ココロの奥底 -7ページ目

ココロの奥底

ニートやOLだったりするバスケコーチの赤裸々日記→コーチも辞めただの主婦と化しました

2005年秋

この秋のことは今でも鮮明に覚えている。

私は現役時代から数えて実に10年以上母校の女子バスケ部に携わっていることになるのだけれど、ここまで運も味方につけた子達を知らない。


なんと2部への昇進を果たしたのだ。


コーチはへっぽこ、部員数は10人に満たない。

そもそも部活がやりたくて入学する学校ではない。

かつて黄金期と言われた代でも入れ替え戦にまでも到達できなかったのにだ。

まぁ奇跡といっても過言では無いと思う。


でも、私はそれが奇跡ではないことを一番そばで見てきた。

この時の子達は確かに身体能力には恵まれていた。

170cm前後が二人いたし、ジャンプ力が飛びぬけた子もいた。

足の速さでは陸上部に負けない子も居た。

だけど、入学したときに既に怪我を抱えていた子が殆どだった。

ヘルニアに靭帯損傷。言い出したらきりがない。

でも、一番きついはずの子でも、練習をサボることはない。

もちろん同じメニューをこなすことは出来なくても、必ずまじめに取り組んでくれる。

自分が出来ない練習は、誰よりも声を出す。

当たり前だけどなぁなぁになりがちなことを、きちんと当たり前に出来る子たちだった。


手前味噌になってしまうかもしれないけど、どんな練習をやっていても物凄く高い意識で取り組んでいた。

与えたことは全て吸収してくれた。

その分飛んでくる質問も高度なものが多くてへっぽこコーチとしては嬉しい悲鳴を上げるしかなかった。


それでも2部昇進のすぐ後の試合は大差で負けてしまい、2部から決して落ちることのないチームとの間には高い壁を感じたのだけれど。


この負けてしまった試合ではひとつ、忘れられないエピソードがある。

この時、私たちのチームでは1-2-1-1というオールコートDFをよく用いていた。

しかし、私は最初に相手校の足の速さを見て、ビビッてこのDFを使えなかった。

オールコートDFは最初に抜かれたらもう取り返しが付かない。

もう、立ち直れないくらい点差が付いたときキャプテンだった子が声をかけてきた。

1-2-1-1がやりたい!と。

そして意外にもこのDFが功をそうす。


たぶん未開の地『2部』にこの時誰よりもビビッていたのは私だったんだ。

もっと早くこのDFを使っていれば結果は変わったかも知れない。

たらればを言い出せばキリがないのだが、この時ほど自分の判断ミスを悔やんだことはないし、自分たちのしてきたことにここまでの自信を持つには相当な覚悟が必要だ。

自分を信じる。

当たり前なようでなかなか出来ないことだ。

その根拠は自分の中にしかない。


今でも私は自信を持つことの大切さと、それが力に繋がることを子供たちに伝えているが、果たして自分に自信をもっているかと問われると二つ返事ではこたえられない気がする・・・・

強い(?)見方を見つけて始まった本格的なコーチ活動。

この頃私は何をしていたかというと・・・・・


ひたすら本を読んでいた。

とにかく読書。何があっても読書。

専門書を片っ端から買い集めて自分に知識を詰め込むことから始めていた。

恥も外聞もない。

人に聞けることはどんなことでも聞き、練習試合に行けば相手の先生に教えを乞うた。

またバスケ関係で仲良くなった友達をじゃんじゃん練習に呼んで、何が足りないのか、どんな練習をさせるべきか聞いた。

月刊バスケットボールから指導教本まで、自分に必要そうな知識は全て吸収しようと思った。

だからこの頃学校に通っていた時間、学校の勉強をした記憶はほとんどない(笑)

親に学費を出してもらった身分で、最低な行動だと思う。

でも、このときの私はバスケのことしか考えられなかったし、考えていることが何よりも楽しかった。


それから自分が思うことは全て子供たちに伝えてきた。

時に口頭で、時にプリント作成をし配布物で。

この頃から始まるのだが、私はプリント魔だ。

セットプレーの解説から、みんなに伝えたい気持ち。

一緒に居られる時間が、顧問が指導している部活よりも短いく不利が多い分、私は当時そこいらの顧問の先生よりだいぶ若く、現役と目線が近い。

同じ目の高さでモノを見られるはずだと勝手に思っていた。それは実は利点ではないかと今になっては思う。


また、当時の子達は頑固が多かった。

お陰でずいぶんとぶつかることが多かった。

私もいち大人としてではなく、同じ高さでぶつかっっていった。

だからその分のフォローとしてずいぶん手紙も書いたし交換日記もした。


今何を思うのか。伝えたいし伝えて欲しい。

恋愛でだってここまで誰かの気持ちを知りたいと思ったことはない。

そのくらい気が付いたらのめり込んでいた。

どのくらいかと言うと、当時の私は夏休みがほとんどなかった。

しかし、高校生の夏休みは長い。

もちろん合宿だってある。その合宿は学校を休んで参加していた。

しかもこの年(2005年)は法事と合宿が重なった。

そのため合宿地と東京を2往復した。4日間での走行距離は1000kmを超えた。

それすらも苦にならなかった。

自己満足の世界だといわれても、誰かのために頑張る!そんな自分に少しだけ満足していた。


振り返れば難しいことを一切考えずに、ただ部活のことだけを考えていたこの時の夏は最高に幸せだった夏かもしれない。

2005年6月

三年生が引退、新一年生と二年生足してもやっぱり当時は10人居なかった。

そしてバスケはほぼド素人の私。

それでも、引退した三年生が残してくれた3部という称号。

3部継続はもちろんのこと、2部昇進を目標としたものの私は正直どうしようかと迷っていた。

頼まれて続けようと決心したものの、一からちのチーム作りなんて誰にも教わったことがないし、当時私はただの専門学校生だった。

これも後にまとめるつもりだが、当時の私はコメディカルの専門学校に通っていたが、その動機は物凄く不純だった。

だから、親を説得するために後付で物凄く適当な理由をつけていた。

メディカル系の専門は忙しい。

夏休みなんてないのも同然。国家試験を受験するために、土曜日は模試なんかもある。

学校の先生のように付きっ切りで教えることは時間的にも不可能だ。


そんな中心強い味方が現れた。

OGで3期年下のSちゃんだ(当時19歳)

ここからの3年間、Sちゃんが物凄い成長を見せるし、二人三脚でやっていくパートナーになることを考えもしなかった。


彼女は大学の雰囲気になじめてなかった。入学して2ヶ月。大学が楽しくないという。

それなら!!!とこっちに引き釣り込んだ。

私には一緒に戦う相手が必要だった。

正直言って誰でもよかった。

私の肩にかかる責任やプレッシャーを分け合ってくれる相手なら誰でも。


当時M先生に代わって顧問になってれたN先生はバスケに関しては私以上に無知だったし、私がやるなら全てお任せします。ってスタンスだった。

いや、顧問を引き受けてくれるだけでも感謝だから、それについては何も言わないし、バスケなんて無縁の生活をし、運動部の顧問すらほぼしてきてなかった先生には本当に感謝しかない。


だからSちゃんが共にコーチをしてくれるだけで感謝だった。

しかし当時Sちゃんは相当に頼りない人物だった。

時間は守れない、人の前で話すのは苦手、そもそも人見知りだし現役の中に混じれるほどバスケも出来ない。なにより自分に自信がない。

私は現役のチームを一から作ると共に彼女の指導もしなければならなかった。


当時そこまでの意識を持って彼女に接していたわけではないが、結果そうなってしまったのである。

それは結果大変だったんだろうが、実に自分を楽にしてくれた。

学生の間、実に三年も私とコンビを組み、私がムチならSちゃんがアメ。

私が厳しい父親なら、Sちゃんがやさしい母親と本当に息の合ったコンビを組めたと思う。彼女が居なければここからの三年間こんなに充実することもなかったと思う。

私はここからの三年間の間に一度、国家試験で3ヶ月ほどチームを離れるのだが、その間も立派にチームを守ってくれた。

そして何よりSちゃんが居たから腐らずに、誠実に女子高生と付き合っていけた。

すでに当時教え子と私は先輩後輩とは言っても5つも歳が離れていたのだ。

Sちゃんが間に入ってうまくやってくれなかったら辞めていただろうと何度も思う。

彼女はそういう意味でも本当に心の支えになってくれた。


Sちゃんは今大手企業で立派にOLさんをしていて部活にかかわることはほぼない。

それでも未だ頑張って部活を続ける私を応援してくれているし、大会には応援で着てくれる。

今でもよき相談相手であり、3歳の歳の差を越えて良き友人の一人だ。

そんなこんなで2005年5月。初めてコーチした子達を引退させる大会。

インターハイ予選が始まった。

ここでの目標は3部昇進。それには最低2試合勝たないと入れ替え戦に行けない。

そこにたどり着くまでだって結構な道のり。

それでも、やっぱりみんな一試合でも多く勝ち抜こうと必死だった。


これはあくまで気持ちの整理に書いているので、経過は省こうと思う。

だけど、頑張りのかいあって3部に無事昇進した。

ただ大声を出すだけでコーチをしてると勘違いしていた私しか頼りになる大人が居なかったのに、ホントよくやったと思う。

しかし、この日は勝つともう一試合。ダブルヘッダー。

7人しか居ない。どうしよう・・・・。

それでも、最後まで、頑張りぬいた。結果1ゴール差だったけど、たった7人でここまで来たことは私にとって誇りだ。


う必ず負け終わりになる三年生。

最後の試合の後はミーティングと称して、先生OGからねぎらいの言葉がかけられる会がある。

私もみんなに話しをした。自分がふがいなくて、最後の最後みんなを勝たせてあげられなかったこと。

全ては私の力不足だと。

ちなみに、私はこの試合を持ってコーチなんて大それたものから引退する気だった。

最後のつもりだったから、敗因は全て私にあることにしてみんなには気持ちよく終わってもらおうと思っていた。


そう、この試合の帰り道までは。



そのミーティングも終わり、OGでお茶でもしよーかー???と歩き出したとき。


『先輩』


大きな声で今引退したばかりのキャプテンに呼び止められた。

お話がありますとのこと。

正直、この時話なんて聞きたくなかった。

なんでか絶対悪い話だと思っていた。

だけど、まっすぐに見つめられて断るわけにも行かず、話しを聞くことに。


すると、今引退して悔しくてたまらないはずの三年生4人が集まっていて、一人づつ私への感謝を述べてくれた。

先生が異動で居なくなりどうしようかと思っているときに、先輩(私)が居てくれたことを感謝している。

簡潔に言えばそんな感じだった。

その中の一人の子が言ってくれた一言は今も忘れらない。


『先輩は物凄く怖かったけど、先輩がしかってくれるのには愛があった。だから励みになったし、心の支えでした』


正直、この子はバスケの上手な子ではなかったけど、こんな風に感じてくれて居たんだと。

この言葉は今でも私の支えになっている。


しかし、衝撃の一言はこの後に副キャプテンからやってた。



『私たちが引退してしまったけど、これからも後輩の面倒を見てください』


・・・・え?マジ??????

その瞬間はホントそんな反応しか出来なかったと思う。


しかしその後すぐに4人揃って頭を下げている。

ホント引退のときなんて、普通悔しくて悲しくて自分たちのことで頭いっぱいのはずなのに。


嫌とは言えなかった。

人のために動くことの出来る、この子達にこの時本当の強さを学んだ気がします。

眠れないから、もう少しだけ書こうかな。


4月に入り、春休みも終わると2005年当時は2週間も経たないうちに大会があった。

関東大会予選だ。

・・・・・・・が、しかしこれには参加資格がある(2005年当時東京)




東京都は4部制を当時は用いており、3部以上じゃないと何回勝とうとも関東大会には行けないシステムだった。

実は当時わが校は4部。何があろうとも関東には行けない。

その代わり4部には4部の良さがあり、関東予選と平行して4部だけは別枠で『4部大会』なる素敵な大会が行われていた。

いつも一回戦、いいとこ2回戦のチームでもこの大会だけはみんな4部。

みんないいとこ2回戦負けのチーム。

だから優勝だって出来てしまう、とってもすばらしいシステムだった。

大体どこの学校も、三年生はよほどの強豪校でもない限り、この関東大会予選の次にあるインターハイ予選で引退する。

その前にもしかしたら優勝も出来るかもしれない。

3年頑張った甲斐がある!!となる大会だ。

優勝したら、勢いに拍車もかかりインターハイ予選で部昇進までいってしまうチームもたくさんあったほどだ


そして2005年4月、わが校は4部。

もちろん目指すは優勝!

しかし指揮官は頼りない私。


そんな中で当時の子達は信じられないくらい意識の高い子供ばかりだった。

負けたくない!

その気持ちがどんな練習にも出ていたと思う。

そして何より身体能力が高かった。

背も高かった。

主力はみんな足が速くて、よく飛ぶ。

4部ではそれすら出来ない子達が多いのにそれが出来ただけでも大満足だった。


それでも、これでいいかなと満足させてはいけないととにかく怒鳴った。

試合と名の付くものではとにかく大きな声を出していた。

『てめぇらやる気あんのかー』

『リバウンド取れコラァ』

『アウトせんかいぼけぇ』

※ちなみに私は女性でチンピラだったことはありません


でも、当時の私にはそれしか出来なかった。

子供たちの出来てないことを指摘する。

それを大声で怒鳴る。

何度鬼と言われたことか。


その当時からお世話になっている他校の先生には最近おとなしくなったね。と数年後に言われることになるのだけれど・・・・・。

当時かなりの茶髪(ほぼ金髪に近かった)私がベンチで怒鳴る。

知らない人が見たらさぞかしインパクトが強かったことだろう。


そんな中、当時の子供たちが頑張ったお陰で優勝を収めることが出来た。


・・・・・・が、私は優勝そのものが気に食わなかった。

今思えば仕方のないことだ。

戦術も何も与えてないのだから、足の速さや高く飛ぶ能力で勝つしかない。

しかし、それだけで勝って来たようにしか見えなかった事に苛立ちを覚えた。

だから優勝したことを、確か当時は一度も褒めていない。

それどころか、そんな勝ち方は勝利ではない!と怒った記憶すらある。

5年経っても申し訳ない気持ちでいっぱいになる出来事である。


それでもついてきてくれた当時の子達には感謝の気持ちでいっぱいである。