兵庫県姫路市豊富町(とよとみちょう)御蔭(みかげ)2477   駐車場あります。

 

播磨国神東郡(じんとうぐん)曽坂村の式内社で、江戸時代に「葛城権現社」と呼ばれていた。

明治元年(1868年)に新次神社(にすきじんじゃ)と改称した。

 

神崎郡の市川より東を神東郡(じんとうぐん)、西を神西郡(じんさいぐん)に分割されていた。

曽坂村が明治11年(1878年)に他村と合併して「御蔭(みかげ)」に変更された。

 

祭神 葛城大神(かずらきのおおかみ)。

 

 味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、賀茂大神、一言主神(ひとことぬしのかみ)と同一。

 

 

奈良県御所市鴨神の「高鴨神社」から勧請したのかもしれない。「葛城一言主神社」かもしれない。

    

鳥居と燈籠。

 

参道の階段を上がって来た。

 

境内

 

 

拝殿、

狛犬の外側一対は伊部焼き(いんべやき、大正13年奉納)、内側一対は石造り。

 

扁額には「葛城一言主命」とある。

21代雄略天皇(432年‐479年)が葛城山で狩りをしている時に、葛城の一言主神(大国主神と田心姫の子神で賀茂大神)が背の高い現人神(あらひとがみ)として顕現し、一緒に狩りを楽しんだ。

 

拝殿には絵馬が多い。

秋祭りの宵宮で、新たに誕生した子どもの氏子入りがあり、神饌を供え絵馬を奉納する。

 

 

本殿、文政9年(1826年)建立、明治32年(1899年)建て直し。

檜皮葺きの本殿は覆い屋の中。

 

 

拝殿の左に境内社の金刀比羅神社(大物主大神)。

 

本殿の左に境内社の稲荷神社(竹丸大明神)。

 

本殿右の階段を上ると境内社の秋葉神社(秋葉山大神、火之迦具土大神)。

 

 

 

印南 神吉(いんなみ かんき)

兵庫県姫路市砥堀(とほり)1391   駐車場あります。

播磨国神東郡(じんとうぐん)に鎮座。

 

 

神社の少し手前の市川沿いに「馬車モニュメント」がありました。

「銀の馬車道」は播但地域(播州、但馬)で生野鉱山(いくのこうざん)から姫路飾磨港(しかまこう)へと南北に通る日本初の高速産業道路であった。

更に明延鉱山(あけのべこうざん)などへと続く73kmの馬車専用道は日本の近代化に貢献した。

 

春川神社の祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)の子孫神で、

 主祭神 大年大神(おおとしのおおかみ、165年頃生)、

 配祀神 御年大神(みとしのおおかみ)、若年大神(わかとしのおおかみ)。

 

当社の創立は貞観11年(869年)で、廣峯神社の素戔嗚命(すさのおのみこと、140年頃‐200年)の

朝鮮半島における古跡・春川を社名とした。   

 

在原業平(825年‐880年)が増位山随願寺の山王祭礼に勅使として訪れるため近くを通り、詠んだ和歌。

  播磨路や 糸の細道 わけゆけば 砥堀に見ゆる 有明の月

 

春川神社の鳥居と燈籠。

 

境内、遊園地にもなっている。

 

神輿庫と手水舎。

 

春川神社竣功記念碑、金井元彦氏の揮毫。

 

社殿は昭和49年に改築、鉄骨コンクリート造りの銅板葺き。

 

 

 

本殿

 

境内社、右から峯瀧稲荷大神、御嶽大権現(おんたけだいごんげん)、住吉大明神。

 

                      ***

アメリカの経済力・軍事力は強大で、それを背景にトランプ大統領は世界中に圧力をかけている。

同じように国防長官も財務長官も他国に厳しい。

共和党が政権運営を続けるのは良いが、同盟国にまで敵対姿勢で臨むのには世界が背を向けてしまう。

戦後80年間も世界をリードしてきたアメリカだが、そろそろ限界なのかもしれない。

 

日本は80年前に太平洋戦争でアメリカの猛攻撃により崩壊してしまったが、戦後は国民の踏ん張りで何とか盛り返し、今や技術力も国民性も世界のトップにまで上り詰めた。

これに氣付いていない国もあるが、日本は自信をもって、しかし謙虚に世界をリードして欲しい。

日本にとってアメリカとの付き合いは大事だが、今後はアメリカとのウェートを少し下げて、イギリス、イタリア、ポーランド、北欧、トルコ、カナダ、オーストラリア、インドなどとの比重を深めると良いのではないか。

自衛隊は「統合防空ミサイル防衛」、「反撃能力」を強化し、日本への攻撃を躊躇させている。そして同志国への武器・弾薬輸出による協力体制も実施している。

 

今頃になって、私は政治家にならなかったことを反省しているが、もう83才と高齢になってしまった。

麻生太郎さんは私より3才も年上で、その元氣ぶりには驚きだが失言も多かった。

昔、麻生氏は飯塚駅前の選挙演説で「下々の皆さん」と呼びかけたらしい。

麻生氏は学習院大学卒で大企業を経営、モントリオールオリンピックに出場、総理大臣も経験している。

吉田茂、牧野伸顕、大久保利通などが麻生氏の先祖で、妹は皇族の信子様。

我々国民をうっかり「下々の皆さん」と呼びかけてしまったのだろうが、それは本音であったと思う。

 

天皇陛下は国民に寄り添って、毎日、宮中三殿の賢所(かしこどころ)で国家国民のために、世界平和のために、真剣に祈ってくださっています。

 

 敷城島(しきしま)の 大和の国は 言霊(ことだま)の 助くる国ぞ

 ま幸(さき)くありこそ                            柿本人麻呂

 

印南 神吉(いんなみ かんき)

兵庫県赤穂郡(あこうぐん)上郡町(かみごおりちょう)與井(よい)643

無料駐車場あります。

厄除開運、子育て祈願、商売繫盛、交通安全、健康祈願。

 

祭神 足中津彦命(たらしなかつひこのみこと、14代仲哀天皇、320年頃‐362年)、

   誉田別命(ほんだわけのみこと、15代応神天皇、363年‐403年)、

   息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后、321年‐389年)。

 

上郡の秋祭りは大変な賑わいとなる。

 

 

創建は承和4年(837年)。

赤松則村(のりむら、円心、1277年‐1350年)が当社を崇敬、元弘3年(1333年)に社殿を再建。

大正元年(1912年)に社殿改築。

 

すぐ南隣に須賀神社が鎮座。 祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと、140年頃‐200年)。

上郡町には須賀神社が非常に多い。

「4世紀から5世紀の皇族」をご参照ください。

 

入口

 

燈籠と鳥居、駐車場が入り込んでいる。

 

須賀神社(素盞嗚尊)。

 

さざれ石の磐座(君が代の石)。

 

境内

 

神馬と手水舎。

 

拝殿、大正元年に改築、絵馬が多い。

 

 

 

 

 

幣殿は大正元年に改築。本殿は明治43年に屋根葺き替え。

 

本殿

 

 

本殿右の境内社(祭神は武内宿禰命)。

 

本殿左に神輿庫(旧社務所、古い神輿が保存されている)。

 

印南 神吉(いんなみ かんき)

兵庫県赤穂市(あこうし)有年(うね)楢原(ならはら)1053   

神社の西を千種川が流れる。

千種川周辺には須賀神社が多い。

 

祭神 須佐男之命(すさのおのみこと、140年頃‐200年)。

   

 

国道373号沿いにパーキングがある。

 

 

周りは山々と畑。

 

神社の入り口。

 

 

 

 

拝殿

 

 

 

 

 

 

 

拝殿の左に「明治天皇聖徳碑」。

 

 

印南 神吉(いんなみ かんき)

兵庫県赤穂郡(あこうぐん)上郡町(かみごおりちょう)赤松267  

電0791-52-1277

東寺真言宗。

 

松雲寺(しょううんじ)は、赤松円心(則村、1277年‐1350年)の居城である白旗城があった白旗山麓の栖雲寺(せいうんじ、禅宗)を継承・移転し、真言宗に転宗した。

栖雲寺は円心の次男・赤松貞範(1306年‐1374年)が建立した。

赤松氏は村上源氏で、旗印は「白旗」であった。

 

当寺の前を千種川が流れる。

 

赤松円心像(Google Maps法雲寺より)

 

 

入口、大きなカヤの木が繁っている。

 

 

 

山門(鐘楼門)。

 

境内の松が横に伸びている。

 

地蔵菩薩。

 

本堂

 

 

當山の中興、開山 良順上人四百回忌記念碑。

 

不動堂(大日如来、不動明王、釈迦如来)。

 

 

 

 

カヤの木、上郡町指定文化財。

 

 

 

西の隅に大きな銀杏。

 

白旗山を望む。

 

赤松居館跡。

 

 

印南 神吉(いんなみ かんき)

兵庫県赤穂郡(あこうぐん)上郡町(かみごおりちょう)赤松271   

国道373号沿いにパーキングあり。

 

祭神 品陀和気命(ほんだわけのみこと、15代応神天皇、363年‐403年)、

配祀 帯中津彦尊(たらしなかつひこのみこと、14代仲哀天皇、320年頃‐362年)、

   息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后、321年‐389年)、

   大雀尊(おおさざきのみこと、16代仁徳天皇、386年‐429年)、

   素盞嗚尊(すさのおのみこと、140年頃‐200年)、

   大山祇神(おおやまづみのかみ)、

   猿田彦命(さるたひこのみこと)。   

 

   

56代清和天皇(850年‐881年、清和源氏の祖)が石清水八幡宮を勧請して祀るよう勅命があり、当地に創建した。

 天永2年(1111年)に源季房(すえふさ、赤松氏の祖)が播磨守護職として赤松庄に移り、当社の社殿

 改築などを進めて崇敬した。

 赤松氏は千種川(ちくさがわ)流域の豊富な林業、製鉄業、水運により財力を蓄えていった。

 当地で生まれた赤松則村(円心、1277年‐1350年)は白旗城を築造、武功を上げ室町幕府成立(1336

 年)に貢献、当社の社殿を再建した。

 

地図白旗城跡(国指定史跡)

 

 

当社は武将には弓矢の神、農民には祈雨の神として崇められた。

江戸時代に当地は赤穂浅野家の所領となり元禄11年(1698年)に社殿修復。

明治32年(1899年)に白旗神社と素盞嗚神社を合祀した。

 

神社の前を国道と千種川が流れる。

 

入口

 

 

社務所

 

割拝殿、武将の絵馬が多い。

 

 

 

 

 

 

本殿

 

 

本殿の右に境内社の福神社。

 

祠と古池。

 

 

 

印南 神吉(いんなみ かんき)

素盞嗚尊(すさのおのみこと、140年頃‐200年)の先祖は楚人だったと考えられる。西楚の項羽(BC232年‐BC202年)が楚漢戦争(BC206年‐BC202年)に敗れ、一部の楚人がBC3世紀からBC2世紀に大陸から日本列島に逃れてきた。

揚子江流域に住む倭人(江南人)の呉人(BC5世紀)と越人(BC4世紀)に続き、同じ倭人(江南人)の楚人も列島に逃れてきた。全て戦争の影響である。   

「素盞嗚尊(すさのおのみこと)と楚(そ)」をご覧ください。

 

日本列島では16,000年前から平和な縄文時代が13,000年以上も続いていたが、倭人(江南人)が日本列島に逃れてきたので、弥生時代になり戦争・勢力争いが頻発した。

素盞嗚尊(すさのおのみこと)が西暦200年に亡くなり、201年に卑弥呼(179年‐247年)が北部九州の倭国女王になると、大国主命(160年頃‐220年頃)に「国譲り」を強制した。

その後、天孫族は大和国(奈良県)に拠点を移し、全国各地を制覇していった。

  

素盞嗚尊の跡を継いだ出雲親族の大国主命の先祖は4,000年ほど前にインドのクナト国から日本列島にやってきて縄文人と馴染んだ。

「狗奴国はクナト国」①、②をご参照ください。

 

古墳時代(3世紀‐6世紀)になると秦氏など西アジア系の人々も東方の「日が昇る国」を目指してやってきた。

シルクロードを通ってやってきた人々や南の海路からやってきた人々は紀元前からの痕跡を列島に残している。

ウバイド人、シュメール人、フェニキア人、ユダヤ人、ペルシャ人、ドラヴィダ人がやってきた。

ユダヤ人の「失われた十氏族」の一部も「東の島々」(日本列島)を目指してやってきた。

更に我々のDNAにはネアンデルタール人とデニソワ人も若干含まれている。

 

DNAの研究結果が良く発表されており、個人でも簡単なDNA検査ができるようになっているが、地域差・個人差のばらつきも大きい。

まだ日本人全体は均一に混ざり合った段階ではなく、個人差が大きい。

 

しかし、人間としての資質、風俗、習慣、文化はかなり均質化しているのではないか。

海外の人が日本人の特質をよく褒めてくれるのは嬉しい。

勿論、「お人好し」だという欠点(長所?)もありますが・・・

大事なのはDNAの比率ではなく「人間性」だと思う。日本人の人間性、民度の高さ、技術の高さはG7の中でもトップだと思う。

 

                                   ***

    

山梨県立考古博物館で9月19日(土)~11月23日(月)まで「中部高地に芽生えた水煙文土器」が開催されます。

 

印南 神吉(いんなみ かんき)

勾玉(まがたま、曲玉)は縄文時代に造られ、弥生時代、古墳時代まで造られた。製作に従事した職人を玉造部(玉作部、たまつくりべ)と云った。

原型は「動物の牙(牙玉)」だと考えられ、材質は翡翠(ひすい)、瑪瑙(めのう)、碧玉、水晶、ガラスなどがある。製造各地により材質や形が違っている。

中でも新潟県糸魚川で採れる翡翠は非常に価値が高かった。

 

天孫族が伝世する「三種の神器」に「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」がある。

三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を天照大神、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、草薙剣)を素盞嗚尊、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を月読尊として三貴子を表現することがある。

天照大神の岩戸隠れの時に玉祖命(たまのおやのみこと)が勾玉の数珠を造ったと古事記に記されている。日本書紀には玉造部の先祖の豊玉神が玉を造り、伊弉諾命の子・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)が八尺瓊曲玉を造ったとある。      

2014年11月に投稿した「唐子鍵考古学ミュージアム」で見た糸魚川産の翡翠の勾玉をご覧ください。

 

勾玉は国内流通だけではなく、中国や朝鮮諸国にも輸出された。

古墳時代が終わると勾玉の製造数は減少し、宗教的な装飾品として造られた。

 

勾玉に穴をあけ、紐を通して首飾りなどにしたが、固い石に穴をあけ、磨き上げるには非常に高い技術と日数が必要であった。

首飾りだけでなく、勾玉は祭祀用にも使われた。

現在でも天皇の儀式には八尺瓊勾玉が使用され、神社では勾玉のお守りが販売されている。

しまね観光ナビをご覧ください。   

 

 

印南 神吉(いんなみ かんき)

三沼君(みぬまのきみ)は筑後国三潴郡(みづまぐん、久留米市など)を拠点とした海人族で、天照大神の配下にあった。

三潴郡(みづまぐん)は筑後川の下流域にあり、有明海に面した水運の要衝であった。

 

天照大神と素盞嗚尊(すさのおのみこと、140年頃‐200年)が誓約(うけい)をして産まれた宗像三女伸(田心姫、湍津姫、市杵嶋姫)に、天照大神は「お前達三柱の神は、海路の途中に居て天孫を助け、天孫のためにお祀りをしなさい」と云われた。

宗像三女神は「道主貴(ちぬしのむち)」として北の海路を守護する。

 

宗像三女伸は、最初は宇佐嶋(大分県宇佐市の宇佐神宮元宮)に降臨したが、田川郡添田町の英彦山(ひこさん)へ遷り、次に鞍手郡(くらてぐん)の六ヶ岳(むつがだけ、六嶽神社)を経由して宗像(むなかた)の海路に遷り、宗像大社(辺津宮の市杵島姫神、中津宮の湍津姫神、沖津宮の田心姫神)に祀られている。

 

福岡県田川郡の香春神社(かわらじんじゃ、祭神は辛国息長大姫大目命)に関係が深いのは辛嶋氏と秦氏である。

秦氏は香春岳の銅採掘、精錬により香春神社や宇佐神宮へ神鏡を納めた。東大寺大仏殿に銅を納めたのも香春岳からであった。

 

三沼君の大集落があった遺跡は、久留米市三潴町(みづままち)高三潴(たかみずま)の高三潴遺跡、久留米市安武町(やすたけまち)の塚畑(つかばたけ)遺跡、大善寺町の道蔵(どうぞう)遺跡などがあり、銅剣、銅鐸、連玉などが出土している。

三沼君の子孫一族の墳墓は、久留米市大善寺町の権現塚古墳(円墳)、御塚古墳(帆立貝式)で5世紀後半から6世紀前半の築造。

周辺には40基以上の古墳が散在しているが開発で壊された古墳も多い。

御塚古墳地図

 

三沼氏は筑後川→宝満川→御笠川→博多湾→宗像への航路、

筑後川→陸路で飯塚→遠賀川→宗像への航路などで宗像氏と強い関係を持っていたと考えられる。

福岡県朝倉郡(旧・三輪町)筑前町に大己貴神社(おおなむちじんじゃ)が鎮座、大己貴命(大国主命)を祀る。

久留米市城島町芦塚(旧・三潴郡)に大己貴神社が鎮座している。

田心姫と湍津姫が大己貴命(大国主命)の妃になっており、田心姫(多紀理比売命)は出雲大社の筑紫社に祀られている。

 

 

 

久留米市大善寺町宮本に大善寺玉垂宮(だいぜんじたまたれぐう)が鎮座、創建は1900年前、祭神は

玉垂命、八幡大神、住吉大神で、明治の前までは神仏習合の大きな寺社であったが、明治になると大善寺は廃され、玉垂宮だけが残った。

今でも神仏習合時の名残は濃い。

大善寺玉垂宮地図

 

久留米市北野町(きたのまち)大城(おおき)に赤司八幡宮(あかじはちまんぐう)が鎮座、田心姫の降臨地で、ここが三沼氏の本拠地であったとも云う。

神主は三沼氏で道主貴(三女伸)を祀る。

当社は最初「筑紫中津宮」と呼ばれ、後に「止誉比咩(とよひめじんじゃ)」となった。海濱宮(へつのみや)は湍津姫(たぎつひめ、比売大神)を祀る宇佐神宮、遠津宮は宗像氏が市杵嶋姫を祀る宗像大社になっている。

 

三沼君と同じく宗像三女神を祀る宗像氏は筑紫国宗像郡の大領と神主を兼ね、胸形徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)が40代天武天皇(622年‐686年)の妃となり高市皇子(たけちのみこ、654年‐696年)を産んだ。孫は長屋王(684年‐729年)。

高市皇子は大和国(奈良県桜井市外山、とび)に宗像神社を勧請している。

宗像氏は宗像大社の大宮司として活躍、「沖ノ島祭祀」を司り、平安時代には日宋貿易にも従事した。

宗像氏は藤原北家に接近して在地支配を固めた。

「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群が世界文化遺産に登録された。

 

12代景行天皇(281年‐340年)が筑紫国を巡幸されたとき、水沼県主猿大海(みぬまのあがたぬしさるおおみ)が八女県(やめのあがた)の女神・八女津媛の話をした件が記されている。

 

三沼君一族も「沖ノ島祭祀」を担っていたかもしれないが、大問題が勃発。

日本書紀によると雄略天皇10年(466年)、身狭村主青(むさのすぐりあお)らが大陸に渡り、呉(くれ、宋)から天皇に奉った2羽のガチョウを連れて帰国した。

このガチョウが水間君(みずまのきみ、三沼君)の犬にかみ殺された。水間君は恐れ憂えて鴻(おおとり、ひしくい)10羽と養鳥(とりかい)人を献って、罪を贖うことを願ったので天皇は許された。

 

「筑紫君磐井の乱」が527年‐528年に起こり、有明海に近い筑後地域の豪族が大和王権と対立したが、磐井の子・葛子が糟屋屯倉を献上して贖罪した。

三沼氏も有明海から大陸に進出し交易をしていたが、大和王権とは良好な関係で三潴郡(みづまぐん)を統治していた。

 

三沼氏は海人族なので、全国に拡がっていたと考えられる。

出雲国出雲郡に美努麻神社(みぬまのかみのやしろ)、現在は合祀により奥宇賀神社となっている。

阿波国麻殖郡(徳島県吉野川市鴨島町)の天水沼間比古神社、現在は杉尾神社などが比定されている。

摂津国(神戸市灘区)に敏馬神社(みぬめじんじゃ、美奴売)が鎮座している。

江戸時代の埼玉県大宮に三沼という沼があった。

 

印南 神吉(いんなみ かんき)

 

16,000年前の日本列島に世界最古の縄文文化・縄文文明が開花し、2,400年前までの超長期間の「平和」で「高い技術」の時代が続いた。

縄文人の「調和の精神」と日本列島の「地政学的な理由」で平和が護られたと考えられる。

 

オリエントのメソポタミア北部・シリア・アナトリア(トルコ)地域では、8,000年前から7,500年前まで「ハラフ文化(Halaf)」が栄え、農業(麦)、家畜、彩文土器、円形住居、交易用の封泥使用などがあったが、メソポタミア南部ではチグリス・ユーフラテス川の氾濫があり住民は少なかった。

 

同じ頃に「ウバイド人」がメソポタミア南部のテル・アル=ウバイドにやってきて、灌漑農業を始めたので豊かな収穫量で人口が増えメソポタミア全体に広がっていった。  

ウバイド人は神殿中心の都市社会を造り、車輪・ろくろの発明、美しい土器製作などを行った。

 

5,500年前から4,000年前までメソポタミアでシュメール文明が栄えたが、文明の担い手のシュメール人はウバイド人だったのかもしれない。ハラフ→ウバイド→シュメールと文化も民族も続いているのではないか。

私見ですが、ウバイド文明が発展した状態をシュメール文明と呼んでいるのかもしれない。

 

4,000年前にシュメールが滅んだ時にメソポタミアのウルで遊牧生活をしていた「ヘブル人のアブラハム」がウルを去り、カナンの地(イスラエル)へ逃れ、ユダヤ教徒・イスラム教徒の祖となった。

 

シュメール、ヘブライ、日本には共通点が多い。

信仰・神話の類似、16弁の紋章が同じ、シュメール語・ヘブライ語・日本語に共通語が多い、「失われたアーク」と「神輿(みこし)」の類似、ユダヤの幕屋と日本の神社の類似などがある。

DNA解析で復元した縄文人の顔とシュメール出土の人物像の顔が似ている。目が大きく鼻が高い。ひげも濃い。

 

私見ですが、数千年前に西アジアへ渡った縄文人がシュメール人やヘブライ人(ユダヤ人)に混血して紛れ込んでいるのではないか。DNAの共通性も少し認められる。

そしてペルシャなど西アジア諸国から日本列島にやって来た人々も多い。

ウバイド人はメソポタミアから西北方面に移住してケルト人と交わり、極東方面に移住して縄文人と交わったと考えられる。

縄文日本とケルトの文化に共通性が多い。スペインとフランスの境界に住むバスク人もケルト人との交合が考えられる。

 

法隆寺は、31代用明天皇が病気平癒を祈願して薬師如来を本尊とする寺の建立を始めたが587年に崩御したので、聖徳太子(574年‐622年)と33代推古天皇(554年‐628年)が用明天皇の意思を引き継ぎ、推古天皇15年(607年)に「若草伽藍」を完成したのが始まりで「斑鳩寺(いかるがでら)」と称した。

斑鳩寺は聖徳太子の住居である「斑鳩宮(いかるがのみや)」の西隣に建てられたが、天智天皇9年(670年)に火災で寺も宮も全て焼失した。

 

7世紀末に金堂と五重塔を中心とした「西院伽藍(さいいんがらん)」が斑鳩寺跡に建立され、世界最古の木造建築群となっている。

8世紀前半に東隣りの斑鳩宮跡に夢殿を中心とした「東院伽藍(とういんがらん)」が建立された。

現在は、西院伽藍と東院伽藍を含めて聖徳宗(しょうとくしゅう)総本山・法隆寺と称し、聖徳太子を宗祖としている。聖徳太子は「和を以て貴しと為す」を十七条憲法に定めた。

1993年に法隆寺は日本初の世界文化遺産に登録された。

 

 

 

法隆寺の五重塔に釈迦入滅の涅槃像があり、侍者像(じしゃぞう)の頭はトカゲのような爬虫類で、身体は人になっており、ウバイド遺跡の「爬虫類人の像」の頭部と殆ど同じに見える。

古代エジプトのピラミッドにも獣頭人身像が非常に多いが、逆に人面獣身像もある。

古代ギリシャにも人と動物の合体した像がある。

 

キトラ古墳の獣頭十二支像。

キトラ古墳は奈良県高市郡明日香村阿部山に7世紀末頃に築造された円墳で、天井石には天文図、東側には日像、西側には月像、四面の壁には玄武・青龍・朱雀・白虎の四神像(国宝)、獣頭人身の十二支像が描かれている。

十二支の動物を獣頭人身像で表している。

 

キトラ古墳の被葬者は右大臣・阿部御主人(あべのみうし、703年没)か天武天皇の皇子・高市皇子(たけちのみこ、654年‐696年)か。

明日香村檜隈(ひのくま)に居住していた渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)がキトラ古墳築造に関わったと考えられる。

 

45代聖武天皇(701年‐756年)皇太子・基王(もといおう、727年‐728年)の那富山墓(なほやまぼ)に「隼人石(はやといし)」があり、獣頭人身が線刻されている。

 

大阪府羽曳野市駒ヶ谷の杜本神社(もりもとじんじゃ)にも獣頭人身を刻んだ「隼人石」がある。

 

隼人石は薩摩の隼人とは関係なく、頭は十二支の動物で体は人身の像12体を揃えていたものの一部が残っているのではないか。 最初から1体だけなら、被葬者の干支を現しているのかもしれない。

 

印南 神吉(いんなみ かんき)