日本列島へ渡来した古代人の渡航について、北方地域から南進して来たと云う説があるのに対して、民俗学者の柳田國男(1875年‐1962年)は南方地域から北進してきたと云う仮説を発表していた。   

「柳田國男」は1921年(大正10年)に沖縄・石垣島・宮古島で調査を行い、論文集「海南小記」を発表した。

 日本民族起源説をめぐり、柳田國男が1961年(昭和36年)に著した「海上の道」の中で、「原日本人の起源について、縄文期と弥生期の境目の頃に、米の種実と稲作技術を持った南方の人々が黒潮を北上して本土に住みついたと考えられる」という仮説を発表した。

 

 柳田國男の黒潮による北上仮説は、海のロマンと結びつき当時は多くの賛同を得た。

 現在の研究者の説では、縄文人も弥生人も日本列島の南方から海流に乗って北上してきたと云う説が多いが、シベリアから樺太・北海道・本州へと南下して渡来した縄文人・弥生人もいたと考えられている。

     

 縄文時代は16,000年前から2,500年前までと非常に長いので、縄文人は日本列島全体に拡散し、母系社会で争いの少ない均一に近い生活をしていたと考えられる。ただ、列島は南北に長いので気候環境は様々で生活の多様性はあった。

 

 旧石器時代は狩猟採集の非定住生活であったが、縄文時代になると定住集落に集会所や櫓や竪穴住居を建て、縄文土器や土偶の製作、広範囲の交易、農業、貝塚、弓矢と磨製石器の使用など「縄文文明・縄文文化」と云われる豊かで民度の高い社会を形成していた。

 私見では、16,000年前から日本列島に高度な「縄文文明が開化」、渡来人も波状的に増え、現在まで連綿と文明社会が続いている。

 そして、日本人は世界でも珍しいYAP遺伝子(D1a2a)を持っており独特の文化を育んできたので、一部の反日グループを除けば日本人は世界中から称賛を得て愛されている。

 縄文時代にも、揚子江(長江)によく似た環境の有明海周辺と吉備周辺に少数の江南人(倭人)が移住していたが、まだ渡来数が少なく列島全体への影響はなかった。

      

 東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介特任助教が「都府県の縄文度」を発表しておられるのでご覧ください。サイトの中央部に色分けした列島地図があります。

 この日本地図を見ると、四国・紀伊半島に縄文度が低い(弥生度が高い)傾向があると分かるので、江南人(弥生人)は黒潮に乗ってやってきたと考えられる。

 

 江南人は四国・紀伊半島から北進して日本海に至ったと判断もできるが、一部の江南人は九州南部で黒潮から対馬海流に乗り換えて日本海に進み、若狭湾に入り琵琶湖(滋賀県)から近畿地方に至ったと考えられる。

 

 

印南神吉