富雄丸山古墳(奈良市丸山1丁目)は4世紀後半築造と云われる最大の円墳(109m)で、3段目(墳頂)の主体部は明治時代に盗掘されている。
盗掘品を収集家の守屋孝蔵氏が買い戻し、京都国立博物館が所蔵している。4世紀の古墳時代の祭祀用具である石製模造品類で国の重要文化財になっている。
伝富雄丸山古墳出土物として三角縁神獣鏡3面(径20cm以上)が天理参考館に保管されている。富雄丸山古墳出土品としての確証はないが、国の重要美術品に指定されている。
古墳の東を北から南へ流れる富雄川(とみおがわ)が、奈良県生駒市(いこまし)高山町から南方向へ流れて、奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)目安(めやす)のあたりで大和川に注ぐ。
富雄川の流れの途中には、奈良市三碓(みつがらす)に添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)が鎮座、国重要文化財で祭神は富雄の王「長髄彦(ながすねひこ)」。
長髄彦は登美彦(とみひこ)とも呼ばれ当地を治めていたが、饒速日命(にぎはやひのみこと、165年頃‐210年頃)が西暦185年頃に天磐船(あめのいわふね)に乗って九州から東遷、白庭山に来て長髄彦を帰順させ、その妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶った。
鳥見白庭山の碑
しかし、磐余彦(いわれひこ、181年‐248年)一行が九州から東征して大和国(奈良県)に入ろうとしたが、長髄彦に阻まれ紀伊半島に退却した。
南方から大和国磯城郡に攻め入った神武一行は長髄彦を圧倒し、西暦209年に饒速日命は服従して磐余彦に磐余邑(橿原市周辺)の地を与えた。
磐余彦は西暦210年に媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を皇后とし、西暦211年に橿原で即位、初代神武天皇となった。
富雄丸山古墳の造り出し部から出土した高野槙製の割竹形木簡(長さ5.3m)が粘土槨に覆われ保存状態は良好。木棺に縄かけ突起があり、造り出し部は盗掘されていなかった。
2023年1月の調査発表で、造り出しの斜め上から前代未聞の出土物が発見された。
蛇行剣(だこうけん)、長さ237cm、石突(いしづき)を含めて全長285cm、幅6cm、
短い蛇行剣は過去に80例ほど出土しているが、これほど長い蛇行剣は例がない。
石突(いしづき)は、儀式で剣を立てる時に鞘(さや)の先端が地面に触れないようにするために付いている突起部(漆塗り)のこと。
時代は違うが、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)の宝物(国宝)「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」は直刀の神剣で全長271cmあり、8世紀前半(1,300年前)頃に造られた。
富雄丸山古墳の蛇行剣の下に鏡面を上に向けた状態で大きな盾形銅鏡が発見された。
鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう)と云い、縦64cm、横31cm。
通常の円形の鼉龍鏡は、中国の画文帯神獣鏡を模した銅鏡で、国内で70面ほどが出土しており中型から大型が多いが、盾形の大型銅鏡は前代未聞だ。
被葬者が気になるが、出雲神族富氏の直系で大和国王であった長髄彦(ながすねひこ)の子孫が被葬者なのか?
私見ですが、主体部の被葬者は3世紀前半に亡くなった長髄彦(ながすねひこ)で、造り出し部の被葬者は妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)ではないかと考えていますが、古墳の築造時期と150年ほど時代が合わないので長髄彦の子孫かもしれない。
主体部が明治時代に盗掘されたが、その出土物は4世紀の祭祀用石製模造品類(京都国立博物館所蔵)や、伝富雄丸山古墳出土の三角縁神獣鏡3面(天理参考館保管)なので、富雄丸山古墳の築造時期を4世紀後半にしたと考えられる。
昭和・平成の主体部発掘調査で、副葬品として武器・鉄製品・銅鏡・巴形銅器・形象埴輪・石製品などがあり国の重要文化財に指定されている。
可能性は低いが、今後の研究により主体部築造時期が3世紀前半に変更されれば、出雲神族で大和国王であった長髄彦(ながすねひこ)が被葬者となるのではないか。
饒速日命6世孫・伊香我色乎命の後裔に登美連(とみのむらじ、鳥見連)がある。
蛇行鉄剣と盾形銅鏡は割竹形木棺の斜め上から出土したが、木棺内からは20cmを超える青銅鏡3面、漆塗りの竪櫛(たてぐし)9点、水銀朱跡などが出土した。
この3面の銅鏡の中に三角縁神獣鏡があれば、造り出し部の築造時期は4世紀であると認定できるので、主体部の築造時期と大きく変わらない。
長髄彦の妹・三炊屋姫(みかしきやひめ)の亦の名は、鳥見屋姫(とみやひめ、登美屋毘売)や長髄姫(ながすねひめ)で、饒速日命の妻となり宇摩志麻遅命(うましまじ、物部氏の祖)を生んだ。
生駒市上町5の夫婦塚(御炊屋姫塚伝承地)。
400m北に「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑」と「天忍穂耳神社」がある。
印南神吉