【日々の心】
★阪神淡路大震災の経験を受けて

今週の日曜の17日は、26年前の阪神淡路大震災の日でした。
当時、私は、神戸市西区にある大学の3年生でした。
一人暮らしをしており、神戸市垂水区にアパートがあり、そこで、被災しました。
ケガもせず、翌日未明には京都に避難できたので、もっと大きな被害を受けた方々からすると、被災したと言わないで欲しいとも言われるかもしれません。
しかし、
かなりの精神的ダメージは受けたので、被災と言っていいのかもしれません。
当日は、水1リットルを友達と2人で分け合い、
食べ物は、キャベツ太郎をこれまた2人で分け合って食べました。
車をバイト先から借りていたので、バイト先の三ノ宮に、返還する必要がありました。
夕方に三ノ宮に着き、バイト先の代表に車を返そうとしたら、「一緒に京都に避難するか?」と尋ねられました。
神戸にこのままいても、生活ができない。
京都まで出たら、実家のある大阪に避難できるかもしれないとも思い、そのお話にのったのです。
バイト先や、バイト先のマンションの片付けを手伝い、夜になって車で出発しました。
1月17日の走行ルートはこんな感じです。

長田、芦屋や西宮、宝塚などは通れませんので、三田や篠山、亀岡を通り、京都へと向かったのです。
21:00頃に出発して、2:00に着きましたから、5時間ほどですね。
下道メインで走っていますから、そんなもんでしょう。
京都には、バイト先の京都支店がありました。
1月18日 AM2:00頃に京都に入りました。
何事も無かったかのような街並み。
普通にネオンが光り、食べ物屋さんもやっている。
打ちっぱなし場だって営業している。
そんな差にショックを受けました。
この違いは何なんだ!との怒りの感情も出ました。

全員、殆ど食べてなかったので、ようやく食事にありつき、バイト先の京都支店用のマンションに泊めて頂きました。
次の日、起きて、TVを見たらすさまじい光景が映っていました。
三ノ宮の惨状や、倒壊は見ていましたが、長田の火事があそこまでとは・・・
垂水から三ノ宮に移動する際は、海側を通らず、山側にある山麓バイパスという道を通っていたので、長田の状況はそこまで把握していませんでした。
もちろん、山麓バイパスから海側を見た時に、火事の煙がたくさん上がっているのは見ていました。
友達は大丈夫なのか?
先輩は?後輩は?
のうのうと熟睡できた自分自身に対し、罪悪感情が出ました。
このまま大阪の実家に避難することはできる。
しかし、
友達や友達の家族は大丈夫なのか?
水や食料は大丈夫なのか?
そんな事を思い、バイト先の代表に車を借りることができないかを確認しました。
代表も快く貸してくれると言ってくれました。
そこから、京都のスーパーやコンビニに寄っていきました。
水を大量に買いました。
弁当も大量に買いました。
ウェットティッシュや、トイレットペーパーも買いました。
コンビニの店員に、奇異な目で見られたこともハッキリと覚えています。
確かに、神戸に今から行くなんて思ってもいないでしょう。
車の後部座席、トランク一杯に救援物資を載せ、友達1人と一緒に神戸へ戻ったのです。
もちろん、両親には無事を連絡し、神戸にもう一度戻ることも伝えました。
両親も応援してくれたので、気兼ねなく神戸に向かったのです。

通ってきた道を引き返すのは、問題ありませんでした。
1月19日の9:00頃に京都を出発し、神戸市に着いたのが、15:00頃。
先輩や後輩、友達などの家に寄り、支援物資を届けていきました。
1軒当たりの割り当てとしては、少量だったかとは思いますが、みんな喜んでくれました。
全部を配り終えたのが、19:00頃。
長田や芦屋方面には、危なくて行けませんでした。
気になりながら、自分にできることの限界を感じました。
そして、京都へと向かいました。
京都についたのが、夜中の1時。
翌朝、もう一度買い出しに行き、もう一度神戸へ。
やはり水が不足していると聞いていたので、水を重点的に買いました。
そして、みんなの家を回って、届けていきました。
3度目は、来れない事も伝え、京都へと帰ったのです。
バイト先には、車を貸して頂いたり、避難をさせて頂いたので、その後の5日間お手伝いをさせて頂き、26日に電車で大阪へと帰りました。
大阪に着いたら、両親や祖母はもちろん、社員の皆が喜んでくれました。
もう安心できるはずです。
しかし、26日の晩、自分の部屋で寝ようとすると、眠れません。
震災から約1週間、必死に動いていたことで、熟睡できていました。
倒壊。
火事。
被災された方々の顔。
安心して眠れることで、思い出してしまったのです。
約2ヵ月、不眠症は続きました。
不眠症が取れたのは、3月の末に、僕が支援した友達の内の2人が、大阪に車で遊びに来てくれたことがきっかけだと思います。
その顔を見て、安心できたのか、眠れるようになりました。

しかし、今度は、
4月になり学校が始まり、時間が経っていくにつれ、まだ見えていなかった被害が見えてくるようになりました。
先輩や後輩の家が倒壊していたこと。
後輩が亡くなったこと。
友達の親族が亡くなったこと。
バイトで訪問していた家が焼失していたこと。
身近に被害がたくさんありました。
また、眠れなくなりました。
完全にPTSDですね。
お世話になったバイト先ですが、一連のことを思い出してしまうので、辞めさせて頂きました。
大学での勉強、部活、そして、新しいバイト先での仕事、忙しく動くことで、徐々に薄める努力をしていきました。
しかし、毎年1月17日が近づくと、TVでは特集が組まれます。
1月17日が近づくと、TVを点けなくなったものです。
また、17日当日は、映像を見なくて済むように、出かけるようになりました。

今ここで書かせて頂いてるように、震災を経験したこととして、普通に話せるようになるのに、約15年かかりました。
実際、話せるようになったのは、2011年の東日本大震災があったからかもしれません。
当時は、ボランティアの団体に所属していましたので、東北には行けませんでしたが、大阪からの支援物資の送り出しのお手伝いをさせて頂きました。
そういった経験や、東日本大震災の映像が、阪神淡路大震災の記憶を薄めたのかもしれません。
実際、阪神淡路大震災の写真や映像を見られるようになったのは、約20年経過してからですから、つい最近ですね。

こういった経験は、したくなかったですが、した事で考え方は大きく変わりました。
私にとって、阪神淡路大震災は、とてつもなく大きな影響を与えたのです。
亡くなられた方々に、恥ずかしくない人生を送りたい。
後悔しない人生を送りたい。
時間をムダにしない。
何気ない日々に感謝する。
そんな考え方にさせてくれました。
今現在の恵まれた立場、環境。
それらを少しでも有効に使用し、笑顔を連鎖させるような環境を創り出す。
そんな仕事がこれからもできたらと日々思っています。
謙虚に、
過信せず、
自分だけでなく、他者や業界、社会のために、
自分のできることを、しっかり、やっていきたいと思います。