昭和50年代ころでしょうか?京阪の駅で今は岩清水八幡宮駅(いわしみずはちまんぐう)ですが当時、八幡町駅から八幡市駅に名前が変わった頃だったでしょうか?樟葉駅に模型店「ボークス」や周辺のレンタルビデオ店が沢山あったので周辺を買い物がてらぶらつくのは楽しかったと思います。そのころの話です。

 

 曜日は失念しましたが借りたビデオを返却するためとボークスでプラモデルを買うつもりで京阪電車に乗って葛葉(くずは)駅に向かう途中でした。イスに座っていていて眠いのでうとうとしているとロングヘアの可愛い中学生くらいの女の子が私の前に立って口をパクパクさせて進行方向を指差しているのです。 「え?」と不思議がって進行方向へ目をやるのですが何のことかわかりません。再び前の女子に目をやるとそれでも無表情でひたすら進行方向を指すのです。さすがに気になって立ち上がり前のほうへ歩き出し、先頭車両のほうまで歩き出してみると、電車が駅でもないのに急停車してしまいます。

 

 ちょうど鉄橋のあたりでしょうか?淀駅と岩清水八幡宮駅の間、淀川の桜花見でも有名な背割堤(せわりつづみ)から見える鉄橋でしたでしょうか?運よく反対車線でよかったのですがなんと線路の上に5~6歳くらいの男の子が歩いているではありませんか! しかも男の子は私がたまたま知っていた淀の新町に住んでいるA君では?A君が言うには葛葉のショッピングモールでお母さんと買い物中にはぐれたとのことでした。仕方がないので帰る事にしたのですが帰り方がわからない。そういえば乗った電車の線路をさかのぼって歩いていけば知っている駅に帰れるのではと男の子の判断だったようです。それにしても危ない話です。以降はとんとん拍子でお母さんに会えたのですが京阪電車からは結構な叱りを受けたんだとか。

 

 それにしても不思議なのは私に知らせてくれたあの女の子は誰だったのでしょうか?いまだに謎は解決できないでいます。

 

 笠置と書いて「かさぎ」と読みます。「かさおき」ではありません。じつは実家よりそれなりに近くにある場所です。車ならすぐかな。京都市内から国道一号線を南下し木津川大橋を渡る手前で左折してどんどん進むと左側に見えてきます。京都の南のはずれ「笠置町」にある木津川沿いのホテルだったと思います。すぐ近くに和束町(わづかちょう)がありお茶畑の段々畑で風光が明媚で観光客もそれなりにあるのですがこちらの笠置町は残念ながら寂れていく一方ですね。

 

 自分が記憶しているのは1960年代、ホテルからやや離れたところに時代劇の撮影で有名な「流れ橋」がありそこで撮影していたスタッフや俳優さんがたしか笠置観光ホテルを利用していたでしょうか。地元の人間ですので動画サイトでの心霊スポット探検映像や吉本若手さんが北野誠さんたちとこの場所に訪れたり稲川淳二さんもやってきたり....。日本最恐の心霊スポットとしての紹介ぶりが私としては滑稽でほかなりません。ホテルのオーナーが焼身自殺した場所がここだ!って....。え?私は聞いた覚えはありません。40年以上このあたりで暮らしているのですが近所のおじいさんおばあさんからもそういう話は一切聞いてないかな。

 

 可哀相にこのホテルそのものは周辺の道路開発や鉄道沿線工事など当初の計画から大きくはずれ客足が遠のき1990年代には廃業となり、解体工事費用の不足で放置されることになったと思います。近所の私としては逆に立ち入り禁止の立て札を無視して入ってくる探険家に疑問を呈したいわけですが、建物自体の老朽化も酷いしもし大怪我とかしても責任所在は難しくなるよね。

 

でもどうでしょう?笠置町の方には変かもしれませんが新たな観光地として喜んでも良いのかなと開き直るのもある意味正解なのかもしれませんね。

 近所に住んでいた仲の良いお兄さんが偶然体験した話を書きます。大変大きな事故で有名ですので全国的に知れ渡っている内容で50代以上の方は当時TVニュースなどで驚いた方は沢山いると思います。たまたま母親と買い物をしていたそのお兄さんが偶然、その瞬間にいあわせていた生々しい以下体験談です。

 

 夕方、西日の綺麗なそんな日。お兄さんとそのお母さんがたまたま天六の商店街で買い物をしていました。さて今晩の料理に必要なものを大まか買い終わってそろそろ帰ろうかなと思って大通りの方の地下鉄工事現場のほうに目をやると自動車がどういうわけか燃えています。周辺は少しずつ慌しくなりどうやらその事故の見物をしようと人が集まりつつあるちょうどそのさなかだったと聴きました。

 

 お兄さんのお母さんは「見ちゃダメ!はよ帰ろう!」とお兄さんをしかりつけ一刻も早くその場所から立ち去ろうとしました。そんな時間はなかったと思います。大きな爆発音とともに大きな火炎が巻き起こったとのことです。二人は爆風か何かで前のめりになって倒れて手を着いたのですが幸い怪我はありません。お兄さんが言うにはそのとき不思議なものを見たと言いました。空に向かって無数の火の玉が綺麗な長い尾を引いて昇天するのが見えたと。このとき見たのはなくなった人たちのヒトダマだと思ったようです。でもどうでしょうね?太陽の西日のビルの合間から見えた伸びた光筋を見間違えたのかもしれません。

 

 そんな事を言っていると廻りの状態は阿鼻叫喚、地獄絵図のようだったと言っています。男性サラリーマンの服がボロボロ、OLさんが四つんばいになって苦しそうなどなど恐い映画のワンシーンみたいな状況になっていたと聴きました。社会的に大きな出来事だったので地下工事やガス工事にかんしてはこの事件を教訓に法整備など色々今は進化していますね。

 巨椋池の事故の多さは半端ないという話は数度しました。いまから10数年前の12月、思い出深い交通事故に遭遇しました。近鉄駅から程近い学校前の水路のある交差点で朝の8時過ぎにそれは起こったのです。接触事故で男性がバランスを崩して運悪くその水路に転落。相手側の年配の女性はパニック状態でした。私は事故の瞬間は見ていないのですが、ちょうど川に転落した男性に二名の救命士が蘇生術、心臓マッサージの最中でした。名前は知りませんが顔ははっきり見えたでしょうか。30代の働き盛りな男性でした。わたしは朝からまた大変なものを見てしまったなと思うだけで既にいろんな方がやってきていて対応されていましたので私は素通りした訳です。

 

 帰宅時にふとその場所を見渡すとお花や食べ物が添えてあって「亡くなったんだな、可哀相に。」と思い、1年2年と経過するなか事故の日とお盆には顕花が絶えません。ああ、あの男性は家族に愛された生前はとても良い方だったんだなと知るにつれ、名前は解りませんがいつしかその場所で私は手をそっとあわせるようにしていました。

 

 そんなある日、深夜の飲み会で終電ギリギリで帰って来て、真っ暗なそのいつもの夜道を通っていると前のほうで男性らしきシルエットが見えて私を確認すると軽く会釈をしたような印象に見えました。私は視力が悪いので凝視してみると、そのシルエットがすっと確かに消えていきました。冬の深夜は空が高く澄んで美しいしかなり明るいのです。地上のほうがうんと暗くまるで切り絵のような幻想的な美しさでした。恐いというよりなんともいえない光景で別に慌てて逃げ出す事もしなかったかな。

 

 今もその事故を覚えてらっしゃる方は他にもいるのでしょうか?今日は女性警察官の方がその事故現場で警戒監視されていました。

 なんば周辺は私の母方の実家で小さい頃は母の兄が鉄道模型やプラモデルが好きだったので僕はほぼ毎週入り浸りでそのおじさん家に遊びに行くのが大変な楽しみでした。虹の町(いまのなんばウォーク)や千日前デパート(今のビックカメラの場所ですね)はそのおじさんといっしょに行けば玩具なんかはサラリと買ってくれたので嬉しくて嬉しくて....そら毎週入り浸るよね。そんなおじさんは母に叱られてたっけ。

 

 忘れもしない土曜日の夜だったと記憶しています。ものすごい勢いで沢山のパトカーや消防車が家の前を通り過ぎていきます。あまりにもうるさかったので寝ることが出来ずに不思議がっているとおじさんが「火事や!凄い火事やで!!見に行こう!!!」とおじさんが騒ぎ出します。「あほなこと言いなや!」と廻りの制止を振り切って自転車で突撃。にもかかわらずすでに凄いヤジウマでどこが火事なのかさっぱりで僕を肩車させて「どこら辺が燃えてるんや?」と聞いてくるので「あ!千日前のデパートが燃えてるんとちがう?」ということでズンズン進むわけですが凄いヤジウマで動けない状況が続いたのですがようやくかなりビルのあたりまで見えるようになりました。私は肩車の上でしたのビルの真下や消防士の消化状況などよく見えていました。

 

 ビルの上から「マネキンがたくさん落ちてくる!」と言った記憶があります。ビルの突起物やひさしにぶつかってはあちこち向きを変えながら落ちてくるのが見えます。「地面にスイカやメロンがパシャーン!パシャーン!とつぶれているよ!」とか「ぶどう酒の瓶がパリーンと割れる」とか色々見たままおじさんに伝えるわけです。おじさんは我にかえったように「もうええ、帰ろうや.....。」といってとぼとぼ帰ったかな。

 

 千日前デパートビル火災で体験して覚えているのはこれくらいで、後に大変な心霊スポットとなり、数々の怪談が生まれているというのは私自身、ここ最近知ってあらためて驚く次第です。

 怪談や恐い話を少しずつ書いていますが私自身、父や祖母や祖父母から聞いた話を自分でも忘れないためにも昭和や大正時代、明治時代までさかのぼって恐い話を書きたいと思いますが、そうですね「赤線」も死語になったでしょうか。それはそれで良いかもとは思うのですが。「赤線」とはようするに今で例えて言うと「風俗店街」の隠語となるでしょうか。滋賀県の雄琴、京阪沿線では中書島駅、岩清水八幡宮駅(八幡市駅)、橋本駅がそれに該当するでしょうか。戦前は淀川対岸の山崎などから渡し舟にのって沢山の客が訪れ大変賑わったと聞きます。

 しかし、橋本駅周辺に関して言えばここ20年で赤線と思わせる建造物がすっかりなくなってしまいある意味寂しくもあります。昭和30年代の風俗系に対しての厳しい法律が出来て急速に寂れてしまったという経緯があります。中書島駅を下りてすぐ近くの水路のしだれ柳周辺の建築物を良く観察してみてください。2階ベランダのせり出し部分が目立つ古風な和風建築物がそういった赤線時代の様相を今にも伝えていますね。

 

 戦中戦前の話です。こういった赤線を歩く男性を見つけるにつけ、2階のベランダから綺麗な着物をまとった遊女さんたちが「兵隊さん!いい男!どうやね、今晩はココで私と遊んでいきませんかね?」と声をかけるのです。

 「よし、今日はお金があるんでお気に入りの女の子と一緒遊んでみようかな?」

 「僕は明日から戦地へむかうのさ、いつ帰ってくるのかわからないし、女性経験のないまま戦死するのも残念やし。

  今日で女の子と遊んでいっぱしの男になろうかな!」

 「君はどんな女の子が好みなんかね?」

 「朝鮮から来ている朴某ちゃんって可愛いんだそうですね」

 「本当か?穴兄弟になるのだけはカンベン願いたい」

.......そういった会話の弾む場所だったようです。

 

 戦争が激しくなると、もう二度と祖国日本に帰って来れそうにないと感じた兵士達はこういった赤線に訪れてはなけなしの預金をお気に入りの遊女に差し出した話があります。可愛い朝鮮からやってきた女の子にもこういった兵士が財産を譲ったわけです。祖母から聞いた話ではこういった行為を隠語で「朝鮮銀行に預金する」というのを教えてもらいました。あくまで商売、知らない男性からお金をもらってしめしめと思う女性がいたかたわら、中には相思相愛のカップルになった男女も存在したようです。

 

 その戦地に向かった男性が戦場で戦死したと聞くと相思相愛だった遊女の女性も悲しみのあまり後を追って自殺したんだと。深夜、そういったカップルがカランコロン、仲睦まじく歩いている姿を見たとか見てないとか子供の頃から不思議な話として聞かされてきました。

 

 

 怪談ではないけれど怪談になりうる恐い体験が子供の頃、数度ほどありました。それを書こうかな。

昭和50年前後、ある日私より少し下の男の子が息を切らして我が家に私を呼びながら流れ込んできたわけです。何だろうと聞くと水田の用水路にマネキンが浮いているというではありませんか。いっしょに行ってみると確かにマネキンかなと言う感じ。でも全体にふっくらしていてなんか怪しい。石を投げつけてみるとマネキンなら「カランカラン」と甲高いプラスチックの音がするはず。えいっと投げつけてみると「ぼそぼそ」と鈍い音が。私を呼びつけるより大人を呼べばと私は激高した記憶があります。まぁ、すぐに白黒カーがいっぱいやってきて大騒ぎになったかな。 

 

 これ系の話がもうひとつ。広い田園のところどころに農具を仕舞い込ませる小さな小屋があったものです。そこからカマやスキを取り出して水田に生えた雑草などを駆除するわけですがお小遣い目当てである夏の暑い日でしたか農具を取り出そうと小屋へ行くと赤いワンピースの綺麗な女の子がぶら下がっているではありませんか。人生で一番見たくないものを小さな子供時代に見てしまったわけです。このレア感はハンパ無いですよね。あとは近くで作業をしていた大人に即連絡。私以上に慟哭して大きな声を出してひっくり返っていたと思います。それからか水田近くの倉庫や小屋はみんな撤去していました。

 

 最後に前にも書きましたがどうしてか自動車などの交通事故が多い場所なのです。以下、かなりイヤな話です。ある日の事、ハンドル操作を誤った自動車が水田横の水路に転落。後続の自動車がキキっと停車し中から男性が飛び出してきました。もちろん転落した人の安全の確認、救助するつもりでしょう。一刻も早く助ける必要があり男性は勢い良く水路にダイブするわけですが...。ここの用水路、そんなに水深はありません。男性は両足を骨折する大怪我をしたようでした。自動車の方もおぼれてかなり水を飲んでしまっていたらしいですね。これは父の体験談です。

 

 巨椋池ってどんな池?だいたい想像はついたでしょうか?

 

12月8日が近づいてきました。この日を聞いて即「太平洋戦争開戦の日」と連想できる人は少なくなったでしょうか?あるいはビートルズのジョンレノンさんの亡くなった日と連想できる人ももうかなり少なくなったかな。で、ですね。「湾岸戦争」を覚えている方はいるでしょうか?1991年くらいだったですかね?オイルまみれになった可哀相な鳥さんで記憶している人もいるかもです。今年は2020年ですのでその湾岸戦争から既に30年が過ぎ去ろうとしています。個人的にはその湾岸戦争(オペレーション・デザートストーム、砂漠の嵐作戦)ってそんなに昔の出来事という印象がありません。ちょっと前の出来事と思ってしまっています。

 そこではてと考えるのです。「太平洋戦争」って戦後30年になる前に僕は生まれているという事です。私は昭和40年代、1960年代に生まれてますので。指を折って計算すると湾岸戦争より短い年月なんですよね。「太平洋戦争」ってそんな昔に起こった戦争ではなかったのです。冷静に考えるとある意味とても恐く感じたわけです。怪談とはまた別の恐さがありますね。戦後70年とか80年とかいうとすんごく前の事と感じてしまうけど別な方法で考えるとまだまだ身近な存在だったわけです。ハイ。

 京都の有名心霊スポット「深泥池」よりもっと怖い池があります。「深泥池」といえば怪談で有名な方など色々お話しされていますし、タクシーの運転手さんなども怖い経験をしたというのも私は子供の頃から聞いています。私がこれから述べるのはもっと南の池を紹介したいと思います。宇治の木幡にある木幡池が残渣といわれていますが京都南部には琵琶湖より少し小さい「巨椋池(おぐらいけ)」というのがありました。昭和8年ごろ戦時体制下、兵士に食わせるための米の増産計画のひとつとして「巨椋池」は干拓され農地と改造あいなったわけです。

 

 しかし戦後まもなく伊勢湾台風や室戸台風で淀川や宇治川が増水し決壊し何度も痛ましい水害が起こっています。数千人という犠牲者がでていていまだ不明者もいるといわれています。川が氾濫し増水すると干拓する前の池の形がよみがえります。もともと池でかなり低地でしたので水害による犠牲者がこの池に集まってくると---死んだ父や祖母が口をそろえて不明な仏さんを近所の寺に集めて筵に寝かせたんだよと以前から聞かされていました。

 

 平安時代から室町、江戸時代とこのあたりは何度も水害被害あいそのたびに犠牲者もおびただしく、もしかしてこの地は呪われているのでは?と噂が絶えませんでした。そういった可哀相な魂を慰める場所として地名に「忌み祓う(いみはらう)」と言う村がいまだにあるのです。今現在でも痛ましい交通事故が絶えずあり、なんでこんなに見渡しの良い農地で事故や死人が出るんだとか不思議がってはいますが内心このあたりの住人は、水害で不遇の最後を遂げた魂の行き場のない霊魂が手招きをしているんだろうよと思っているにちがいありません。

 

京滋パス、久御山ジャンクションのインターチェンジ料金場周辺で事故が発生したら是非今回の内容を思い出して欲しいです。深夜にはかなり濃霧が酷い日があり数メートル先が全く見えない日もあるので注意が必要かと。全て現在進行形な内容でございます。

 ポラロイドカメラは完全に死滅したけどそれでもトイカメラと言って良い、小さい「チェキ」ならもしかしてマジで怖い心霊写真が撮れるかもです。チェキはデジカメではなく普通のフィルム板を使って撮影できる楽しい趣味向けなカメラで、小さくて安価(フィルム代は高いけどね)なのでたまに女子が楽しそうに撮っているのを見かけたことがあります。

 

 この「チェキ」と言うカメラは二重撮影、多重露光が出来るのですよ。工夫すれば良い心霊写真みたいなのが作れるかもしれません。写真サイズもちっこいので不思議と怖さも演出できるかもしれません。画像や色彩もちょっと遊べるのかな?セピア超にふれば良いかも。