石鎚島之助は元禄から享保にかけての超強豪。元禄末に紀州光貞候のかかえとなり、白山から石鎚と改名した。十八歳のころ、五百石船の十八反張りの帆柱を、たった一人でおし立てたほどの怪力。男ぶりもよかったという。
「南紀徳川史」(明治中期刊)に次のように書かれている。
「上背が23㌢も低い八角盾之助に負け、他人にからかわれ、次の相撲では八角を目よりも高く差しあげ、こいつを生かしておくと面倒だと石かなにかを捜しているので、他の力士が驚いておしとどめ、御相撲頭寺村相右衛門が出向いて、ようやく中止させた」
「九州の兜山権右衛門という関相撲にいなされて四つんばいにされたのを憤慨し、その次の対戦で思い切りたたきつけたうえ、倒れた上から踏んづけて即死させた。相撲の手以外で殺したというので問題になっているころ、石鎚はすでに夜逃げしていた」
「和歌山で大ゲンカしたときは五人をつかみ殺し、こうした行動がたたり、とうとう郷里へ追い帰された」
「相撲大全」に「強くして技術なく、うえたる男の、焼きモチを食するがごとし」とある。
(古今大相撲事典より)