大相撲古今ケタはずれ物語<偉人>「常陸山谷右衛門」 | のぼこの庵

のぼこの庵

大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

常陸山が出羽海親方になってから直接指導を受けた天竜三郎(元関脇)の談。
『この人は若くして亡くなった(四十八歳)けれども、片側の番付全部自分の部屋の力士で作っちゃったんですからね。たいした手腕ですよ。
 指導方法は、まあ、きびしい一語に尽きるだろうな。そして常に「相撲取りは芸人じゃない、武道だ、力士だ、さむらい精神を失ったら相撲取りじゃないんだ」ということが根幹でね。従って、タイコ持ちみたいにお座敷へいって歌ったり踊ったりしてご祝儀にありつくようなさもしい行いをすべきではない、ということをわたしどもは常にきびしく教えられたわけなんですよ。だから、当時、出羽海部屋の力士は道で会っても、どこで会っても、すぐわかるっていわれたもんだ。身なりも、下の時分からカスリの着物に黒のはかまをはかされてね。
 態度もそうだし、門限でも、午後十時でね。たとえ一秒たりとも遅れると罰則ですよ。それは、下はふんどしかつぎから上は横綱までだから。栃木山、大錦の横綱、対馬洋、九州山の大関、という堂々たる天下の横綱、大関も、十時に一分でも遅れれば、ステッキが飛ぶんだから。そのステッキもけいこ場でみんなの目の前でやられるんだからね。
 わたしどもはそういう“きびしさの時”の一番下で育ってるもんだから、身に染みてる。それがもうわたし自身の生涯のためには、非常なプラスになったわけなんだけれどもね。あのきびしさがなかったら、今日の天竜はありませんよ。
 人生の基本だね。それを下の時分から教え込んで。だから強くなることはもちろん大切だけれども、強いばかりで勝つだけが能じゃないと、りっぱな人生を送れるような力士にならなきゃ、国技相撲にたずさわるものといえない、と。そういう人間の根本精神を下の時からたたき込んだのが常陸山だ。
 そりゃあ、実にりっぱな人だ。わたし自身もこういうりっぱな師匠にめぐり会ったことが、非常にありがたいことであるし、生涯の師、おやじとして、今でも念頭から離れずに教えを守り通しておるわけです。
 そういう意味からいいますと、単に相撲界の傑物というだけじゃなく、社会の人類の傑出した人格者だと思いますよ。出身は水戸藩の武道指南の家に生まれておるんだからね。常陸山自身育ちがよかったし、きびしい教育を受けて来てると同時に、すぐれた才能を持っておったんだね。
 非常にきびしい反面、何ともいえない温情があったですね。一例をいうと、わたしが序二段で四日間全勝して、当時は五日しか取らないから、十日のうち、一日おきなんですよ。四日勝って、翌日はもう取組がないだろう、と思ってね、後援者も「全勝おめでとう、どこかへ飲みに行こう」と五反田の小料理屋へいってね、飲まされちゃってね。「明日取組がないんだから、存分に飲めよ」としこたまくらっちゃって、門限も何も忘れてぐでんぐでんになっちゃってね(笑い)。目が覚めたら朝なんだ。おどろいて吹っ飛んで帰った。雷ヶ浦という若者頭が、相生町の部屋のそばにじっと立っておるんですよ。
 わたしが電車から降りて走って帰って来たら、まさか自分を待っているとは思わないから「頭、なにしてるのかね、こんなに早くから」といったら「バカ、おまえを待っているんだ」。その当時、割り返しというのがあって、全勝同士を合わせるようにして、翌日つづけて取るようになっておったんだよ。「今から間に合わない。大将カンカンに怒ってる。とにかく大将が特別なはからいで、翌日取り組ませるように、役員に話して伸ばしてもらっているからもう一番取れるけれども、とにかく大変だぞ」といわれてね、さあ縮み上がっちゃってね(笑い)。それから翌日取って幸いに全勝した。
 千秋楽の夜には常陸山会の幹事連中のえらい人が、これがみんな来ておるわけだ。こっちは全勝したし、おやじは何もいってないから、もうこれで何とか大目に見てくれたんだろうと思ってね。その晩お祝いだから飲んで踊ったりなんかしたわけなんだ。そしたら「サブロー」というわれ鐘のような声がきこえた。「ちょっとこい」「へい」「バカ者め、今時分から勝った勝ったとおごって、たとえ後援者に呼ばれようと、門限も忘れて酔っぱらって、翌日の取組も出来ないようで将来どうなるんだ。おまえみたいな者は弟子として必要ないから、即刻クニへ帰れ」とやられたんですよ。 
 さあ、弱っちゃった。そうしたら幹事の三宅さんという弁護士が、「まあ、大将そんなこといったって若い時だし、うれしくて飲み過ぎて前後不覚に寝てしまったんだから、この際わたしどもに免じて今度だけは、かんにんしてください」といったら、「幹事の先生がそうおっしゃるんだから、今度だけはかんにんしよう。今晩は千秋楽なんだから、これもって、どこへでもいって飲んでこい」といって当時の金で十円くれたんですよ。
 当時の金で十円といえば、大変なものだからね。そのやり方というものは……、実に感激するんだな。おやじのためなら、生命投げ出してもいい、という気になりますよ。きびしい反面、非常に温情があったわけなんだね。それがやっぱり、大力士を育ててきた力だと思いますね。
 相撲ぶりは左四つで、相手の左を引っ張り込んでいずみ川にきめとったらしい。ぐーっと自分で土俵際に下がって右足一本で受けといて「おまえ、もうそれでいいのか」といってね、それから上げた足下ろして、こっちのはしから向こうまで持ってって、ばーんとほうり出す。それを幕内の連中にやるんだからね。
 だから平幕の連中は、翌日の取組で常陸山に合ってると、その晩に一升持って「大将、明日はお手柔らかに願います」っていったんだそうだ(笑い)。そりゃあ、怒らせたら腕折られちゃうというんだ(笑い)。強さは段違いなんだ。今の横綱みたいに立ち合いちょっとしくじったら負けるというようなそんなもんじゃないんだよ。こりゃあ、相撲も強かったし、偉人ですよ。引退間際には、ちょんまげをつけといて渡米して、ホワイトハウスへ行って、時の大統領ルーズベルトと握手してるんだからね。ケタが違うじゃない。
 財産残そうとか、そういうことは眼中になかったですよ。死んでから借金が残ったもんな。いかにしてりっぱな力士を育て上げるか、ということだけだったんですね。わたしなんかは非常にかわいがられて、常陸山がもう十年長く生きていたら“天竜事件”なんか起こさずにすんでいますね。起こそうとしても、あのオン大の下じゃ、そんなことをやろうという考えも浮かびませんよ。あの人が十年長く生きてたら、相撲界の発展がずいぶん違ってますね。その教えがあったから、昭和七年にああいうことを起こしたんだ。あの人の教えがわたしの頭の中になかったら、堕落した相撲界で満足しておったかも知れん。』

 

 常陸山谷右衛門の肖像写真

 

常陸山谷右衛門は明治7年(1874年)1月19日、茨城県東茨城郡水戸下市宝鏡院門前町(現水戸市城東)の由緒ある武家の家に生まれる。本名市毛谷(のち谷右衛門)。曾祖父本矩は弓翁と号し、日置(へき)流弓術の達人で一寸二分の強弓を引き、副将軍斉昭の指南番、祖父高矩は水術、鉄砲の師範、父高成は剣、弓術の達人だった。

家が焼けたり”武家の商法”が失敗したりで茨城中学三年途中で退学。父の実弟で当時有数の剣客だった東京専門学校(のち早大)師範、北辰一刀流の内藤高治範士(のち武徳専門学校教授)をたよって上京。高治氏が竹刀をとってためすと、その怪力に竹刀をたたき落とされることもしばしば。あるとき六十貫(225㌔)の巨石を軽々と持ち歩いたのをみて、力士になることをすすめた。

五代目常陸山の四代目出羽海に入門。24年夏初土俵、27年春六代目常陸山を襲名したが、一時スランプにおちいり、28年秋の巡業中に脱走、まず名古屋相撲、翌年秋には大阪相撲に移り、たちまち大阪一の実力者となった。30年4月に東京帰参、当時104㌔、満二十三歳ですでに大関の力があるといわれた。同年夏、幕下じり付出し。

体重は、入幕時113㌔、34年夏新大関のとき127㌔、新横綱のとき137㌔、晩年は150㌔に達した。受けて立ち、相手にいいように取らせたあげく、泉川にためて、おもむろに振り飛ばすか、どっと突き放すか、四つに渡れば足腰が強じんで、たいていは無造作につり出した。

豪快無比。けいこ場で、幕内力士を高々とかつぎ上げたこともある。42年5月、筑波山に登山したとき、人夫八人が大骨を折って運び上げた八十貫(300㌔)の巨石を楽々とかつぎ上げ、見物を驚かせた。

五代目出羽海となり、満四十で引退、四十八歳で死去という短い年寄生活ながら、大錦、栃木山、常ノ花の三横綱、対馬洋、九州山、大ノ里、常陸岩ら大関を養成した。

「梅・常陸」時代が大相撲史上最大の黄金期であり、”角聖”とたたえられた常陸山こそ、古今独歩、大横綱中の大横綱であったといって過言ではなかろう。
(古今大相撲事典<昭和55年発行>より)

 

梅ヶ谷藤太郎 (2代) - Wikipedia

    常陸山(左)、梅ヶ谷(右)