日本書紀によると、素盞嗚尊(すさのおのみこと、140年頃-200年)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと、125年頃-190年頃)の言うことを聴かず、高天原での乱暴な行為が多く迷惑を掛けたので、高天原を追い出されてしまったと云う。

「神話を軽んじてはいけない」をご参照ください。

      

 素盞嗚尊は「高天原」を退出した後、第2子・五十猛命(いそたけるのみこと、160年頃-220年頃)を率いて新羅国に行ったが、ここには住みたくないと云って出雲国に渡り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した。

   

 五十猛命の母は筑紫紀氏の大矢女命(神皇産霊命の3世)と云う。紀国造家系譜によると、神皇産霊神の3世孫の大矢女命(海人族)が素戔嗚尊の妃となり五十猛命を産んだ(御合 素戔嗚命坐而生 五十猛命)とある。

 筑紫紀氏の本拠地「基山」は木山、「紀氏」は木氏で、五十猛の植林に携わっている。海人族の紀氏は造船用の木が必要であった。筑紫紀氏は東遷して紀ノ国(木の国、紀伊国)を造る。

 

 素盞嗚尊が、「杉と樟は船を造るのによい、檜は宮を造るのによい、槙は棺を作るのによい」と云ったので、五十猛命は妹の大屋津姫命(おおやつひめのみこと)と枛津姫命(つまつひめのみこと)と共に各地を巡り、樹木の種を播き森林を増やした。

 

 その後に素盞嗚尊は熊成峯(くまなりのたけ)に行き、ついに根の国に入ったと云う。

 島根県松江市八雲町熊野2451の出雲国一宮・熊野大社は、古代には天狗山(610m)山頂に鎮座していたが、天狗山は熊成峯(くまなしのみね、熊野山)と呼ばれていた。

 素盞嗚尊の別称は、熊野大神櫛御氣野命(くまのおおかみくしみけぬのみこと)と云う。

 天狗山には熊野大神櫛御氣野命を祀った磐座が一対あり、元宮成(げんぐうなり)と云う祭祀を行っていた。

 天狗山

 

 熊野大社元宮斎場跡

 

 和歌山県の熊野と島根県の出雲は密接な関りがあり、人々の移住・往来があったと考えられる。

 

 

印南神吉    

 饒速日命(にぎはやひのみこと、165年頃‐225年頃)が、西暦185年頃に九州の倭国から大部隊を率いて河内国(大阪府)に天降ったのは、大阪府交野市(かたのし)私市(きさいち)9丁目19-1の「磐船神社」(いわふねじんじゃ)の地で、神社後方の山が「河内国河上哮ヶ峯(かわかみのたけるがみね)」だと云う。   

 

 磐船神社の8.5km南西に鎮座する「石切剱箭神社」(いしきりつるぎやじんじゃ、東大阪市東石切町1-1-1)は饒速日命を祀っている。

   

 矢田坐久志玉比古神社(奈良県大和郡山市矢田町965)も饒速日命と関係が深い。神社の祭神は久志玉比古神(櫛玉饒速日命)と妻の御炊屋姫命(みかしきやひめ、長髄彦の妹)。

 饒速日命が天磐船に乗って空を飛んだと云うので、航空祖神として楼門に大きなプロペラが奉納されている。

 神社の東方を富雄川が流れる。

 矢田坐久志玉比古神社地図

 

 「饒速日の墳墓」をご参照ください。    

 

「饒速日山」伝承地、奈良県生駒市俵口町(たわらぐちちょう)。

 西暦204年に九州から東征に出た神武天皇(181年‐248年)軍が生駒山(642m)麓の「河内国草香邑(くさかむら)青雲白肩津(しらかたのつ)」、現在の東大阪市日下町(くさかちょう)に上陸すると、大和国(奈良県)豪族の長髄彦(ながすねひこ)と戦闘になり、神武の兄・五瀬命(いつせのみこと)が負傷し敗退した。

五瀬命負傷碑地図

 

 五瀬命は紀伊国名草郡の竈山(かまやま、和歌山市和田)で亡くなり「竈山墓」(かまやまのはか)に埋葬された。

   

 大和国(奈良県)の鳥見(とみ)は、登美、冨、富雄とも表現する。外山(とび)とも云う、

「とみ」、「とび」の地名は出雲神族の「富氏」由来だと考えられる。長髄彦(ながすねひこ)は「登美毘古、とみひこ」とも云うので出雲神族富氏の直系でしょう。

 長髄彦の妹は御炊屋姫(みかしきやひめ)又は登美夜毘売(とみやひめ)と云う。

 奈良県生駒市上町2745-1に「長髄彦本拠」の碑がある。

 長髄彦本拠の碑地図

 

「鳥見白庭山(とみのしらにわやま)」の碑が長髄彦本拠地碑の35m北西にある。

 

 長髄彦(ながすねひこ)に敗退した神武天皇軍は、長髄彦を避けて南方の熊野から大和国に入り、八十梟帥(やそたける)や磯城磐余邑(しきいわれむら、桜井市)の豪族・兄磯城(えしき)などとの戦闘になったが、忍坂(おさか)、墨坂(すみさか)、宇陀(うだ)へと進軍、勝利した。

 西暦209年に再び長髄彦と対峙するが、饒速日命(にぎはやひのみこと)は神武天皇に帰順して、引き下がらない長髄彦を殺したと云う。

 長髄彦は東北(津軽)に逃亡したとも伝わるが、長髄彦が殺されて鳥見に埋葬されたのであれば、「富雄丸山古墳」(とみおまるやまこふん)かもしれない。(今のところ時代が合わないが・・・)

 

 饒速日命が都を定めたのは纏向(まきむく、桜井市)だった。饒速日命が大和国に来るまでは長髄彦が王として唐古・鍵(からこ・かぎ、磯城郡田原本町)を都にしていたが、饒速日命が大和国王となり纏向(まきむく)に遷都した。

「鳥見山(とみやま)」、「白庭(しらにわ)」は桜井市外山(とび)にもあり、饒速日命と長髄彦はこの鳥見山(245m)に葬られた可能性がある。

 鳥見山西麓に等彌神社(とみじんじゃ)が鎮座。

 鳥見山地図

 

 西暦211年に大和国橿原で即位した初代神武天皇が、桜井市外山(とび)の鳥見山(とみやま)山頂の白庭(しらにわ)で「大嘗祭」(だいじょうさい)を行い皇祖神と天津神を祀った。

 鳥見山靈畤(れいし、まつりにわ)地図

 

 これが大嘗祭の起源で、126代今上天皇まで連綿と踏襲されているが、応仁の乱(1467年)以降9代の天皇は大嘗祭を執り行うことができなかった。

 現在の形式は天武・持統天皇時代(7世紀)に始まったとされる。

 

 45代聖武天皇即位(724年)の大嘗祭(だいじょうさい)で使われる品物が各地から送られてきた時の木簡(荷札)がまとめて土坑に捨てられていた。

 奈良文化財研究所の発表で、平城宮跡の大嘗宮跡から600m南の土坑で木簡が1,000点以上見つかった。その土坑は朱雀門の200mほど南東で、そこに荷受場があり荷ほどきして木簡が土坑に捨てられたと云う。

 木簡に記された文字も判読できるので、どの地域から何が奉納されてきたかが分かる。

 今年で聖武天皇即位1,300年と云う節目で発見されたのは偶然ではないような氣がする。

 

 

印南神吉

 富雄丸山古墳(奈良市丸山1丁目)は4世紀後半築造と云われる最大の円墳(109m)で、3段目(墳頂)の主体部は明治時代に盗掘されている。

 盗掘品を収集家の守屋孝蔵氏が買い戻し、京都国立博物館が所蔵している。4世紀の古墳時代の祭祀用具である石製模造品類で国の重要文化財になっている。

 伝富雄丸山古墳出土物として三角縁神獣鏡3面(径20cm以上)が天理参考館に保管されている。富雄丸山古墳出土品としての確証はないが、国の重要美術品に指定されている。

 

 古墳の東を北から南へ流れる富雄川(とみおがわ)が、奈良県生駒市(いこまし)高山町から南方向へ流れて、奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)目安(めやす)のあたりで大和川に注ぐ。

 

 

 

 

 富雄川の流れの途中には、奈良市三碓(みつがらす)に添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)が鎮座、国重要文化財で祭神は富雄の王「長髄彦(ながすねひこ)」。

 長髄彦は登美彦(とみひこ)とも呼ばれ当地を治めていたが、饒速日命(にぎはやひのみこと、165年頃‐210年頃)が西暦185年頃に天磐船(あめのいわふね)に乗って九州から東遷、白庭山に来て長髄彦を帰順させ、その妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶った。

鳥見白庭山の碑

 

 しかし、磐余彦(いわれひこ、181年‐248年)一行が九州から東征して大和国(奈良県)に入ろうとしたが、長髄彦に阻まれ紀伊半島に退却した。

 南方から大和国磯城郡に攻め入った神武一行は長髄彦を圧倒し、西暦209年に饒速日命は服従して磐余彦に磐余邑(橿原市周辺)の地を与えた。

 磐余彦は西暦210年に媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を皇后とし、西暦211年に橿原で即位、初代神武天皇となった。

 

 富雄丸山古墳の造り出し部から出土した高野槙製の割竹形木簡(長さ5.3m)が粘土槨に覆われ保存状態は良好。木棺に縄かけ突起があり、造り出し部は盗掘されていなかった。

 2023年1月の調査発表で、造り出しの斜め上から前代未聞の出土物が発見された。

 蛇行剣(だこうけん)、長さ237cm、石突(いしづき)を含めて全長285cm、幅6cm、

 短い蛇行剣は過去に80例ほど出土しているが、これほど長い蛇行剣は例がない。

 石突(いしづき)は、儀式で剣を立てる時に鞘(さや)の先端が地面に触れないようにするために付いている突起部(漆塗り)のこと。

 

 時代は違うが、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)の宝物(国宝)「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」は直刀の神剣で全長271cmあり、8世紀前半(1,300年前)頃に造られた。

 

 富雄丸山古墳の蛇行剣の下に鏡面を上に向けた状態で大きな盾形銅鏡が発見された。

 鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう)と云い、縦64cm、横31cm。

 通常の円形の鼉龍鏡は、中国の画文帯神獣鏡を模した銅鏡で、国内で70面ほどが出土しており中型から大型が多いが、盾形の大型銅鏡は前代未聞だ。

 

 被葬者が気になるが、出雲神族富氏の直系で大和国王であった長髄彦(ながすねひこ)の子孫が被葬者なのか?

 私見ですが、主体部の被葬者は3世紀前半に亡くなった長髄彦(ながすねひこ)で、造り出し部の被葬者は妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)ではないかと考えていますが、古墳の築造時期と150年ほど時代が合わないので長髄彦の子孫かもしれない。

 

 主体部が明治時代に盗掘されたが、その出土物は4世紀の祭祀用石製模造品類(京都国立博物館所蔵)や、伝富雄丸山古墳出土の三角縁神獣鏡3面(天理参考館保管)なので、富雄丸山古墳の築造時期を4世紀後半にしたと考えられる。

 

 昭和・平成の主体部発掘調査で、副葬品として武器・鉄製品・銅鏡・巴形銅器・形象埴輪・石製品などがあり国の重要文化財に指定されている。

 可能性は低いが、今後の研究により主体部築造時期が3世紀前半に変更されれば、出雲神族で大和国王であった長髄彦(ながすねひこ)が被葬者となるのではないか。

 饒速日命6世孫・伊香我色乎命の後裔に登美連(とみのむらじ、鳥見連)がある。

 

 蛇行鉄剣と盾形銅鏡は割竹形木棺の斜め上から出土したが、木棺内からは20cmを超える青銅鏡3面、漆塗りの竪櫛(たてぐし)9点、水銀朱跡などが出土した。

 この3面の銅鏡の中に三角縁神獣鏡があれば、造り出し部の築造時期は4世紀であると認定できるので、主体部の築造時期と大きく変わらない。

 

 長髄彦の妹・三炊屋姫(みかしきやひめ)の亦の名は、鳥見屋姫(とみやひめ、登美屋毘売)や長髄姫(ながすねひめ)で、饒速日命の妻となり宇摩志麻遅命(うましまじ、物部氏の祖)を生んだ。

 生駒市上町5の夫婦塚(御炊屋姫塚伝承地)。

 400m北に「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑」と「天忍穂耳神社」がある。

 

 

印南神吉

兵庫県加古郡稲美町(いなみちょう)草谷(くさだに)224-1  境内前に車を停められる。

 

祭神 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)、

相殿 少彦名命(すくなひこなのみこと)、

   大穴貴命(おおなもちのみこと、大国主命)。  

 

当社は御厨神社(みくりやじんじゃ)が兼務している。

     

 

神社の南を草谷川が東から西に流れ加古川に注ぐ。当地では古くから稲作が行われてきた。

神社周辺の「さくらの森公園」は桜の名所で有名。駐車場もある。

桜の後は「草谷川の芝桜」が美しい。

 

 

創祀は寛元2年(1244年)、社殿を寛正3年(1462年)に建立。

室町幕府8代将軍の足利義政(1436年‐1490年)の時代は南北朝時代の終わり頃で戦乱が続き、当地域でも全国各地でも極めて困難な時期であった。

当地の人々は菅原道真公(845年‐903年)を勧請して困難を乗り超え、今日に至った。

 

祭神の大穴貴命(160年頃‐220年頃)と少彦名命は日本の国土を造り上げ、生産増強を図った。草谷地域では大歳神、大国主命、少彦名命などを祀り稲作に励んだ。

 

農業だけではなく蹈鞴製鉄(たたらせいてつ)も盛んであったと考えられる。当地を含む加古川東部は、12代景行天皇の皇后・播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の一族が治め、朝廷の吉備国統治に加勢した。

それまでは播磨国の西端が加古川であったが、吉備国に食い込んで赤穂までが播磨国となった。 「いにしえの吉備国の東の端は加古川」をご参照ください。

     

屋台蔵、

10月の例祭では屋台が鳥居前の道路を往復し、階段を上って宮入りする。

 

社頭

 

鳥居と社号標。

 

階段が長い。左手に境内社。

右は大歳神社、左は八坂神社・伊弉諾神宮・猿田彦神社。

 

 

100段近い長い石段を上る。 歩いて上がるだけでも大変だが10月の秋祭りでは

80人ほどの氏子が草谷屋台(ふとん太鼓、重量1トン超)を担いで上がり下がりする。

子供神輿や獅子舞も出る。天狗の面を被った人(猿田彦か)もいる。 

私が子どもの頃に印南郡(現在の加古川市)で天狗を見たことがあるが大変怖かったことを思い出した。「アカ」と呼んでいたが、長い棒を持って暴れたりしていた。

 

割り拝殿。

 

 

本殿

 

 

拝殿の右に菅原道真公の神使い・牛の石像。

 

本殿後方に日露戦争記念の石碑。

 

印南神吉

兵庫県加古郡稲美町(いなみちょう)下草谷(しもくさだに)212   

神社の道向かいに駐車場あります。

駐車場にロープが張られていたが垂れていたので、車を停められた。

    

祭神 軻遇突智命(かぐつちのみこと)

   火産霊命(ほむすびのみこと)、

   奥津彦命(おきつひこのみこと)、

   奥津姫命(おきつひめのみこと)。

 

 

「御厨神社(みくりやじんじゃ)」が兼務をしている。

   

石の鳥居、左は稲荷神社の鳥居。

 

 

本殿

 

櫻本稲荷大明神。

 

 

 

右の境内社は、伊勢神宮と大峰山、

左の境内社は庚申堂。

 

後方にも稲荷社の祠。

 

印南神吉

兵庫県加東市(かとうし)上三草(かみみくさ)1131  無料駐車場あります。

播磨国賀茂郡に鎮座。

当社は木梨神社が兼務している。

     

祭神 大日靈貴命(おおひるめむちのみこと)、天照大御神、

   表筒男命(うわつつのおのみこと)、住吉三神、

   中筒男命(なかつつのおのみこと)、

   底筒男命(そこつつのおのみこと)。

 

天照大御神は三柱の神を一柱に習合したものと考えられる。

1.西暦140年頃生誕の大日靈貴命(おおひるめむちのみこと)、天照大神①、

2.卑弥呼、西暦179年‐247年、親魏倭王、天照大神②、

3.臺與(とよ)、西暦235年頃‐295年頃、天照大神③。

 

  

 

往古、疫病が流行し、大勢が病死した。天照大神と少名毘古命の神託により、この地に三種の薬草を得、これを服して全快した。     

それで当地を「三草(みくさ)」と称する。  

天照神社を建立したが、後に現在地に遷座した。

当地が住吉大社の神領となると、住吉三神の分霊を勧請し住吉神社と改称した。

 

鳥居

 

階段を上る。

 

 

舞殿と拝殿。

 

舞殿の天井は釘を使わない工法で造られている。

 

神事用の社殿か。

 

拝殿

 

 

 

 

本殿

 

 

本殿右に大年社、八幡宮神社と祇園神社。

 

本殿左に境内社が五社、

右から天満宮社、秋葉神社、正勝神社、大濱大明神、養父神社。

 

 

 

印南神吉

 兵庫県加東市(かとうし)下久米(しもくめ)67   電0795-44-0360  

 無料駐車場あるが、駐車場までの道路が非常に狭い。

 

 播磨国賀茂郡住吉郷の式内社、深山鎮座の住吉神社。

 

 祭神 上筒男之命(うわつつのおのみこと)、

    中筒男之命(なかつつのおのみこと)、

    底筒男之命(そこつつのおのみこと)、

    気長足姫之命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)。

 

 創建は古く、古墳時代の5世紀~6世紀頃かもしれない。

 当地は住吉大社の神領で、社殿造営用や造船用の木材を住吉大社に供給していた。

      

 

石の鳥居と社号標、右は下久米公民館。

 

両部鳥居、扁額は「住吉大神宮」。

 

長い階段を上る。

 

階段を上りきると、「能舞台」と「橋掛り」の間から境内に入る感じになっている。

手前は手水舎。

 

「橋掛り」に続く「鏡の間」(演者が身支度をする神聖な部屋)。

 

南向きの拝殿。

 

 

 

 

本殿と右に境内社の荒神社。

 

 

本殿左の境内社、

右は天照皇太神社、左は山神社。

 

東向きの境内社、

左は稲荷神社、右は厄神(八幡神社か?)。

 

 

 

印南神吉

 兵庫県多可郡多可町八千代区中野間1135   参道横の広場に車を停められる。

 「花の宮」に鎮座の花波神(はななみのかみ)。

 

 祭神 高龗神(たかおかみのかみ)。 

 

         

 日本書紀「黄泉の国」の一書(第七)によると、

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が剣を抜いて軻遇突智(かぐつち)を斬って三つに断った。

 一つは雷神(いかづちのかみ)となり、一つは大山祇神(おおやまづみのかみ)となり、一つは高龗(たかおかみ)となった。

 

 創建は嘉吉年間(1441年‐1443年)。

 

 秋の例大祭で、中野間・下野間・仕出原三ヵ村の立派な布団太鼓(屋台)が3基宮入りする。

 流鏑馬神事も継続されている。

 

 当社は野間川、大和川、仕出原川の三川が合流する所に鎮座。

 多可町は水の豊富な地域で、水神・龍神の高龗神(たかおかみのかみ)を祀っている。

 

 

入口の立派な両部鳥居。

 

入口の左右に随身像。

 

拝殿、右は八千代小学校。

 

綺麗な注連縄と龍の彫刻。

 

 

東向きの本殿、天保10年(1839年)建立。

 

 

 

 

印南神吉

 兵庫県多可郡多可町八千代区下野間356    無料駐車場あります。

     

 祭神 伊弉冊尊(いざなみのみこと)

   

 国道175号から加古川を西に渡り県道34号に入り、野間川沿いに西進、野間川に沿って県道24号を北上、下野間に着くと野間川の東に当社が鎮座している。

 水の豊かな多可町には貴船神社が多い。 

 

 

 入口の新しい鳥居、扁額は「貴舩神社」になっている。

 

 参道左に屋台藏と手水舎、秋祭りには金ぴかの豪華なふとん太鼓が宮入りする。

 右には遊園地。

 

 

 拝殿、南西向き。

 

 屋根には「金のシャチホコ」。

 

拝殿前に景観保全樹木の大きな山茶花(樹齢150年)。

 

 本殿、手前が貴船神社、中央が天満神社と八将神社、奥が金刀比羅神社。

 八将神(はっしょうじん)は陰陽道の方位を司る八神(八将軍)。

 

  左奥の階段を上ると下野間稲荷神社。

 

 

 

 社殿を背後から。

 

 

印南神吉

 日本列島へ渡来した古代人の渡航について、北方地域から南進して来たと云う説があるのに対して、民俗学者の柳田國男(1875年‐1962年)は南方地域から北進してきたと云う仮説を発表していた。   

「柳田國男」は1921年(大正10年)に沖縄・石垣島・宮古島で調査を行い、論文集「海南小記」を発表した。

 日本民族起源説をめぐり、柳田國男が1961年(昭和36年)に著した「海上の道」の中で、「原日本人の起源について、縄文期と弥生期の境目の頃に、米の種実と稲作技術を持った南方の人々が黒潮を北上して本土に住みついたと考えられる」という仮説を発表した。

 

 柳田國男の黒潮による北上仮説は、海のロマンと結びつき当時は多くの賛同を得た。

 現在の研究者の説では、縄文人も弥生人も日本列島の南方から海流に乗って北上してきたと云う説が多いが、シベリアから樺太・北海道・本州へと南下して渡来した縄文人・弥生人もいたと考えられている。

     

 縄文時代は16,000年前から2,500年前までと非常に長いので、縄文人は日本列島全体に拡散し、母系社会で争いの少ない均一に近い生活をしていたと考えられる。ただ、列島は南北に長いので気候環境は様々で生活の多様性はあった。

 

 旧石器時代は狩猟採集の非定住生活であったが、縄文時代になると定住集落に集会所や櫓や竪穴住居を建て、縄文土器や土偶の製作、広範囲の交易、農業、貝塚、弓矢と磨製石器の使用など「縄文文明・縄文文化」と云われる豊かで民度の高い社会を形成していた。

 私見では、16,000年前から日本列島に高度な「縄文文明が開化」、渡来人も波状的に増え、現在まで連綿と文明社会が続いている。

 そして、日本人は世界でも珍しいYAP遺伝子(D1a2a)を持っており独特の文化を育んできたので、一部の反日グループを除けば日本人は世界中から称賛を得て愛されている。

 縄文時代にも、揚子江(長江)によく似た環境の有明海周辺と吉備周辺に少数の江南人(倭人)が移住していたが、まだ渡来数が少なく列島全体への影響はなかった。

      

 東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介特任助教が「都府県の縄文度」を発表しておられるのでご覧ください。サイトの中央部に色分けした列島地図があります。

 この日本地図を見ると、四国・紀伊半島に縄文度が低い(弥生度が高い)傾向があると分かるので、江南人(弥生人)は黒潮に乗ってやってきたと考えられる。

 

 江南人は四国・紀伊半島から北進して日本海に至ったと判断もできるが、一部の江南人は九州南部で黒潮から対馬海流に乗り換えて日本海に進み、若狭湾に入り琵琶湖(滋賀県)から近畿地方に至ったと考えられる。

 

 

印南神吉