのが早いこと。一日はあっという間に終わり、一週間も瞬く間、という印象です。
 閉院を公表してから多くの患者さんに、ここがなくなったらどこへ行ったら良いか、先生とお喋りができなくなるのが淋しい、すでにいなくなった家族、今は仙台を離れている家族がここで診療を受けたなど、色々なお話を伺い、本当に長い間この地でお世話になったことを思い、改めて感謝しています。

 それで、今月は、

  「これから、私がしたいこと」
                           の話です。

 健康でいられたら、ルーツを探りたいと考えています。
 私の先祖は父方、母方共に四国から北海道へ移住してきました。父方の祖父母は香川県の引田から北海道の美唄へ来て商店を開きました。母方の祖父母は、徳島県の羽ノ浦から石狩川縁の農場に入り開墾を始めました。
 その数年前に羽ノ浦から北海道へ移住した人たちがいて、その人を頼っての移住でした。羽ノ浦の近くを流れていた那賀川が氾濫して、川の工事のために土地が削られ、もともと狭い土地でしたので、農業を続けられなくなり、やむなく北海道へ渡る決心をしたようです。明治27年3月のことでした。
 北海道の夏は短いからと、3月に北海道へ来て、原始林の樹を切り開墾の準備をしましたが、雪が解けたら、地上2mの所に切り株が並んでいたという話が残っています。幸いなことに土地の地味は豊かで、その年は肥料を何も使わずにハダカムギ、イナキビ、ジャガイモ等が大量に収穫できてほっとしたという事でした。
 北海道へ来てからも石狩川は数年に一度、氾濫し、家も家畜も作物も流されるということを経験しましたが、そこに留まりました。石狩川縁の土地は湿地でしたので、まだ雪がある頃から近くの山の土を運んで耕作地に入れました。これを客土と云いますが、客土をする事で、田んぼの雪解けが早まるという利点もありました。春先、馬を使って大量の土を運び、田んぼに撒く叔父の姿が眼に焼き付いています。このように北海道で米作ができるようになるまでには多くの苦労がありました。
 北海道の農業指導のためにアメリカから来たクラークさんたちは、北海道のような寒冷地での米作は不可能と断定して麦を植えることを勧めました。米がなければパンを食べれば良いと考えたのです。しかし、農民は米作にこだわりました。四国で米を栽培した経験もありました。また、例え、米を植えて米が採れなくても、稲わらには蓑、俵、縄、敷物、カーテン、馬の飼料など無限の利用価値がありました。
 このような努力が実って、今では石狩川の両岸は北海道で最も豊かな米穀地帯になりました。その原点ともいえるのが「きらら397」でした。「きらら397」は粒がしっかりとしていて汁気の多い食材と組み合わせても「ふやけ」ないことから、牛丼チェーンの吉野家などが業務用米として用いるようになったのです。
 しかし、「きらら」は誕生から既に30年以上が経過しました。北海道の農家は高価格の「ゆめぴりか」や「そらゆき」へ生産を置き換えつつあります。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第372号2021年1月号「全国の小学校で35人以下学級」の話



 昨年末に、来年度予算案をめぐる閣僚折衝が行われ、萩生田光一文科相と麻生太郎財務相が、公立小学校の1クラスの人数を25年度までに全学年で35人以下に引き下げることで合意しました。中学校については今後の検討課題となりました。
 現在の規定では小学1年生のみが35人で、小学2年生から中学3年生までは40人学級となっています。文部科学省は来年の通常国会に義務標準法の改正案を提出することになります。
 仙台市では、仙台市長の郡 和子氏が市長立候補中の公約を守り、すでに、平成30年4月から、35人以下学級を中学校2年生まで実現しています。

 それで、今月は、「全国の小学校で35人以下学級」の話です。

 1958年に成立した義務教育標準法では、1クラス当たりの上限人数を50人と定めましたが、1980年度に一律ではなく「45人から40人」と幅を持たせて引き下げました。さらに民主党政権下の2011年度には小学1年生のみ35人に引き下げましたが、財政難を理由に他の学年では据え置かれました。
 今回の定数一律引き下げは約40年ぶりのことです。来年度は小学2年生を35人とし、5年かけて段階的に引き下げ、25年度に全学年で35人学級となる予定です。
 これまで、教員が一人一人の子どもと向き合う時間を確保し、きめ細かな指導をするため、少人数化への要望が強かったのですが、財政難を理由に受け入れられませんでした。
 少人数学級が成立する追い風になったのは、新型コロナウイルスの流行でした。感染防止のため教室での三密を避ける必要が叫ばれ、与野党や全国知事会、小中学校の校長会など23の教育関連団体が、少人数化は不可欠と訴えました。
 今回の決定で、2025年度までにすべての公立小学校は全学年で35人学級が実現する事になりましたが、中学校の少人数学級はまだ認められていません。
 経済協力開発機構(OECD)が2年前に実施した調査では、日本の小学校教員の仕事時間は週54時間、中学校教員は週56時間で、ともに世界最長でした。その長時間労働の主な要因は書類作成や部活動の指導など授業以外の業務でした。
 さらに近年は、情報通信技術を授業に活用することが求められるなど教員が担う業務は増加傾向にあります。1学級で5人減ったからといって仕事量が激減するわけではありません。「きめ細かな指導」には多忙解消が不可欠です。
 小学校を35人学級にすることで、教員を5年間で約1万4千人増やす必要があります。18年度の小学校教員採用試験の競争率は全国平均で2.8倍と過去最低でした。この教員希望者の少なさは長時間労働と無関係ではありません。
 また、教員の数だけではなく意欲と情熱をもって子どもと向き合う教員の確保が重要です。
 日本では教員の数はクラスの数で決まる仕組みのため、少人数学級にしないと教員の定数を増やすことができません。貧困、虐待、発達障害など手厚い支援が必要な子どもは急増し、教員に求められる仕事は増え続けています。これまで、文科省は教員を増やそうとしてはきましたが、増やせたのは1年任期の非正規教員のみでした。非正規の教員では担えない仕事が多く、今や小学校で3割強、中学校で6割弱の正規雇用の教員が過労死ラインとされる長時間労働を余儀なくされています。
 文科省や教育関係者から「少人数学級の成功は大きな一歩だ」という声もありますが、質の高い教員や教室数の確保、教育・労働環境の改善など、まだ教育には多くの課題が残されています。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第371号2020年12月号「抗体」の話



 世界中の注目を集めたアメリカ大統領選挙期間中に起きた最大のハプニングはトランプ米大統領の新型コロナ・ウイルス感染でした。
 トランプ大統領は10月2日に首都ワシントン郊外にある軍の医療センターに入院しました。入院前にホワイトハウスで酸素吸入を受けていたと報じられました。その後、症状が改善し、3日後の10月5日夕方には退院を許可されました。
 高齢男性で肥満もあるということで医師団は、経過観察は怠れないと心配をしたようですが、大統領は退院後直ちにハードなスケジュールの選挙運動を開始されました。映像を見ている限りでは、体調に問題があるようには見えませんでした。これによって、大統領はコロナ感染は怖くないという自論を、身体を張って立証された事になりますが、世界では、まだまだ油断はできない状態です。
 大統領の治療に抗体が使われ、それが有効だったとのことでした。

 それで、今月は、「抗体」の話です。

 トランプ大統領に使われた治療薬の一つが「モノクローナル抗体カクテル」と呼ばれる薬剤でした。
 この抗体は、新型コロナウイルスに対して素早い反応を免疫系に促すことを期待する医薬品です。基本的には新型コロナ感染から回復した人の血漿を用いる治療法と似ていますが、大統領に使われたのはヒトの血液から作られたものではなく、バイオテクノロジーによって作られた抗体だということです。
 一般に抗体の作用は二つあります。その一つは、ウイルスに取り付き、ウイルスが細胞内で増殖するのを防ぐ作用。もう一つは、病原体に印を付けて、身体が持っている免疫を担う細胞に病原体を攻撃しやすくさせる作用です。
 これと平行して、コロナに対して有効なワクチンの開発が今、世界中で進められています。ワクチンは、毒性がなくなった、もしくは弱められた病原体を接種することで体に抗体を作らせて、その感染症にかかりにくくする効果を持つ医薬品です。
 となりますと、患者の体内に直接、有効な抗体を入れる事ができれば、より効率のよい治療法ということになります。
 この抗体を作ったのはアメリカのリジェネロン社ですが、その最高経営責任者は「トランプ氏の免疫系は、今、ウイルスと闘っていて、もしウイルスが勝てば悲惨な結果になる恐れがあります。私たちが作る抗体は、その闘いで免疫系が有利になるようにするのです」と説明しました。
 新型コロナ回復者の血液中には、いろいろな種類の抗体が含まれるのに対して、モノクローナル抗体にはコロナ・ウイルスだけを攻撃する一つの抗体だけしか含まれていません。
 しかし、この治療の問題点は、これまでに2000人以上が臨床試験に参加し、安全であったとはいうものの、まだ完全に臨床試験が終わっていない薬剤で、安全性や効果がまだ十分に立証されていないため、未承認の薬剤だという点です。
 そのような薬をトランプ大統領に使うことを医師団が容認したということは、それだけ大統領の症状が危険だった事を意味するのかも知れません。
 トランプさんはアメリカ大統領選挙には敗北しましたが、コロナ・ウイルスとの戦いには勝ちました。世界的にはコロナの脅威は、まだ去ってはいませんが、コロナ・ウイルスの研究が進み、人類は対抗手段を得つつあるようです。
 11月15日に国際オリンピック委員会会長のバッハさんが来日され、菅義偉首相、森喜朗会長、小池百合子東京都知事らと会談されたのは、来年の東京オリンピック開催に何らかの成算を持たれたのか?とも憶測されています。




小田眼科医院理事長 小田泰子
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第370号2020年11月号「ネアンデルタール人とコロナ」の話





 今年も残り、60日余になりました。アメリカ大統領選挙とCOVID-19流行が最近の話題の中心です。どちらも大きな波乱含みのようです。
 自由の国、民主主義の国と信じてきたアメリカ大統領選挙の泥仕合ともいえる戦いの有様、あれがアメリカ社会の本当の姿、自由主義と民主主義の行きつく先なのかと考えてしまいます。大統領戦に勝つためのトランプさんのなりふり構わない行動を見ますと、大統領には、我々が知らない大きなメリットがあるのではないかと疑いたくなります。
 翻って戦後、アメリカをお手本にして自由主義、民主主義を国是としてきた日本の現在の政治や社会の有りようをみますと根は同じという危機感を覚えます。
 都合の悪いことには、一切、言い訳も、説明もせず、記録さえも抹消し「その問題は解決済み」と木で鼻をくくったような答弁をする最近の日本の政治家が、次ぎにはこのアメリカの選挙戦を真似るようなことにならないかと危惧します。
 最近、ヨーロッパでコロナウイルス流行が再燃しています。いまや、第一波を超える感染者と死亡者を記録し、外出禁止と移動の制限が宣言され、さらなる経済への影響が危惧されています。
 日本を始め東洋の国では割合穏やかな流行ですが、なぜヨーロッパの国々で大きな流行になるのかについて、ウイルスの種が違うからではないかと言われてきましたが、最近、イギリスの総合科学雑誌『Nature』に人種的な問題が疑われるという論文が掲載されました。

 
 それで、今月は、「ネアンデルタールとコロナ」の話です。


 ネアンデルタールとは化石人類の一つで、二万数千年前に絶滅したとされていた種で、その絶滅原因はクロマニヨンによって亡ぼされたとか、クロマニヨンが持って来た感染症に罹って絶滅したとか諸説ありました。
 もともとネアンデルタールと現在の人類(ホモ・サピエンス)とは、遺伝子上、大きな差異があり、その差は動物で言えば別種とされる程であるために、ネアンデルタールはホモ・サピエンスの祖先ではないと考えられて来ました。
 しかし、近年になって広い範囲でネアンデルタールの化石が見付かり、その分析と研究方法が進むと共に、ホモ・サピエンスとの共通性が指摘されるようになり、ネアンデルタールとホモ・サピエンスとの混血もあったと考えられるようになりました。ネアンデルタールの特徴は「白い肌、赤い髪、青い眼」で、いわゆるコーカシアン(コーカソイド)と共通性があるそうです。
 コーカソイドとは、カスピ海と黒海の間にある「コーカサス地方」から来た人を意味する言葉ですが、ヨーロッパ人とアラブ人がそれにあたるとされています。
 COVID-19が大流行する地域とそれほどの流行が見られない地域があることは以前から知られており、それがマスク・手洗いなどの予防をしているかしていないかのみで起きる差とは考えられ無いために、異なるウイルスによるのではないかという疑問が持たれていましたが、その原因がウイルスにでは無く人にあるのではないかという内容だということです。
 6月には一時終息に向かっていた世界、特にヨーロッパでコロナの流行が再燃しています。10月末には、世界の感染者数は4億人を超え、死者は110万人を超えました。フランスでは10月15日の新規感染が前日より2万人以上多い3万人を超し、マクロン大統領はロックダウンを再度実施しました。
 ヨーロッパに於ける大流行再発の原因がゲノム配列が異なるという人種的な問題にあるとすれば、日本とは規模の異なる流行の差に納得がいきまが、詳細な報告と共に有効なワクチンや薬剤の開発が待たれます。




小田眼科医院理事長 小田泰子
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第369号2020年10月号「高齢者が被害者となる詐欺事件」の話





 暑い夏、酷暑の夏が終わり、ほっとしましたら、夕暮れが早くなっていました。9月22日は「秋分の日」でした。これからは12月21日の冬至まで、少しずつ昼が短くなっていきます。
 安倍晋三前首相の体調不良による辞任を受けて、長年内閣官房長官として安倍政権を支えてこられた菅 義偉氏が9月14日に自民党総裁となり、21日には第99代内閣総理大臣に選ばれ、22日には組閣を終え皇居で認証式が執り行われました。あっという間の早変わり劇でした。
 その少し前に、立憲民主党と国民民主党などでつくる合流新党が誕生しました。合流新党に参加したのは149名の国会議員で、9月10日に代表選が行われ、枝野幸男氏が代表に選出され、党名は立憲民主党に決まりました。
 このように、9月に入ってから、与党、野党共に大きな変化がありましたが、できあがった姿には余り新鮮味はないように感じられます。コロナ禍の中で政治の空白は許されないということで、ソソクサと物事が進んだようです。
 コロナ流行も少し下火になり、政府もステイ・ホームから Go To トラベル・キャンペーン、スポーツイベントも無観客から一般客観戦へと動き始め、催し物も一か所当たりの人数制限が緩和されつつあります。
 現在はコロナ流行の第2波にあると考えられますが、国立感染症研究所が第一波(5月)の死亡率は7.2%であったのに対して、第二波(8月)は0.9%と低下したと発表しました。ウイルスの毒性が低下したのではなく、無症状や軽症の感染者が多かったのが一つの原因と分析しています。
 

 それで、話は変わりますが、今月は、「高齢者が被害者となる詐欺事件」の話です。


 最近、高齢者が被害者となる特殊詐欺事件が増加しています。特殊詐欺とは、犯人が電話などで親族や公共機関の職員等を名乗って被害者を信じ込ませ、現金やキャッシュカードをだまし取るオレオレ詐欺や、医療費の還付金が受け取れるなどと言ってATMを操作させ、犯人の口座に送金させる還付金詐欺などのことです。
 いずれもニュースなどで見聞きしており自分が被害者になるとは、全く考えられないのですが、実際には多くの高齢者が騙されて、多額の被害を受けています。
 日本では65歳以上世帯の保有する貯蓄残高は総世帯の貯蓄残高の1/3を占めると推計されています。このような状況の中、高齢者の資産を狙う悪質商法や詐欺被害は、今後しばらくは増加し続けると予測されています。
 特殊詐欺全体における被害者の年齢構成は、70歳以上が約5割、60歳以上では約8割を占め、性別構成については、女性が約7割を占めています。女性が詐欺にあう割合が多いのは、日中女性が一人で家にいることが多いために電話による詐欺に遭うことが多いためと考えられています。
 また、振り込め詐欺の中でも融資保証金詐欺の被害は経営者が多い40、50代の男性被害者が目立ち、架空請求詐欺については幅広い年齢層が被害にあっていることからも、「誰もが詐欺の被害者となりうる」という認識を持つことが重要です。
 内閣府の「特殊詐欺に関する世論調査」によれば、「自分は(特殊詐欺の)被害にあわないと思う」と答えた人の割合は年齢を重ねるごとに高くなり、実際の被害の状況とは逆の傾向を示しています。自分は被害にあわないと思う理由を聞いたところ、約半数が「だまされない自信がある」と回答しており、この傾向は男性が女性より強く、高齢になるほど強まることも明らかになりました 実際、高齢被害者になった人の92%は「自分は大丈夫だと思った」「考えたこともなかった」と回答しているそうです。この「自分はだまされない」といった、自分自身の能力や性格に対する過剰な自信や楽観主義が被害者となる大きな危険因子です。気をつけましょう。




小田眼科医院理事長 小田泰子
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第368号2020年9月号「香港」の話




 1842年の南京条約(第1次アヘン戦争の講和条約)によって、香港島が清朝からイギリスに割譲され、イギリスの永久領土になりました。さらに、1860年の北京条約(第2次アヘン戦争「アロー号戦争」の講和条約)によって、九龍半島の南端がイギリスに割譲されました。1898年に、この両地域の緩衝地帯として「新界」が99年間、イギリスに租借され、この3地域(以後、香港と記す)は1997年までイギリスの統治下に置かれることになりました。しかし、1960年代に香港の水不足が深刻になり、中華人民共和国から香港に送水するパイプラインが築かれました。水問題がこの地域の運命に大きな影響を与えることになります。
 1982年、99年という新界の租借期限が終わりに近づいたころ、マーガレット・サッチャーの訪中に際し、鄧小平は「イギリスの永久領土である香港島や九龍半島の返還を求め、イギリスが交渉に応じない場合は、武力行使や水の供給停止などの実力行使もありうると示唆しました」。ここで、イギリスは譲歩しました。
 1984年「英中共同声明」が出され、「イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還」し、中国は香港を「中華人民共和国の特別行政区として独自の行政、立法、司法権を有し、中国本土では認められない言論・集会の自由や、通貨やパスポートの発行権を持つなど、外交・防衛を除く分野での自治を50年間維持する」と約束しました。この決定に不安を持った市民は香港を去り、一方で天安門事件後に、中国本土に住むのを良しとしない人々が香港に移住してきました。

 それで、今月は、「香港」についての話です。

 政治的動揺や住民の大量流出・流入にもかかわらず、中華人民共和国からの資本流入により香港の不動産市場や株式市場は空前の活況を呈しました。
 主権移譲後、中華人民共和国が香港の外交権と軍事権を掌握したために、人民解放軍部隊が香港に進駐しましたが、社会経済制度は返還以前と同様「一国二制度」が維持され、法体系もイギリス領時代のコモン・ローがそのまま用いられるはずでした。しかし、主権移譲後、中華人民共和国の中央政府による、新聞や雑誌などに対する有形無形の言論統制が行われるようになった上、選挙への露骨な干渉が行われるようになり、香港市民の不満が鬱積するようになりました。返還直前の香港市民の中にはイギリスの植民地から中国の植民地に変わるだけで政治的な転換はないとみる者もいましたが、現実はそうはなりませんでした。
 その様な中で、香港の新しい行政長官を決める選挙が2005年7月に行われました。この選挙に立候補するには中国当局の同意が必要であり、投票権は親中団体のみに与えられる構造となっていました。そのため香港市民は普通選挙を求めて、激しいデモを繰り返しています。香港特別行政区基本法には「2007年以降、直接普通選挙を実施」する可能性が記されていました。そのため、2007年の香港行政長官選挙では普通選挙が行われると市民は期待していました。ところが、全人代(中国全国人民代表大会)は「2007年以降とは2007年に実施するとの意味ではない」として、2007年の香港行政長官選挙では全人代の決定により曽蔭権氏が再選されました。
 直接選挙による行政長官選出など、民主化を求める香港市民による抗議デモが続いています。2017年には再び香港行政長官選挙をめぐって、中国中央政府が民主派の立候補者を排除する選挙方法を決定したことに抗議するデモに香港警察が、催涙弾や催涙スプレーを浴びせ、デモ参加者が雨傘をさして対抗した「雨傘運動」が起きました。その後も言論統制などに反対する香港市民の反政府運動と香港警察との対立は、コロナ流行にもめげず、徐々にエスカレートしているように見えます。
 隣国の状態、心配です。



小田眼科医院理事長 小田泰子
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小田眼科ニュース医心伝信
第367号2020年8月号「ペスト」の話



世界中で、COVID-19の流行が続いています。7月24日現在、世界では1日に20万人ずつ感染者が増え、全体で1,500万人が感染し、死者は50万人を超したということです。短期間の流行拡大は脅威ですが、それでも14世紀から17世紀にかけて起きたペストの大流行には及びません。
 これまでの歴史の中で、最も致死率が高く、人類に壊滅的な被害をもたらした感染病のひとつがペストであることは間違いありません。

 それで、今月は、「ペスト」についての話です。

 ペストはこれまでに3度、世界的大流行を起こしました。
 第1回目は、541年から767年にかけて、ユスティニアヌス帝時代の東ローマ帝国を中心に流行した「ユスティニアヌスの疫病」ともいわれるペストの流行で、当時の人口の50パーセント近くが死亡し、ローマ帝国の崩壊を早めたと考えられています。
 第2回目の流行は14世紀に流行した腺ペスト(全身が黒くなって死ぬので黒死病ともいわれた)で、わずか数年でヨーロッパ全体に広がりました。この流行は、1331年に中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るった後、ヨーロッパ、中東、北アフリカへと拡散しました。この流行は1348年から1420年にかけてヨーロッパで、断続的に流行し、致死率は30%から60%に及び、およそ8000万人から1億人が死亡したと推計されています。
 当時、ヨーロッパでは、疫病は神が下した罰とみなされていました。多くの聖職者が一般人と同様、ペストに感染して死亡することで、人々に教会の存在意義と教会の権力に対する疑念を持たせました。また、ペストによる人口減少は、封建領主を支えていた農民の減少となり、地主である貴族や教会に大きな打撃を与えました。これらの人々の意識の変化と労働力の減少は中世の「暗黒時代」と決別し、人間を解放する運動である「ルネサンス」をもたらす原動力の一つになったと考えられています。
 第3回目の流行は19世紀末、またも中国を起源とするペスト流行でした。これは、1855年に雲南省から始まり、1894年の香港での大流行を経て世界的に拡散しました。この時、日本への流行波及を恐れた政府は北里柴三郎らを香港へ派遣しました。そこで、北里は腺ペストの病原菌を発見しました。ほぼ同時に、パスツール研究所の細菌学者イェルサンもペスト菌を発見し、ペストの原因が細菌であると確定しました。その後、北里により腺ペストに有効な血清療法が確立されました。
 日本では明治以前にはペスト発生は確認されていません。日本でペストが初めて報告されたのは、明治29(1896)年に横浜に入港した中国人船客が罹患したペストでした。それ以来、日本で断続的にペストが流行しました。
 特に大阪では2回流行が起きました。大阪での第一次流行は明治32(1899)年から翌年にかけて起きた流行で、患者161名(うち死者146名、致死率90.7%)、第二次流行は明治38(1905)年から明治43(1910)年に起きた流行で、患者958名(うち死者860名、致死率89.8%)に達しました。
 現在は治療薬の普及や環境整備などが進み、上記のような規模でのペスト大流行は発生していません。しかし、世界では散発的な発生例が報告されており、死亡者も決して少なくはありません。
 最近は世界的に交通網の発達が進み、ペスト菌に感染した動物との接触機会も残されています。注意は怠れません。


小田眼科医院理事長 小田泰子
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