のぼこの庵

のぼこの庵

大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

大関昇進後の成績は136勝8敗、分け・預かり9、勝率.944となり、しかも3場所連続優勝のままさっさと引退した引き際は驚異といえる。

 

さらに彼の強豪ぶりは引退後に続く。

引退から6年以上経った昭和6年6月、第1回大日本相撲選士権大会に春日野の名で出場。引退してまだ1年の常ノ花、豊国、常陸岩らがあっさり敗退するのをしりめに、ハゲ頭の古豪は、予選で第一人者玉錦、沖ツ海、鏡岩ら、準決勝で大関能代潟を倒し、決勝リーグでは、玉錦をすくい投げ、大関目前の天竜を下手投げでたたきつけ、文句なしに優勝した。

左から大関玉錦、年寄春日野(元横綱栃木山)、関脇天竜

 

天竜三郎談

『あの大会で現役で残ったのが玉錦とわたしなんだよ。年寄で残ったのが栃木山の春日野。三人でリーグ戦やった。玉錦もわたしもぶん投げられちゃってさ。優勝しちゃったんだ。

そうしたら両国の出羽海梶之助に呼びつけられた。「春日野ちょっと来い」(笑い)。「おまえ、引退した年寄が現役力士を土俵のまん中でぶん投げて、それで相撲協会が成り立つと思うか。そんなにやりたけりゃあ、もう一度ちょんまげ結ってやり直せ」と、こてんこてんにやられたらしいよ(笑い)。

本人にいわせると、昭和六年の選士権大会の開催が決定した後においては、「オレは現役時代よりよくけいこしている」っていうんだよ。優勝しようとしている。それくらい相撲となったら目がないんだな。遠慮会釈もなにもないんだよ。年寄が現役力士をぶん投げたらいけない、なんて考えちゃいませんよ。

 

 (押し相撲で)とにかく力士生活のうちにまわしを取った人は何人もないでしょう。

 出足も鋭かったですね。出足が鋭くなきゃ、あの体であれだけ威力が出ませんよ。左は差しても、かいな返して、だから相手は上手取れないんだよ。それと右おっつけてハズにかかるのがいっしょだからね。

 (腕力も)強かったですよ。今でもおぼえてる。栃木山が引退してから後ですよ。地方巡業で駅へいくと、秋になると米俵が方々に置いてあるでしょう。あれを平気で片手でぐーっと持ちあげちゃう。体全体がハガネみたいにピーンと張り切っておってね。われわれもけいこつけてもらっててね、よほど注意してガチーンとぶつかっていかないと、ちょっとでもそれると、首に電気が走っちゃう。

 (体重を)二十七貫五百(103㌔)に調整してた。それでしょっちゅう目方量ってましたよ。二十八貫(105㌔)になると、これじゃちょっとオーバーしてる。これじゃいかん、汗がたまってると。二十七貫に減ってくるとオーバーワークだ、ということで、本場所の初日に二十七貫五百にもっていくんだよ。これが自分にとって一番働きやすい体重だ、ということだ。そのへんえらいじゃないか。

 人間的にりっぱな人でしたよ。非常におとなしかった。内心ではいいことを考えておっても、口から出さない人だったんですねえ。全部自分だけにしまっておいて。』

 

栃木山守也(とちぎやまもりや)は、明治25年(1892年)2月5日、栃木県下都賀郡赤麻村大前(現栃木市藤岡町大前)に生まれる。本名は中田守也(なかたもりや)。出羽海部屋所属。

右からしぼり、左を浅くのぞかせ、腰を割ってスリ足からのすごい出足で押す一点張り。まわしは取らないし取らせない。もし取られたら、怪力をもって必ず切り、攻めに入った。

『相撲の型を完全に身につけた力士は栃木山が最後だろう』と言い切る人が少なくない。

昭和34年(1959年)10月3日没、享年68(満67歳)。

(古今大相撲事典(昭和55年刊)より)

 

    青年期の横綱栃木山

 

    壮年期の横綱栃木山

 

 春日野(栃木山)還暦土俵入り

 

第1回全日本力士選士権で栃木山(春日野)が優勝した時には、22代木村庄之助は「春日野さんがあまりにも強すぎた」と述べたが、当時の現役力士は「非常に弱いのではないか」との疑惑が起きた。翌年の同大会では選手権保持者として出場し、トーナメントで勝ち残った玉錦と三番勝負でストレート負けを喫したが、その配慮があった可能性がある。以降、第3回大会からは現役力士のみが出場することになった。(wikipediaより)

 

玉椿 憲太郎(たまつばき けんたろう)は、明治16年(1883年)11月10日、富山県中新川郡下条郷上砂子坂村(現富山市水橋上砂子坂)に生まれる。本名は森野 健次郎。雷部屋所属。

身長は五尺二寸三分(158.5cm)。ただしこれは公称で実際には五尺一寸(154cm)程度だったとも言われている。体重は全盛期で二十一貫五百匁(80kg)、重い時で二十四貫(90kg)。

当時でも立派な小兵だが、多彩な技としぶとい相撲で関脇まで上り詰めた。

周囲から「おまえと稽古をすると気分が悪くなる。そんなに無理すると死んでしまうぞ」と言われる程の稽古熱心だった。

平蜘蛛型の仕切りから潜り込み、懐に食いつき左を差して頭をつける取り口で、そのしぶとさからついたあだ名が「ダニ」だった。

 

当時の横綱だった常陸山は、今までに誰が一番強いと思ったかとの質問に対し、玉椿と答えている。

対戦成績は5敗3分と玉椿は1度も勝てなかったが、しぶとい相撲でたびたび苦しめており、特に明治40年(1907年)5月場所での一番(西横綱常陸山 対 東小結玉椿)は、当時歴史に残る名勝負と称された。

 

式守伊之助談

「仕切りでは、先ず常陸関はグッと後ろに退いて土俵際から三尺(90cm)ばかりの所で犬居(型の仕切り)になりますと、玉関は離れては悪いと食い付いて(平蜘蛛型に)仕切りました。そうすると玉関の体は土俵の真中から少し西の方(相手側)に出てしまいますので、行司が注意しましたが、常陸関はそのような事には一切お構いなく、玉関も改めずそのままヤッと言って一気に突っかけましたので…」

常陸山談

「立ち上がった時に玉椿が頭を俺(常陸山)の顔にぶつけたから、鼻血は出るし、それこの通り鼻の頭が傷になるほど酷い目に遭わせられた。いよいよ立つというときに俺がちょっと目をつむったのが悪かった。あの玉椿は、目を見合って気を合わせて立つという事をしないのだから、ウッカリすると危ない…」

(「古今相撲評話」(大正2年刊)より現代語訳)

 

明治44年春場所9日目の東横綱常陸山 対 西関脇玉椿

 

ただしこの写真は裏焼きで、正しい体勢は下図(常陸山は玉椿の左差しを泉川に撓める。玉椿は右前褌をひき頭を常陸山の胸板にあてて食い下がりの備えを堅める)

 

通算成績は、26場所で80勝79敗33分16預52休、勝率.503。

昭和3年(1928年)9月19日没、享年46歳(満44歳)。

 

※明治44年(1911年)1月、新橋倶楽部事件(力士が待遇改善を求めてストライキを起こした事件)が起きる。この時玉椿は、「たとえ、師匠たちが悪いにしろ、恩師に弓を引くわけにはいかない」と言い、また独自に協会の収支決算も調査し「協会には借金があるのだから力士の要求は実現不可能」だとして、関脇以下ではただ1人ストライキに不参加。しかしこれによって事件を起こした力士達からは敵視され、事件解決時の覚書に「玉椿問題は、無条件にて本問題の解決と同時に和解せしむる事」という一項目がわざわざ付け加えられることとなった。(wikipediaより)


 

谷風梶之助(たにかぜかじのすけ、寛延3年8月8日(1750年9月8日)~寛政7年1月9日(1795年2月27日))は、陸前宮城郡霞目(宮城県仙台市若林区霞ノ目屋敷)出身で伊勢ノ海部屋に所属した仙台伊達家の抱え力士。身長189㌢、体重160㌔。本名は金子与四郎(かねこよしろう)。

関ノ戸の弟子となり、約半年、白石の片倉家に預けられ、同家の抱え力士に稽古をつけてもらった後、明和6年(1769年)春、江戸の看板大関として初登場。

好成績を続け、天明元年(1781年)春に実力大関となる。

安永7年(1778年)春初日から天明2年(1782年)春六日目まで5年に渡って63連勝。七日目、小野川(当時幕下十両3枚目)に敗れた時は江戸中がひっくり返るような騒ぎとなり、小野川はこの一番で一躍ヒーローにのし上がった。時に谷風31歳、小野川23歳。大相撲史上最高の黄金時代と言われる谷風-小野川時代はここから始まる。

寛政元年(1789年)11月、小野川とともに吉田司家より横綱免許。

「野翁物語(江戸時代中期~後期)」に-

「谷風は剛強大力にて、相撲の妙術を得たるのみならず、また勧進角力の上手なり」

「角觝著聞(明治初期)」に-

「富士に対して余山の事を言わず、外の高山にては必ず富士の事を言うようなものなり」

「大日本相撲評判記(昭和初期)」に-

「力量万人にすぐれ、別して相撲の達人にて、腰低く、寄る足いたって早く、実に力士の階級なり。されば、少しもこれに対する力者なく、たまたま不意をもって希に一番勝つ者も、再び向かう時は片手をもって押し出さる。寛永の初めより、かくの如く万端揃いし力者なし」

とある。

谷風の前に谷風なく、谷風の後に谷風なし・・・・・・彼が大相撲史に残した足跡は全く偉大、力士の大宗と仰がれるのも当然である。

(古今大相撲事典(昭和56年刊)より)

 

 

谷風梶之助としては2代目だが、後年の文献などから初代と扱われる場合も少なくない。歴代横綱では4代横綱と扱われるが、史実においては初の横綱と見ることができ、事実上の初代横綱。35連勝で現役のままインフルエンザによって44歳で没した。

大相撲史上屈指の強豪とされるが、力量だけでなく人間的にも立派で品格抜群であるため、歴代横綱の第一人者、後の横綱の模範と称される。

・落語「佐野山」(講談「谷風の情け相撲」)では、病気の母親を抱える十両力士・佐野山がいることを知った谷風が、相撲会所に根回しをして回向院興行での取組を作らせた。これを谷風の贔屓筋は勝利を確信して懸賞を付けたが、谷風がわざと負ける八百長相撲を取った。しかし、江戸っ子からは人情相撲だと喝采を浴び、谷風はその後、佐野山の母親の枕元で病魔退散の四股を踏んだと伝わる。事実ではないものの、このような話が作られるほど谷風の人格者ぶりが世間に浸透していた

(wikipediaより)

だいぶ前にこのブログで、一流の(←ここ重要)スポーツ選手が使う「素直に嬉しい」という表現について愚考し駄弁を弄したことがあります。

⇒「素直に嬉しい」という表現

 

同じような話ですが、

一流のスポーツ選手がファンや観客などに対して「応援よろしくお願いします!」と呼びかけることがあります。

 

この表現も以前はなかったように思います。

 

プロアマ問わずスポーツ選手にとって、ファンからの「応援」というのは、金のかからない「声援」だけではなく、金銭的な支援(チケットやグッズの購入もその一部)を含めた幅広い旨味を持っているでしょう。

 

それがわかっているのに、否わかっているからこそ?、安直に「応援よろしくお願いします」という表現を使う性根の中には、

まるで、むかし角聖常陸山によって「力士」に格上げされる前の、つまりは男芸者と揶揄された頃の相撲取りの、安直な「ごっつぁん精神」にも似た一種の「さもしさ」が含まれているように感じます。

⇒大相撲古今ケタはずれ物語<偉人>「常陸山谷右衛門」

 

したがって、

「素直に嬉しい」と同様に「応援よろしくお願いします」も非常に幼稚な表現であり、一流のスポーツ選手が用いるべきではないと思います。

 

まあ、

言っておいて何ですが、我ながら狭量ですね。

せめて「ご声援よろしくお願いします!」なら許せるんでしょうが・・・

麦わら猫のマーヤちゃんはホットカーペットが大好き。

ぬくぬく

よく寝たにゃ

おなかすいたにゃ

麦わら猫のマーヤちゃんは猫の手で扉を上手にスライドさせます。

 

ごはん〜