日本文化、世界の歴史・健康・ミライにチャレンジ -5ページ目

自分で手に入れたものだからこそ、ときめく



 欲しさが静まったあとに残ったもの

色めく艶めくときめく小径

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このスタンドFMは、もともと日本の怖い話を、AIでイラスト化し、その物語を語るために始めました。



見えないものや、言葉にならない気配。少し怖くて、でもどこか惹かれてしまう感覚に、

私はずっと興味があったのだと思います。

それは、理屈では説明できないけれど、確かに「感じてしまう」何か。空気が変わる瞬間や、背中がひやりとする感覚、理由はわからないのに、なぜか心に残ってしまう余韻。

けれど、続けていくうちに、もうひとつ、静かに残しておきたいものが自分の中にあることに気づきました。

それは、日常の中にひっそりとある、色めきや、艶めき、そして、ふと胸がときめく瞬間です。

怖さと、ときめき。

一見すると正反対のようでいて、実はとても近いところにある感覚なのかもしれません。

どちらも、「気づいてしまった瞬間」に立ち上がるものだから。




欲しい、という感情の変化

今日は、誰かにもらったものではなく、自分で手に入れられたものだからこそ、ときめくそんな感覚について、少し書いてみようと思います。

50代に身を置くようになって、自分が選ぶものが、少しずつ変わってきたことをはっきりと感じるようになりました。

若いころの私は、憧れや評価の延長線上にあるものを「欲しい」と感じることが多かったように思います。

大人の女性が身につけているエレガントなブランド品。丁寧に整えられたメイク。それらを持つことで、自分もどこか「ちゃんとした場所」に近づける気がしていました。

それは決して虚栄心だけではなく、社会の中で生きていくためのひとつの防具のようなものでもあったと思います。

その後、子育てや生活に追われる時期には、欲しいものの質が変わりました。

とにかく合理的で、時間と労力を助けてくれるもの。家電や道具は、「余裕」を生み出すための現実的な味方でした。

振り返ってみると、欲しいものはいつも、そのときの生活スタイルや心の状態を正直に映していたのだと思います。

そして今。

私は、自分の手で手に入れられないようなものを、無理に欲しがらなくなりました。

それは、諦めたからでも、夢を見なくなったからでもありません。

むしろ、ようやく「欲しさ」を

冷静に見つめられるようになった、という感覚に近いのです。




欲しさが静まった理由

—— スピリチュアルな視点から

感覚としては、とてもシンプルです。「それがなくても、私はもう大丈夫だ」そんな内側の声が、以前よりはっきり聞こえるようになりました。

何かを手に入れなければ自分は完成しない、という焦りが、少しずつ溶けていった感じ。

外側から満たそうとしなくても、すでに内側にあるものがちゃんと循環している感覚があります。

スピリチュアルな言葉を使うなら、エネルギーが外に漏れにくくなった、そんな表現がしっくりきます。

以前は、評価や比較によってエネルギーが外に引っ張られていた。

今は、自分の中心に戻ってきた感覚がある。それは、特別な修行をしたわけでも、何かを達成したからでもありません。

ただ、長い時間をかけて、自分の感覚を裏切らずに生きてきた結果なのかもしれません。

サイエンスの視点で見る「欲しい」

脳科学の視点から見ると、「欲しい」という感情の多くは、手に入れたあとの満足よりも、追いかけている途中に得られる報酬によって強化されると言われています。

新しいものを探しているとき。比較しているとき。もうすぐ手に入るかもしれない、という期待。その過程で、脳内ではドーパミンが分泌され、「快」の感覚が生まれます。

ところが、実際に手に入れてしまうと、その興奮は長くは続かない。

だからまた、次の「欲しい」を探し始める。年齢を重ねると、この仕組みを、頭ではなく身体の感覚として理解するようになります。

追いかけ続けることよりも、安心して味わえる状態のほうがはるかに長く心を満たすことを、

私たちは知ってしまうのです。

仏教的に見た「手放す」ということ

仏教では、

「苦しみは執着から生まれる」と説かれます。欲しいものそのものが悪いわけではありません。

苦しみを生むのは、「それがなければ幸せになれない」と思い続ける心です。

だから、無理に欲しがらなくなった今の感覚は、何かを失った状態ではなく、ひとつ荷物を下ろした状態なのだと私は感じています。

足りないから欲しいのではなく、もう足りていることに、静かに気づいたという感覚。

それは、何かを我慢することでも、欲を否定することでもありません。

ただ、力を抜いた、というだけなのだと思います。




自分で手に入れた感覚とは何か

誰かにもらったものではなく、自分で手に入れた感覚。

それは、お金や物そのものではありません。時間の使い方であり、心の余白であり、自分を信じる静かな感触です。派手に主張しなくてもいい。誰かに説明しなくてもいい。

でも、ちゃんと、ときめく。

それは、もう奪われない感覚でもあります。


声と文字を行き来しながら

このブログでは、スタンドFMで語りきれなかったこうした感覚の背景や、言葉になりにくい部分を、少しずつ書き残していこうと思います。

声で聴く物語と、文字で味わう余韻。その両方を行き来しながら、自分の感覚を

丁寧に確かめていく場所として。

それでは、

あなたの時間が、

ときめく瞬間で、

溢れすぎないくらいに

禁じられた楽園の余韻の中で



― 自分に帰る時間について ―

皆様こんにちは、いかがお過ごしでしょうか。また、今年もよろしくお願いします。

私は恩田陸さんの 禁じられた楽園 を読み、その世界を感じる時間を、静かに味わっていました。ここ最近、色々とバタバタしていたこともあり、どこかで一度、気持ちをリセットしたかったのかもしれません。極力スマホと向き合わない時間を作りたくて、久しぶりに本のページを開きました。

通知も、ニュースも、短い言葉のやり取りもない時間。ただ文字を追いながら、少しずつ自分の内側に戻っていくような感覚でした。

恩田陸さんの『禁じられた楽園』を読み終えたあと、私はすぐに立ち上がることができませんでした。

衝撃を受けた、というよりも、と身体の速度が合わなくなった、そんな感覚に近かったと思います。読み終えたことは頭ではわかっているのに、感覚だけが、まだ物語の中に留まっている。そのまま、少し時間が必要でした。




物語を読むというより「見学している感覚」

恩田陸さんの『禁じられた楽園』を読み進めるうちに、これは物語を追っているというよりも、ある場所を静かに見学しているような読書体験だと感じました。

細かな説明がなくても、空間の奥行きや、空気の密度、人と人との距離感が、自然と立ち上がってきます。気がつくと私は、登場人物の感情よりも先に、「その場に立っている自分」を想像していました。


恩田陸さんの『禁じられた楽園』に描かれる場所は、一般的に思い浮かべる「解放的な楽園」とは少し違います。整っていて、静かで、どこにも無理がない。

たとえば、

  • 洗練された美術館の展示室

  • 無駄のない高級ホテルのロビー

  • モデルルームのように整えられた空間

最初は心地よいのに、長くいると、なぜか少し疲れてしまう場所です。この楽園は、そうした完成度の高すぎる空間を思い出させました。

何も困らないことへの、わずかな違和感

恩田陸さんの『禁じられた楽園』の中では、困ることがほとんどありません。迷わなくていい。選ばなくていい。頑張らなくていい。

一見すると理想的ですが、

あまりにも整っていると、自分がどうしたいのかを考えなくなる瞬間があります。それが、この物語に流れる静かな違和感の正体なのだと思いました。


インダストリアルデザイナーという存在

恩田陸さんの『禁じられた楽園』を読み進めるうちに、私は「インダストリアルデザイナー」という存在を強く意識するようになりました。椅子の高さ、通路の幅、光の入り方。私たちが普段あまり意識しない「形」は、実は行動や感情に大きな影響を与えています。

あの楽園は、

  • 人が不安にならない形

  • 人が迷わない配置

  • 人が衝突しない距離感

それらを、極限まで突き詰めた結果、生まれた場所なのだと感じました。


見学者だったからこそ、気づけたこと

もし、あの楽園に住んでいたら、私は違和感を覚えなかったかもしれません。でも「見学者」という立場だったからこそ、気づいてしまいました。

ここでは、選ばなくていいように、すべてが設計されているということに。それは安心であり、同時に、少しだけ怖いことでもあります。

想像力を持つ人ほど、深く沈む物語

恩田陸さんの『禁じられた楽園』は、読む人の想像力によって、深さが変わる物語だと思います。

空間の記憶。美しいと感じた形。なぜか落ち着かなかった場所。そうした経験を持つ人ほど、この楽園は、より立体的に立ち上がってくるのではないでしょうか。

なぜ「禁じられた楽園」なのか

恩田陸さんの『禁じられた楽園』を読み終えて、私はこう感じました。

この楽園が禁じられているのは、危険だからではなく、心地よすぎるからなのだと思います。

一度、「考えなくていい安心」「選ばなくていい世界」を知ってしまうと、現実の雑音が、少しだけつらく感じてしまう。

だからこそ、あの楽園は、長く留まる場所ではなかったのでしょう。

本を閉じて、日常に戻ってみて

本を閉じたあと、部屋を見渡しました。少し散らかっていて、音もあって、決して完璧ではありません。

でもその不完全さが、「自分がここにいる」という感覚を、静かに取り戻させてくれました。

今年は、自分に帰る時間を大切にしようと考えています。

忙しさの中で外に向き続けるのではなく、ときどき立ち止まり、自分の感覚に戻る時間。恩田陸さんの『禁じられた楽園』は、

その大切さを、押しつけることなく教えてくれた一冊でした。だからこそ、読み終えたあと、しばらく動けなかったのかもしれません。


心も身体も、不安になると守りに入る。年の終わりに気づいたこと




皆様こんにちは、いかがお過ごしでしょうか。明日は大晦日ですね。いつもジムで顔を合わせる方たちと「来年もよろしくお願いします」とご挨拶をして、そしてほんの数日後には今年もよろしくお願いします」とまた言葉を交わす。

そのやりとりの中で、一年という時間の流れの速さに、毎年のことながら驚いています。


私はこの数ヶ月、本格的に身体づくりに向き合ってきました

私はこの数ヶ月、本格的に身体づくりに向き合ってきました。スマートリングやApple Watchを身につけ、日々の活動量や心拍数を確認し、血液検査の結果、体重、体脂肪率、筋肉量の比率などを見ながら、自分の身体をできるだけ客観的に観察してきました。

そうしてデータを積み重ねていく中で、ようやく腑に落ちたことがあります。

それは、若い頃のように闇雲に運動し続けることが、今の自分にとって必ずしも最善ではないということでした。




頑張っているのに、うまくいかない理由

たくさん動いているのに体重が増える日。食事に気をつけているのに、むくみが強く出る日。基礎代謝の数値を見て、「低いのでは?」と不安になる日。

40代後半から50代、60代にかけて、こうした経験をしている女性は、決して少なくないと思います。

以前の私は、

「もっと動かなきゃ」

「代謝を上げなきゃ」

と、どこか焦っていました。

けれど、データと体調を丁寧に照らし合わせていくと、ある共通点が見えてきました。




身体は「不安になると、守りに入る」

身体はとても正直です。

運動量が多く、食事を控え、さらに「もっと頑張らなければ」とプレッシャーをかけると、身体はそれを「危険かもしれない状態」として受け取ります。

すると、

・水分を溜め込む

・脂肪を手放さない

・消費を抑える

といった反応が起こります。

これはサボりでも失敗でもなく、生きるための防御反応です。




実は「心」も同じでした

この数ヶ月で気づいたのは、これは身体だけの話ではない、ということです。

心もまた、不安になると守りに入ります。

・ちゃんとしなきゃ

・結果を出さなきゃ

・このままで大丈夫なのだろうか

そんな思いが強くなると、心は緊張し、縮こまり、余裕を失っていきます。そしてその緊張は、巡り巡って身体にも伝わります。

心が不安なままでは、

身体も安心して緩むことができない。

逆に言えば、心と身体は、安心できたときに初めて流れ始めるのだと感じています。




40〜60代の身体づくりに、本当に大切なこと

この年代の身体は、「攻め」よりも「調和」を求めています。たくさん燃やすことより、少し休ませること。減らすことより、温めて満たすこと。

・無理に運動を増やさない

・食事を極端に減らさない

・きちんと眠る

・身体を冷やさない

こうした一見地味なことこそが、代謝を整え、心を落ち着かせる土台になります。

体重や体脂肪率の数字は、日々変わります。

けれど本当に大切なのは、

・朝、自然に目が覚めるか

・手足が冷えていないか

・お腹がきちんと動いているか

・気持ちに余裕があるか

そうした感覚のほうなのだと思います。




新しい年を迎える前に

年末年始は、

どうしても「太らないように」「崩さないように」と

自分を管理しがちです。

けれど今年は、

心も身体も、安心させて新年を迎える

そんな年末にしてみませんか。

頑張ってきた自分に、

「もう大丈夫だよ」と伝えてあげる。

心が緩めば、

身体も自然と緩み、

必要なものは、ちゃんと巡り始めます。

来年は「もっと頑張る一年」ではなく、

「もっと信頼する一年」に。

今年も一年、ありがとうございました。

どうぞ穏やかな年末年始をお過ごしください。

そして、新しい年もよろしくお願いいたします。