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のぼこの庵

大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
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ごはん〜

富山地方鉄道立山線「稚子塚(ちごづか)」駅を下りて、線路沿いの道を北へ約700メートル。

こちらが富山県最大の円墳「稚児塚(ちごづか)古墳」です。

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入口に2枚の古い説明板があります。
よく読んでみるとなかなか興味深い内容です。


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富山県指定史跡 稚児塚 

昭和40年1月1日指定

概説

この塚は高さ7.2メートル、底部の直径が46.8メートルの円墳(えんぷん)で、頂部が平らな断頂(だんちょう)円錐形をしていて、古い形を残している。墳丘(ふんきゅう)は葺石(ふきいし)でおおわれ、周囲には濠(ほり)の跡がそのまま水田の形となって残っている。

葺石でおおわれた古墳は、県内では唯一の例であり、広い濠をめぐらしている点からみても、5世紀ごろのかなり有力な一族の墓であったと考えられる。

県内では高岡市の桜谷1、2号墳、婦中町の王塚、勅使塚と並ぶ貴重な遺跡である。

かつて墳頂に樹齢300年の老杉がそびえていたが、昭和48年に枯死した。現在はその切株と蛭子神(ひるこしん)を祀った小祠が墳頂に残っている。

富山県教育委員会

立山町教育委員会


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稚児塚の由来 (一部現代語訳、常用漢字への変更等をしています)

 

この塚は円形をなす墳丘で、封土は低い断頭円錐形をなし、高さ約8メートル、周囲約130メートル。墳丘の斜面部が葺石に被われていること、四周にめぐらされた濠や周庭らしきものから、1千年余以前、5世紀前後の人工的に(当時毎日約100人の役夫で1年がかり)築かれた古代様式の円塚と考えられる。

近くに瓢塚、茶坊塚などの陪塚を伴い、遠くは白岩川流域にある塚越の八幡塚、竹の内の天神堂塚、清水堂の大塚、中馬場の宮塚、若王子塚、金尾新の狐山古墳など広範囲にわたる地域の中核をなす塚で、付近には班田収受の法による条里制の跡と思われる地名の乗田や、北小水口、北前田から大開、西野田に続く条線をしのぶものがある。

他面、山王社に保存する行基菩薩作の獅子頭を拝み、春日様を勧請したと伝わる大明神(寺田駅付近)が、頭に浮かんでくる。

これらから推定してみて、この塚を主体となすか集落の氏神山王社を中心となすかは知らぬけれども、飛鳥(600頃)、奈良(710~790)時代に遡るごく不思議な塚であることは確かである。

古代に使用したアバタ面の火打ち石が残っていること、焼石塚から掘り出された土器類、浦田の西たんぼから彫り上げられた大壷、寺田の狐穴から発掘された三耳大壷などの古代の遺物が枚挙にいとまなく、若狭野の“慶雲(705~709)”と年号にまで取り上げられた祥雲に浦田の相ノ木あたりから立ちのぼった雲であったか虹であったか霊気ほとばしり、興味津々たるものが湧いてくるのである。

 

塚の由来については村翁の伝えるところ諸説あり。

ひとつには後醍醐天皇の皇子八宮様(恒性皇子1335頃)の塚なりと言う。近郷の二ツ塚、寺田極楽寺、若宮などの集落名は不遇の中、越路を辿られたる皇子にゆかりがあるとのこと。

次には、細川越中守の祖先の廟なりと言う。それは山王社の由緒定紋、越中守の姓、細川定紋九曜星など照名寺、照名坊がその後裔と思われる節からである。その上、付近に散在する古塚、字、地名が越中守との関連が深く、その遺物に相違がないと言うのである。然るにその細川氏が古代(700頃)の細川氏であるか、戦国三管領時代(1400前後)の細川氏であるか、その点に至るとまた迷宮に入るが…。

 

後年、宮内省の考証課長が来訪のみぎり、竹の内天神堂が武内宿禰(たけのうちのすくね)の祈願所であって、稚児塚はその子藤津(ふじづ)の墓であるとも、その後奈良時代前後の尊貴な方の墳墓であるとも、断定した識者もある。

かつて理学博士坪井庄三郎先生、吉田文俊先生に調査を願い、その後数次の鑑定を願ったけれども、いずれも確証に達せずして、結局、きわめて高貴な御方のご墳墓であるから大切に保存せよということに落ちついている。

最近、県史編纂委員石原与作氏は、聖武天皇の勅願による日本の総国分寺から大和の東大寺への施入(せにゅう)のため天平感宝元年(749)5月野古(のこ)された越中国新川郡“大藪庄”の図籍によって、稚児塚こそ本図の南西隅に位置する“大江邊(おおえべ)の墓”と考えられるとあり。当時の大江邊氏は越路きっての豪族にて、当地方の隷民を使役して広大な耕地を経営把握していたと言われる。

かくのごとく、この塚の由来を尋ねるとき、諸説紛々として尽きざるものがある。

 

塚の中央に磐居する大杉は目廻り約9メートル、高さ約25メートル。鬱蒼として茂り雄峰立山を望んで豪然とそびえ立ち、無限の神秘を胸に畳んで過去の来歴を確かに知ってはいようが語ってはくれない。歳を重ねること幾百千年、ただ風雨霜雪に耐えて天空にたたずんでいるばかり…。

かつて大正年代に村人達が旧蹟を明るみに出さんと、大杉の南側に縦穴を作り深さ約8~9メートルの下底まで掘り下げたが、盛土ばかりで遺証たる品は一つも見当たらなかった。或いはその地下部に神秘が埋蔵されているかとも思われたが、遂に村人達はしびれを切らし、大切な大杉が枯死することを憂いて断念中止の止むなきに至ったことがある。

大杉の根元に鎮座するお宮は舟上美矢匙迺神(ふなかみみやしなかみ)(蛭子神とも田の神とも歳徳神とも言われる)を祀る。それはこの塚が、本集落は勿論のこと近郷の崇敬の的であるばかりか、遠くは数里の外有磯の海に漂う魚舟の道標としてまで役立ったことに基因して航海豊漁の神として尊敬せられたことを物語る。

毎年8月6日大祭を挙行するが、その前夜大篝火を焚く神事風習が今に残っている。

 

この塚は昭和2年富山県史蹟記念物に指定、昭和40年富山県指定文化財に指定された。

考古学的にも文学的にも滾々として汲めども尽きぬ魅力ある豊かな千古の謎として、将来に受け継ぎ語り継がれることを念願する次第である。

 

昭和46年(1971)8月

立山町浦田 山王社稚児塚委員会


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古墳の上には大杉の切り株と小さな祠。

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なお、平成5年8月21日~11月4日、のべ27日間にわたって実施された発掘調査の結果、次の新しい知見が得られたとのことです。

 

①古墳の推定規模は、墳丘の直径46メートル、高さ約6メートル、3段築成と考えられる円墳で、墳丘のほとんどが盛土によって築かれている。

②墳丘の周囲には、幅約17メートルの周濠がめぐる。

③墳丘1段目斜面には斜面長約2メートル、高さ約1.2メートルで、葺石が施されている。

④2段目斜面にあたる部分には、高さ約60センチの石垣状遺構が築かれている。

⑤墳丘1段目テラス上には、基部長3.4メートル、同幅3.4メートル、高さ15~30センチの墓道が築かれている。

・稚児塚古墳は県内最大かつ、周濠・葺石といった複数の外部施設を持つ県内唯―の円墳。

・3段築成の古墳は、北陸では他に能登の宮ノ山古墳が知られているのみで、全国的にも稀な存在。

・円墳において墓道が検出されたのは全国初。

・古墳築造時期を示す遺物は今回の調査でも出上しなかったが、今のところ構造等から5世紀中~後葉と考えるのが妥当。

・周辺古墳との関連については、一帯が県東部で唯一平野部に大型古墳が築かれた地域であるが、古墳は平野部のみに築かれたわけではなく、白岩川中流左岸の段丘端には藤塚古墳があり、白岩川の支流大岩川右岸の丘陵尾根上には前期古墳とされる柿沢古墳群も存在する。

これらの古墳は、相互に関連を持つものと考えられ、一連の古墳群(白岩川流域古墳群)として捉えられる。

・この自岩川流域古墳群の築造者については、現時点では古墳及び同時代遺跡の調査が進展していないこともあり、全く未知の状況。

 

周濠(周溝)、葺石に加えて段築まで発見されました。

あとは埴輪が出てくれば古墳として完璧ですね・・・たとえ埋葬者は謎のままでも。