大相撲古今ケタはずれ物語<小兵>「玉椿憲太郎」 | のぼこの庵

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あとは爺放談?

 

玉椿 憲太郎(たまつばき けんたろう)は、明治16年(1883年)11月10日、富山県中新川郡下条郷上砂子坂村(現富山市水橋上砂子坂)に生まれる。本名は森野 健次郎。雷部屋所属。

身長は五尺二寸三分(158.5cm)。ただしこれは公称で実際には五尺一寸(154cm)程度だったとも言われている。体重は全盛期で二十一貫五百匁(80kg)、重い時で二十四貫(90kg)。

当時でも立派な小兵だが、多彩な技としぶとい相撲で関脇まで上り詰めた。

周囲から「おまえと稽古をすると気分が悪くなる。そんなに無理すると死んでしまうぞ」と言われる程の稽古熱心だった。

平蜘蛛型の仕切りから潜り込み、懐に食いつき左を差して頭をつける取り口で、そのしぶとさからついたあだ名が「ダニ」だった。

 

当時の横綱だった常陸山は、今までに誰が一番強いと思ったかとの質問に対し、玉椿と答えている。

対戦成績は5敗3分と玉椿は1度も勝てなかったが、しぶとい相撲でたびたび苦しめており、特に明治40年(1907年)5月場所での一番(西横綱常陸山 対 東小結玉椿)は、当時歴史に残る名勝負と称された。

 

式守伊之助談

「仕切りでは、先ず常陸関はグッと後ろに退いて土俵際から三尺(90cm)ばかりの所で犬居(型の仕切り)になりますと、玉関は離れては悪いと食い付いて(平蜘蛛型に)仕切りました。そうすると玉関の体は土俵の真中から少し西の方(相手側)に出てしまいますので、行司が注意しましたが、常陸関はそのような事には一切お構いなく、玉関も改めずそのままヤッと言って一気に突っかけましたので…」

常陸山談

「立ち上がった時に玉椿が頭を俺(常陸山)の顔にぶつけたから、鼻血は出るし、それこの通り鼻の頭が傷になるほど酷い目に遭わせられた。いよいよ立つというときに俺がちょっと目をつむったのが悪かった。あの玉椿は、目を見合って気を合わせて立つという事をしないのだから、ウッカリすると危ない…」

(「古今相撲評話」(大正2年刊)より現代語訳)

 

明治44年春場所9日目の東横綱常陸山 対 西関脇玉椿

 

ただしこの写真は裏焼きで、正しい体勢は下図(常陸山は玉椿の左差しを泉川に撓める。玉椿は右前褌をひき頭を常陸山の胸板にあてて食い下がりの備えを堅める)

 

通算成績は、26場所で80勝79敗33分16預52休、勝率.503。

昭和3年(1928年)9月19日没、享年46(満44歳)。

 

※明治44年(1911年)1月、新橋倶楽部事件(力士が待遇改善を求めてストライキを起こした事件)が起きる。この時玉椿は、「たとえ、師匠たちが悪いにしろ、恩師に弓を引くわけにはいかない」と言い、また独自に協会の収支決算も調査し「協会には借金があるのだから力士の要求は実現不可能」だとして、関脇以下ではただ1人ストライキに不参加。しかしこれによって事件を起こした力士達からは敵視され、事件解決時の覚書に「玉椿問題は、無条件にて本問題の解決と同時に和解せしむる事」という一項目がわざわざ付け加えられることとなった。(wikipediaより)