兵庫県赤穂市(あこうし)東有年(ひがしうね)1936   電 0791-49-3993

駐車場、公園事務所、トイレがあります。

 

 

周辺には4,000年前の縄文時代から600年前の室町時代にかけての集落遺跡がある。

 

この遺跡公園では、弥生時代後期の竪穴住居7棟、古墳時代後期の竪穴住居22棟、高床建物1棟が発見され、1992年に兵庫県指定文化財となった。

 

遺跡公園から赤穂市北部の山々を望む。

 

パンフレットの園内案内図

 

 遺跡公園南側に「弥生時代ムラ」の円形住居2棟が復元されており、入口は南、中央に炉があるのは縄文時代と同じ。

 

 2号住居(弥生時代後期)は直径が12mあり非常に大きく、発掘調査でガラス玉などが発見されているので有力者の住居であったと考えられている。

 

 

 

 

 

5号住居(弥生時代後期)は直径5~6mで、一般的な大きさ。

 

 

 遺跡公園の北側に「古墳時代ムラ」の方形住居4棟が復元されており、入口は南、北の奥に竈(かまど)がある。

 その内の1棟は掘立柱(ほったてばしら)を使った高床建物(倉庫)である。

 有力者は離れた場所に大きな高床式住居を建てていた。

 

15号住居(古墳時代後期)

 

 

23号住居(古墳時代後期)

 

 

 

26号住居(古墳時代後期)

 

32号高床建物(古墳時代後期)

 

 遺跡公園の1km北東に有年山(八幡山、201m)が見え、山頂に有年山城跡(八幡山城跡)、山腹に有年八幡神社が鎮座している。

 赤松氏の山城であったが、城主は何度も代わっている。

 

 

 有年山には、千種川(ちぐさがわ)を航行する高瀬舟の灯台として建てられた舟灯台(高瀬舟灯台)がある。

 

 千種川には良質の砂鉄が産出し、上流にある宍粟市(しそうし)千種町(ちくさちょう)は蹈鞴製鉄(たたらせいてつ)が盛んであった。

 宍粟鉄(千種鋼)と呼ばれる良質の玉鋼(たまはがね)は備前長船(びぜんおさふね)の備前刀にも使われた。

 

印南神吉(いんなみ かんき)

 「マグダラのマリア(Mary Magdalene)」は新約聖書の福音書に登場し、「罪深き者」であったがイエス・キリストに救われ悔い改めて信徒になった。

 キリストの母マリア(聖母マリア)と同じ名だったので特に注目されたかもしれない。

 イエスが十字架で亡くなった後、聖母マリアはアナトリア(トルコ)で暮らし、「聖母マリアの家」が残っている。

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 「マグダラのマリア」はイエスから愛され、弟子としてよく働いた。キリストが十字架に掛けられた時に見守り、キリストが納められた場所を見とどけた。

 3日後に「マグダラのマリア」は墓を訪れ、イエスの遺体に香油を塗ろうとしたが、遺体がなくなっていた。

 キリストが復活した(蘇った)のだ。復活後最初に「マグダラのマリア」がイエスに出会った。

 「マグダラのマリア」はキリスト復活の証人として使徒たちの所に行き、キリストが復活し天国に昇ることを伝えた。

 

 「マグダラのマリア」は、キリスト信者を迫害する動きを避けるため、他の二人のマリア(マリア・ヤコベとマリア・サロメ)たちと小舟に乗って南フランスに逃れた。

 マリアたちはサント・マリー・ド・ラ・メールでキリストの伝道をしていたが、晩年の「マグダラのマリア」はサント・ボームの洞窟(grotto of Sainte-Baume)で過ごしたと云う。

 現在の洞窟は教会になっており、祭壇・マグダラのマリア像・遺物などがある。巡礼者や観光客らが訪れている。

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 「マグダラのマリア」は洞窟の上のサン・ピロン山(944m)に登り祈ったと云う。今は山頂に小さなチャペルがある。

 

 

 フランスでは「マグダラのマリア」を「マドレーヌ」と呼んでいる。

 マドレーヌと云う名の寺院は多いが、ヴェズレーにあるサント・マドレーヌ大聖堂が有名で巡礼者が多い。マドレーヌの遺骨の一部が安置されており、信仰の対象になっている。

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 聖書として認められていないが、「マリアによる福音書」と云う外典があり、「マグダラのマリア」は預言者としてキリストの伝道活動を行った。

 マリアによる福音書は3世紀に存在していたが、現在は部分的な写本だけが残っている。パピルスにコプト語(古代エジプト語)で記されており、ギリシャ語の原書から翻訳されたと考えられている。

 ナグ・マハディ写本やベルリン写本などが存在するが欠損部が多いので、文章は長くない。

 

 ロシアの文豪・ドストエフスキー(1821年‐1881年)は「マグダラのマリア」を強く意識し、「罪と罰」を1866年に書いた。

 ドストエフスキーの母の名前もマリアで、最初の妻の名前もマリアあった。

 私は大学生の時(1962年)に「罪と罰」を読んでみたが非常に難解であった。

 日本の多くの文学者、映画監督、漫画家などがドストエフスキーの影響を受けている。

 

            ***

 来年の2026年は日本の政治、経済、社会が大きく変化、前進し、世界も大きく変わっていくでしょう。

 一人一人の国民の意識が集合すれば、社会全体が前進します。

 

印南神吉(いんなみ かんき)

島根県出雲市大社町修理免(しゅうりめん)本郷東1329

出雲大社の境外摂社。

 

祭神 久那戸大神(くなとのおおかみ、岐神)。

 

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 出雲大社へ続く「社家通り」に神官の住居が集まっていた。

 出雲大社の境外摂社の神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ、命主神社)は神皇産霊神(かみむすびのかみ)を祭神にし、大きな磐座があり、重要文化財の翡翠の勾玉(糸魚川産)と銅戈(九州産)が出土した。

 出雲大社の宝物殿に展示されている。

 

 

 社家通りを250mほど東に行くと、北島国造家の神事の際に使用される「真名井の清水」がある。

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 更に1kmほど南東に行くと、出雲井神社が鎮座。

 

 出雲神族は東北から出雲に移住してきた。

 先祖はクナト(岐神)の大首長で、女首長はアラハバキ(荒吐神)。

 「クナト」は「地蔵」に、「アラハバキ」は「弁才天」に変身した。

 

 アイヌ古語でクナトは男根、アラハバキは女陰として一対のものだったと云う。

 

「クナト神」    

「狗奴国はクナトの国」    

「クナト神を祀る神社」 

  

印南神吉(いんなみ かんき)

月讀神社(つきよみじんじゃ)

 長崎県壱岐市芦辺町(あしべちょう)国分(こくぶ)東触(ひがしふれ)464

 壱岐で最古の神社で月読神社の総本社。

 当社では「日本最古の神社」、「古神道発祥の地」と謳っている。

 

 祭神は、中央に月夜見命(つきよみのみこと)、夜を司る神、月の神。

     右に月読命(つくよみのみこと)、左に月弓命(つくよみのみこと)。

     海人族の壱岐氏が航海安全を祈願して祀った三柱の神。

 

 

 

 鳥居は「肥前鳥居」に似ている。

 壱岐国は文明4年(1472年)に肥前城主波多氏の領有となった。当時から続く「壱岐神楽」が昭和62年に国の重要無形文化財になっている。

 

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が「黄泉の国」から帰還して「筑紫の日向の川の落ち口の橘の檍原(あわきはら)」で禊祓いをした。

 伊弉諾尊が左の眼を洗うと「天照大神」が生まれ、右の眼を洗うと「月讀尊」が生まれ、鼻を洗うと「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」が生まれた。

 この三柱の神を「三貴子」と云う。

 

 月讀尊は、保食神(うけもちのかみ)が料理した食事に怒り、保食神を殺してしまった。

 これに怒った天照大神が月讀神を追い出して、昼(天照大神)と夜(月讀神)に分かれてしまった。

 

 壱岐氏は、新撰姓氏録を見ると「右京 神別 壱伎直 天児屋根九世孫雷大臣之後也」とある。

 雷大臣(いかつおおおみ)の別名は中臣烏賊津(なかとみのいかつ)で、14代仲哀天皇(320年‐362年)と神功皇后(321年‐389年)に仕え、363年の新羅遠征に従軍した。

 

 新羅から帰還後、雷大臣は津島県主となり邸宅を構えた場所が雷神社(いかつちじんじゃ、対馬市厳原町豆酘)になっており雷大臣を祀っている。

 雷大臣は当地で祭祀や亀ト(きぼく)を広めた。壱岐の亀トは縄文時代から始まり現在でも伝承されており、国選択無形民俗文化財になっている。

 

 

 対馬市美津島町加志太の太祝詞神社(ふとのりとじんじゃ、祭神は太祝詞神と雷大臣命)に雷大臣の墓と伝わる壇がある。太祝詞神は天児屋根命の別名。

 当社も雷大臣の邸宅跡と云う伝承がある。

 

 雷大臣の墓

 

 23代顕宗天皇の3年(487年)に阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が命を受け、任那に使いした。

 この時「月の神」が現れ、「我が祖の高皇産霊尊は天地を創造した。その子孫の吾(月の神)を祀れ、そうすれば慶福が得られるだろう」と告げたので都に帰って天皇に報告すると、山城国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)を奉られた。

 壱岐の県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)がそこに「壱岐の月神」お祀りした。これが京都の月読神社である。

   

 

 話は変わりますが、日本語は宇宙語に近いようです。

 瞑想して宇宙と繋がり宇宙からのエネルギーを受け取ると、次元上昇(アセンション)する。

 そうすると日本中に「覚醒」が起き、世界に拡がっていく。

 魂・礼儀・調和を大事にする日本は世界の中心になっている。

 

印南神吉(いんなみ かんき)

 竹内文書は25代武烈天皇(5世紀後半)の頃に武内宿禰(315年頃‐390年頃)の孫である平群真鳥(へぐりのまとり)が編纂した歴史書で、天の巻、地の巻、人の巻からなっている。

 武内宿禰の1円紙幣

 

 竹内文書は茨城県北茨城市磯原町磯原835に鎮座の皇祖皇太神宮(こうそこうたいじんぐう)天津教(あまつきょう)に伝わる古史古伝だが、偽書とされている。

 

 

 武内宿禰後裔の竹内家と遠戚であった竹内巨麿(きよまろ、1874年-1965年)が現在の富山市で生まれ、竹内家に婿養子となった。

 竹内巨麿は1900年(明治33年)に現在の北茨城市で天津教を創建、教主となった。

 古代に天皇家が祀り、竹内家が奉仕していた皇祖皇太神宮(こうそこうたいじんぐう)を竹内巨麿が再興し、1910年(明治43年)に第66代管長となった。

   

 竹内巨麿は代々伝わってきた神代文字で記された古文書「正統竹内文書」の翻訳文を「竹内文書」として1935年(昭和10年)に公開した。

    

 皇祖皇太神宮の第66代管長・竹内巨麿の長男が第67代管長の竹内義宮(1915年‐1999年)で、その長男が第68代管長の竹内康裕(やすひろ、1955年生)。

 竹内康裕氏は1999年に管長に就任、現在は竹内文献研究会を開き皇祖皇大神宮の教えを伝えている。

 

 武内宿禰の子孫は多く、正統竹内家と称する竹内睦泰(むつひろ、1966年‐2020年)が第73代竹内宿禰と称していた。

 武内宿禰と南朝の血を引くと云う。

 

 太陽系の形成は約46億年前であるが、竹内文書にはその頃からの宇宙が記されており、記紀の「造化三神(天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)」より前に出現した多くの神々が記述されている。

 天皇家は世界中に移動して各民族を指導し、列島に帰ってくると飛騨高山、越中富山、近畿(奈良・京都)などにも移動して、明治以降は東京(江戸城)に皇居を構えている。

 竹内巨麿が1935年に石川県宝達志水町(ほうだつしみずちょう)の「モーゼの墓」を発見し、青森県三戸郡(さんのへぐん)戸来村(へらいむら)の「キリストの墓」を発見した。

 

 日本列島は世界の地形の縮図で、九州がアフリカ、本州がユーラシア大陸と南米、四国がオーストラリア、北海道が北米を表していると云う。

 つまり日本が世界の中心であると云うことでしょう。

 日本が世界のリーダーとなって、争いのない平和な5次元の世界になると云うのは、プレアデス(昴)やシリウスから地球に来たスターシード(ライトワーカー)も云っている。

 

 「宇宙」は「竹の筒の中」にあり、「竹内」とは「宇宙」である。

 住吉三神の底筒男命、中筒男命、表筒男命の「筒」は神である。

 「伊勢」は「イスラエル、エルサレム」であるとしているが、この説は多方面でも云われている。

 

 2023年にニュージーランドの先住民ワイタハ族のテポロハウ長老(シャーマン)が皇祖皇大神宮に参拝に来て竹内康裕管長と会見した。

 ワイタハ族のワイは水(龍)、タハは容器(人間の体)で、ワイタハ族の体に龍が宿っている。

 ワイタハ族の魂の故郷はシリウス星(龍の星)で、ワイタハ族は「銀龍族」の子孫。

 日本人は「金龍族」で、全ての龍の長である金龍族が覚醒しないと世界が悪い方向に向かってしまう。

 しかし日本人は役割を忘れてしまっているので、金龍族を補佐する銀龍族が日本人を覚醒させなければいけないと云う。

 

 私見ですが、「金龍族の長」である高市首相が数年間リーダーシップを発揮して活躍できれば、日本人は覚醒すると考えています。

 次の総選挙の結果が大きく影響するでしょう。

 これからの数年間は日本にとっても世界にとっても岐路になるでしょう。

 

印南神吉(いんなみ かんき)

 長崎県の対馬(つしま)では、太陽の光が女性の陰部に当たると妊娠して子ができると云う「日光感精神話」がある。

 太陽信仰の一形態として、そのようにしてできた母神を山麓に祀り、子神を山頂に祀った。子神は「天道法師」、「天童(てんどう)」と云われた。

 聖地の山は「天道山」として崇められ、石積塔を建てて「太陽と天道山」を拝んだ。

 

 同じ様な太陽信仰が弥生時代の伊都国(いとこく、福岡県糸島市)にもあったので、縄文時代から弥生時代の信仰形態だったのかもしれない。

 「平原王墓の埋葬方向」をご参照ください。

   

 対馬南部の長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)豆酘(つつ)に高御魂神社(たかみむすひじんじゃ)と多久頭魂神社(たくづたまじんじゃ)が鎮座。

 

 高御魂神社は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子孫である津島下県(つしまのしもあがた)氏が代々祀ってきた。

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 多久頭魂神社は天道信仰の社で、天道山(龍良山、たてらさん、558m)の遥拝所になっているが社殿は無い。厳原町浅藻にも同名の神社が鎮座している。

 天道山には「恐ろし処(聖地・禁足地)」の八丁郭(はっちょうかく)があり、天道法師の墓がある。裏八丁郭には天道法師の母神の墓がある。

 

 

 

 

 対馬北部の対馬市上県町(かみあがたまち)佐護西里(さごにしさと)に鎮座の天神多久頭魂神社(てんじんたくづたまじんじゃ)は天道山(174m)の遥拝所になっており、天道山頂に御子神を祀っている。

 天道信仰のシンボルである2基の積石塔があり、石をピラミッド状に積んでいる。

 南部豆酘(つつ)の多久頭魂神社と対になっている。

 

 

 山麓佐護川沿いの神御魂神社(かみむすびじんじゃ)には天道法師の母神を祀っている。

 神御魂神社(女神)は南部豆酘(つつ)の高御魂神社(男神)と対になっている。

   

 天道法師(てんどうほうし、天童)の母子信仰伝承は、長崎県対馬の「対州神社誌」によると、対馬南部の豆酘(つつ)に照日権現(てるひごんげん)の娘がおり、白鳳13年(683年)に太陽光を浴びて妊娠し、生まれた神童が天道法師となった。

 天道法師は9才で仏門に入り、奈良の都で修行、神通力を得て大宝3年(703年)に対馬に帰国した。

 

 天道法師が33才の時に44代元正天皇(680年-748年)が病に倒れたため、都に急行し病を治し、「宝野上人」の号を賜い、地元豆酘(つつ)からの年貢や采女の献上が赦され、「天道の地(恐ろし処)」を許可された。

 天道法師は「卒土(そと)の山」・「龍良山、たつらさん」(禁足地の恐ろし処)に埋葬され、母は6km北の久根之矢立山(648m)に埋葬された。

 麓では古代米の赤米(あかごめ、あかまい)が栽培され、赤米神事が行われる。

 

 古代米の赤米(あかごめ)神饌を伝統神事として実施している長崎県対馬市の豆酘(つつ)、岡山県総社市(そうじゃし)の国分寺、鹿児島県種子島の南種子町(みなみたねちょう)では、赤米神事が無形民俗文化財に指定されている。

 歌手の相川七瀬さんが3か所の「赤米大使」として伝統神事を伝え、赤米フェスタ・コンサートを盛り上げている。

 

 天道信仰には社殿が無く、磐座、石塔、神籬(ひもろぎ)、山などが信仰対象になっている。

 対馬には天道信仰・母子信仰が多く、聖地が30か所以上もある。

 和多都美神社(彦火火出見尊、豊玉姫命)と和多都美御子神社(鵜葺草葺不合命、うがやふきあえずのみこと)も親子で豊玉町仁位に鎮座している。

 

 神功皇后(321年‐389年)と15代応神天皇(363年‐403年)の八幡信仰も母子信仰と重なって信仰された。

 

 12月5日(金)の満月は数百年振りの「スーパームーン」でした。

 

印南神吉(いんなみ かんき)

 福岡県福津市(ふくつし)津屋崎(つやざき)の付近を古代では「刺国(さしくに)」と云った。

 神功皇后(321年‐389年)がこの刺国(津屋崎)で杖をついて休まれたので「杖刺し→津屋崎」になったと云う。

 神功皇后が363年の新羅遠征時に、海外遠征基地となったのが刺国(津屋崎)である。

 津屋崎浦は瀬戸になっており良港であった。

 

 

 刺国の地名は神功皇后由来と云うが、もっと前から存在した。

 天照大神の皇孫である天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと、180年頃生)が「朝日がただ刺す国」と言われた「刺国」に降臨した。

 

 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は胸副国(むなそうくに、宗像国)から南隣りの刺国に降臨した。

 皇孫を出迎えた刺国大神の事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)は安曇族の勝村・勝頼大神(かつむら・かつよりおおかみ)で、神功皇后と共に福岡県福津市の宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)の祭神(宮地嶽三柱大神)として祀られている。

   

 摂津国一之宮の住吉大社の水軍を率いて九州まで進軍してきた神功皇后は、岬(サシ)の津屋崎から安曇の水軍を水先案内として363年に海外出兵した。

 これは初代神武天皇(181年‐248年)が211年に大和国橿原(かしはら)で即位してから150年余り後の国家的大事業であった。

 国内が概ね統合されて政治が安定したことにより海外出兵が可能になった。

 

 福岡県福津市の宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)は刺国の神で、神功皇后が363年の新羅遠征の際に当地に滞在、宮地嶽山頂より玄界灘を臨み、天神地祇を祀り祈願して船出した。

 その後、神功皇后を主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りした。

 

 すぐ裏手にある宮地嶽古墳は「横穴式石室古墳」で、被葬者は素盞嗚尊(すさのおのみこと、140年頃―200年)の長子・「八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)」もしくは「刺国大神」だと思われる。

 

 胸副国(むなそうくに、宗像国)と刺国を合わせて胸刺国(むなさしのくに)と云った。

 刺国(さしくに)の地名由来はアイヌ語(縄文語)かもしれない。アイヌ語で「エサシ」は「岬」だと云う。

 胸刺(むなさし)の人々が7世紀頃に関東に移住したのか、朝鮮からの移民を定住させたこともあり、埼玉県・東京都・神奈川県周辺が武蔵国(むさしのくに、无邪志国、胸刺国)となった。

  

 

 今年は昭和100年でしたが、来年の令和8年(2026年)は、日本が精神的に、経済的に、技術的に、政治的に世界の中心になって、隠されていた古代のエネルギー、パワーが復活・全開するときです。

 日本人が目覚め、次元が上昇、分断ではなく統合・連携・調和・共鳴で大発展します。

 核融合などの技術が進み、正しい政治体制が復活、ダークエネルギーなど宇宙が解明され、次々と未来への希望が湧いてくる時代になると確信しています。

 来年の干支は丙午(へいご、ひのえうま)で、昔は「ひのえうま(丙午)に生まれた女性は気性が荒い」と云う迷信がありましたが、既にこの迷信は無くなっています。

 

印南神吉(いんなみ かんき)

 天火明命(あめのほあかりのみこと、140年頃生)は海人族の祖で、子孫に海部氏(あまべ)、尾張氏(おわり)、度会氏(わたらい)、津守氏(つもり)などがいる。

   

 天火明命を祀る神社は、福岡県久留米市大石町の伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)、京都府宮津市の元伊勢・籠神社(このじんじゃ)、愛知県一宮市真清田の真清田神社(ますみだじんじゃ)、兵庫県たつの市の粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)などがある。    

 

 

 天香語山が185年頃の「饒速日東遷」に従い大和国に移動。葛城高尾張から尾張国(愛知県、熱田神宮)に移動、高志国(新潟県、弥彦神社)にまで移動した。

 天香語山の子である天村雲命も饒速日東遷で大和国に移動、更に伊勢国に移動して度会氏(わたらい)となり、伊勢神宮外宮の神官になる。

 

 津守氏は摂津国(大阪府、住吉大社)で活躍、神功皇后(321年‐389年)と連携した。

 天火明命は豊後国海部郡(大分県、宇佐神宮)から丹後国(京都府、籠神社)に移動した。

 子孫の海部氏(あまべ)は丹波国造となる。

 

 記紀や先代旧事本紀によると、天火明命の父は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、母は万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)、兄弟が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)になっているが、古代の系図は間違いが多い。

 

 また、天火明命と饒速日命(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、160年頃生)が同一とも云うが、天皇家・尾張氏・海部氏と、饒速日命を祖とする物部氏は倭国(北部九州)で関係が深かったが、大和国で初代神武天皇(181年‐248年)の即位(211年)以降に姻戚関係になった。

 

 10代崇神天皇(251年‐301年)は物部氏を取り込んで全国制覇を進めた。

 物部氏は天皇家・海人族との結託・姻戚を強調するために饒速日命と天火明命を一柱の神に習合し、諡号を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」として共通の祖とした。

 

 播磨国風土記では、天火明命(140年頃生)は大汝命(大国主命、160年頃-220年頃)の子で、お互い仲が悪かったと云うが、年代が合わない。

 「大国主命」や「天火明命」は個別名ではなく役職名で、何代も引き継がれてきたので、天火明命よりも年長の大国主命は存在したと考えられる。

 更に、海部氏(天火明命)、宗像氏(大国主命)、安曇氏(豊玉彦・穂高見命)は同じ出雲神族の間柄で、婚姻関係もあった。

 

 播磨国は出雲国・伯耆国と関係が深く、大国主系も海部氏系も身近な存在であった。

 風土記の内容によると、播磨国では両者の仲が良くなかったのかもしれない。

 

 「新撰姓氏録」によると、尾張宿禰、尾張連、伊福部宿禰、但馬海直などは「天孫 火明命の後也」と記されている。

 同じ海人族の安曇宿禰、安曇連は「地祇 豊玉彦の後也」と記され、天孫ではない。

 素盞嗚尊、大国主命、事代主命の子孫も天孫ではないが、大国主命の養子となり出雲大社の神官となった天穂日命(天照大神の次男)の子孫である出雲臣、土師宿禰などは天孫になっている。

 

大和豪族の拠点

 

印南神吉(いんなみ かんき)

岡山県瀬戸内市牛窓町(うしまどちょう)鹿忍(かしの)484   

境内後方に回って車を停められるが道路が狭い。神社までの山道も狭い。

 

鹿歩山(かぶやま、かぶさん、93m)に鎮座しているので「鹿歩山明神」、稲の神「稲津明神」と称していたが、後に「五社大明神」と改称した。

神仏分離により、明治2年に「鹿忍神社(かしのじんじゃ)」と改称した。

 

祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと、春日神、中臣連の祖)、

   布津主命(ふつぬしのみこと、春日神、武神)、

   武甕槌命(たけみかづちのみこと、春日神、武神)、

   姫大神(ひめおおかみ、春日神)、

   山田彦命(やまだひこのみこと、猿田彦命の第2子)。

   

四柱の春日神は「春日大社」と同じ祭神で、神使いは鹿。

 

 山田彦命(200年頃生)が鹿に乗って忍んで来たので地名が「鹿忍(かしの)」となり、鎮座地の宮山が「鹿歩山(かぶやま、かぶさん)」となった。

 

 48代称徳天皇(女帝)の神護景雲(じんごけいうん)年間(767年‐769年)に当社は再建したと棟札にあるが、春日大社の創建が768年であるから、当社もその頃に勧請して創建したのではないか。

 或いは山田彦命を祀っていた鹿歩山に春日神を勧請して、社殿を拡大・再建したのか・・・

 弘安の役(1281年)に当社は奇異の霊験があり、蒙古・高麗軍を撃退したと伝わる。

 

 

 鹿歩山の山頂には鹿歩山古墳(かぶやまこふん)があり、墳長84m、全長100m、築造5世紀後半の前方後円墳で岡山県指定史跡になっている。

 牛窓湾周辺には5基の前方後円墳が築造されたが、鹿歩山古墳だけに周濠が築造された。

 古墳の発掘はされていないが、被葬者は山田彦命の子孫かもしれない。

 

 

入口の鳥居、扁額は「五社大明神」。

 

 

参道の階段を上ると随神門。

 

更に上ると神籬(ひもろぎ)がある。

 

 

拝殿前に備前焼の陶器製狛犬。

 

 

 

拝殿、

扁額は「五社大明神」、神輿が2基。

 

 

本殿、千鳥破風付入母屋造り銅板葺き。

 

 

 

 

お伊勢様拝所。

 

稲荷神社。

 

 

 

印南神吉(いんなみ かんき)

岡山市東区西大寺一宮895  電086-946-1453  無料駐車場あります。

備前国総鎮守の式内社、名神大社。

家内安全、厄除開運・身体健全など諸願の成就。

 

当社は備前国の古社で元一宮であったが、当社が天慶の乱(939年)で藤原純友(941年没)に味方したので朝廷から一宮をはく奪され、吉備津彦神社(岡山市北区一宮)が備前国一宮になった。

 

 祭神    五瀬命(いつせのみこと、神武天皇の長兄)、

   稲氷命(いなひのみこと、神武天皇の次兄)、

   御毛沼命(みけぬのみこと、神武天皇の三兄)。

 

初代神武天皇(181年‐248年)の兄を祀っているので兄(安仁)神社と称したが、諸説ある。

当社は久方宮(ひさかたのみや)とも云われ、創建は相当に古く3世紀初め頃か。

本殿後方から銅鐸が出土しており、当地では紀元前から祭祀が行われていたと考えられる。

 

 

 

 元宮は後方の宮城山(みやしろやま、別名・鶴山、72m)頂上に鎮座していたが、宝永2年(1705年)に備前藩主池田家の祈願所として中腹の現在地に遷座した。

 

 県道235号から小川を渡り、注連柱から南へ300mで安仁神社。

 

大きな社号標と備前焼製の狛犬。 左手前に駐車場とトイレがある。

 

狛犬と一の鳥居。

 

参道を進むと二の鳥居と階段が見える。

 

階段を上ると随神門。

 

参集殿。

 

更に階段を上ると注連柱と拝殿(明治17年に改築)。

 

 

新旧の社務所。

 

 

幣殿と本殿、社殿は北西向き。

 

流造の本殿、明治18年に改築。

 

 

神庫。

 

摂社の左補神社。

 

稲荷神社。

 

左が、9.5km南東に鎮座する境外末社の「綱掛石神社」遥拝所。

神武東征(204年~209年)の途中、当地に留まり船の「とも綱」を掛けた石がある。

右が、境外末社の「天神社」遥拝所。

他にも遥拝所が多い。

 

摂社の右補神社。

 

明治26年に本殿後方の法面が大雨で崩れ、弥生中期の銅鐸が発見された。

扁平鈕式四区袈裟襷銅鐸(へんぺいちゅうしきよんくけさたすきどうたく)で高さ31.5cm。

岡山県立博物館に寄託され、県指定重要文化財になっている。

銅鐸は国境にある丘の法面に埋蔵されることが多い。

  

 

印南神吉(いんなみ かんき)