EIKOの気まぐれ闘病日記 -148ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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          一人の弟子のため


 71年(同46年)の3月末、吉原は倒れた。「第三文明新人展」や「第三文明華展」に取り組んでいた。搬送先の中野総合病院に池田からの見舞いが何度も届いた。吉原から仕事を引き継いだ高田新平(東京・東大和市、区本部長)。

「お見舞いに行って仕事の話になると『あの資料はあの棚の何段目にある』とすべて覚えておられ、『本部職員の仕事はこのようにするのか』と教わった」。高田が「早く元気になって職場で仕事を教えてください」と声をかけても、吉原はうなずかなかった。

「うそになると知っていたのでしょう。自分に厳しい方でした」。

 「これは高橋雪枝さん(第一宮城総県婦人部総主事)が教えてくれた話です」と姉の渡辺公子(宮城、婦人部副本部長)は語る。

「弟が携わっていた東京での美術展で、受付に池田先生が立って、自ら絵はがきなどを販売されていたのです。そして『今日は吉原浩一君に代わって、ぼくが受付をやっているんだよ』と言われたそうです」。

 吉原は5月中旬に腹膜炎や尿毒症を併発。危篤に陥ったが、回復した。新潟にいた池田も居合わせたメンバーと唱題を重ねている。意識を取り戻した吉原は、家族に「ぼくは死魔に勝ったよ。楽になった」と微笑んだ。

「それまでと全然違う表情になったので驚きました。『ぼくは必ず先生のとそばに帰ってきますから』と話していました」(母のしづ子)。

 それからの10日間ほど、親子で語り合う様子は本当に幸せそうでした」(渡辺公子)。吉原は父の正三郎と互いに御書(日蓮の遺文集)の講義をし、俳句を詠み合った。6月1日、父の腕に抱かれて息を引き取った。29歳の誕生日だった。

 池田が初めて満月にレンズを向けたのは、その8日後である。


 遺族への励ましは、その後も続いた。9年後の夏。池田は聖教新聞の連載「忘れ得ぬ同志」で、吉原の人生を紹介している。掲載前、男子部牙城会の「第一回全国柔剣道大会」に集まった4200人の前で発表した(1980年8月31日、創価大学)。それは第三代会長の辞任後、池田が初めて参加した大規模な行事だった。

 「生前の吉原浩一君は、注目されたこともなく、むしろきわめて目立たない人であった。しかし・・・・新文化の創造に全魂をふりしぼってきた青年であった・・・・・」

 長文が読み上げられるなか、吉原をよく知る友人たちは涙をこらえきれなかった。その一人が語る。

「じつは吉原君は中学時代、柔道部だったんです。黒帯もとっていた。その彼を讃える文章を、先生はわざわざ、柔剣道大会の場を選んで発表された。一人の弟子をここまで大事にされるのか、と心が震えました」。


 「先生から『月の写真を撮る時は”月天子(がってんし)よわが友を護り給え”という思いを込めてシャッターを切るんだよ』と何度かうががったことがあります」(大黒覚、北海道主事)

 月の写真を池田から贈られた時、吉原正三郎は57歳だった。1953年(昭和28年)に信心を始め、東北6県すべてで学会の地区づくりに奔走した。草創期の柱の一人である。その後も総宮城総主事や副東北長などを歴任。

 「夫は、浩一が死ぬまで身につけていた腕時計をはめて東北6県を回りました。相談や信心指導を受けるために、自宅まで来られる学会員さんが年間1000人を超える時もありました。92年の生涯を、先生の弟子として生き抜いた夫でした」(しづ子)

 大沼湖畔の満月の写真は、今もしづ子の部屋に大切に飾ってある。



   写真ー人生を照らす光  連載終了


  (次回の連載は未定です)


          東北の「父子の譜」


 大沼湖畔で初めて月を撮った5日後、池田は仙台にいた。約200人の青年部が集まり「仙台・青年と語る会」が行われた(1971年6月14日、旧・東北文化会館)。メンバーの多くが20代前半である。その場に池田は、1組の初老の夫婦を招いた。

 吉原正三郎と妻のしづ子──2週間前、長男の浩一を亡くしたばかりだった。

「目立ってはいけないと、会場の一番後ろにいました」。今年、92歳になるしづ子(宮城、支部副婦人部長)が語る。

 「今日は、吉原浩一君のご両親がいらっしゃっています」。池田はそう言い、二人をそばに呼んだ。

「『今日1日は、絶対に私と離れてはいけませんよ』と言われ、追善の勤行も一緒にしていただいた。泣けて泣けて、声になりませんでした」。

 池田は吉原夫妻に語りかけた。

「優秀な青年でした。惜しかった。さびしいでしょう。辛くて、辛くて、しょうがないでしょう。でもすぐ帰ってくるよ。それが仏法です。それば信心だと確信して。そう確信しなければ・・・・・たまらないよなあ」。

池田に肩を抱かれた正三郎の目から涙がこぼれた。さらに池田は「ぼくが写しました。差し上げましょう」と言い、正三郎に一枚の写真を手渡した。

 「それは木の間から暗い湖面にキラキラ輝く波と、ぽっかり中天にかかった満月の写真でした」(正三郎の手記)。5日前に大沼湖畔で撮ったばかりの写真である。

 正三郎と浩一の親子について、池田は後年、「青葉が薫る杜の都(=仙台)に、広布にかけた父子の譜(うた)は、永く語り継がれていくことであろう」(『忘れ得ぬ同志』)と讃えている。学会本部の職員だった吉原浩一の病状に池田が気づいたのは、1970年(昭和45年)の暮れ。言論問題の余塵がまだ冷めない頃だった。


 東京・信濃町の学会本部。深夜まで明かりのついている部屋を見つけると、池田はしばしば激励して回った。

「窓ぎわに机が一つしかない小さな部屋で、書類に顔をすりつけるようにして彼は仕事に没頭していた・・・・私は非常に心配し『きょうはもう帰りなさい』といい、体の精密検査をするようにも促した。彼は『気をつけます』と唇を結んで答えた」(同)。

 吉原は目が見えにくくなっていた。のちに、腎不全による高血圧で眼底出血していたことがわかる。

 「一家で信心を始めたきっかけは浩一の病気でした」と母のしず子。「幼い頃からリウマチやネフローゼで苦しみました。むくんでいた浩一の足が次第に治っていった時は、本当に嬉しかった」。東北大学に進学し、東北学生部の礎を築いた。卒業時、教授から専攻していた心理学で大学院に残るよう請われたが本部職員を希望し、上京した。

 幾つかの職場を経て「第三文明展」などを担当する部局に配属された。

「吉原君が尽力した『第三文明展』は、言論問題の暴風雨の後、学会の文化運動を社会に大きく開く挑戦でした。彼は誰よりも誠実に取り組んでくれた」(山崎尚見、最高指導会議員)。全国副高等部長として高校生たちの激励にも力を注いだ。

 ある時、壁を伝いながらゆっくり歩く吉原に同僚の鈴木琢郎(副会長)が気づいた。

「おい、目がみえないんじゃないのかか」。病院に行って診てもらうよう説得しても、吉原は頑として拒んだ。

「俺の体は俺が一番知っている。わがままを許してくれ。最後まで闘わせてくれ」と言ってきかなかった。吉原とともに「第三文明展」の運営に取り組んだ北原芳子(東京・町田市、南王者区婦人部主事)。

「たまには早く帰って休めば、と声をかけても、結局明け方まで働くことが多かった。目が見えなくなる前にすべてやっておこうと思っていたのかもしれません」。

          少年と見たヒマラヤ②


 日程は詰まっている。11月1日=国王と会見、2日=トリブバン大学で記念講演、3日=同大学から名誉博士号の授与式、4日=カトマンズ市の名誉市民称号授与式とネパールSGI総会、5日にネパールを出発──チャンスは午前中に行事が行事が終わる3日の夕方しかなかった。

 有名なナガルコットやカカニといった観光地は、時間がかかるため組み込めない。川村たちスタッフはトリブバン大学から車で小一時間ほど南に行ったあたりにスナコティという高台の村を見つけた。ヒマラヤが見渡せて、カトマンズ市街も一望できる珍しい景観である。「ここしかない」と思った。

 3日、授与式を終えた池田は「さあ行こう」と周囲に声をかけ、午後四時過ぎに宿舎を出発した。車は環状の幹線道路から舗装されていない道に入り、揺れながら進んだ。

 川村たち何人かのスタッフは先に現地に着いていた。

「雲がかかって、山がほとんど見えず、焦りました」。池田が到着した。「あちらがヒマラヤの方角です」と示さなければわからないほど曇っている。

 「あっちがヒマラヤか」。そう言った池田は、妻の香峰子と同行者たちの方を向いて何枚か撮影した。

 再び振り返った。不意に、雲が切れた。

「ピンク色に染まった峰が、東からランタン、ガネッシュヒマール、マナスルと次々に現れました。夕陽で山肌の色が刻々と変化していきました」。チャンスはわずかな時間だった。

 「実はこの時、私には、かわいらしい応援団がついていた」。池田はその時の情景を綴っている。

「丘で遊んでいた近くの村の子ども達である。20人くらいだったろうか。はじめは遠巻きに見ていたが、好奇心を抑えられなかったのだろう、私が移動するたびに、ぞろぞろとついてくる。子ども達の身なりは貧しかった。しかし、目の輝きは宝石のようだった。私は語らずにいられなかった」。

布を丸めたボールで遊んでいた子どもたちが池田を囲んだ。

 私たちは仏教徒です。ここは仏陀(釈尊)が生まれた国です。仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ったんです。あの山々のような人間になろうと頑張ったのです・・・・・・みなさんも同じです。すごいところに住んでいるんです。必ず、偉大な人になれるんです──

 当時の子どもたちとネパールの青年部は、17年経った今も交流を続けている。電話公社のドライバーや公務員もいれば、商店主、理学療法士になった子もいる。

 宿舎に戻る道中、突然、池田の車が止まった。後続車に乗っていた人々は「牛でも通っているのかな」と思った。

「道路沿いにSGIメンバーの家があり、先生は居合わせたお母さんと娘さんを激励されていました」。

その家の息子のアミット・ランジットは、ネパール男子部長、青年部長を歴任。のちにスウェーデンの大学で修士号をとった。

 「ああ、月がきれいだ」。そう言って池田は再び車中の人になった。ヒマラヤの峰々のはるか上方から、夕餉(ゆうげ)の煙のたなびく家々に白い月光が降り注いでいた。

             少年と見たヒマラヤ①


 モンゴルの首都ウランバートルの国立現代芸術ギャラリー。「自然との対話」展のオープニングを前に、スタッフの高木義介(総千葉長)たちは準備を進めていた(1997年8月)。いつの間にか入ってきた1人の老人が、設置し終わった一枚の写真に近づいたり、離れたりして熱心に眺めている。

「誰だろうと不審に思い、声をかけました」(高木)。その老人は、モンゴルで知らない人はいない国民的画家のニャムオソリン・ツルテムだった。

「この写真には物語があります」。高木に語りかけた。ツルテムが見ていた写真は、池田が2年前にネパールで撮ったヒマラヤの風景だった。「ウィンザーの道」などと並ぶ、池田の代表作である。

 聖教新聞のインタビューを受けたツルテムは、鋭い眼光をたたえて答えた。

「『一瞬』を超えた写真です。哲学があり、芸術があり、物語を紡ぎ出す確かな眼がある。ただ現地に行きさえすれば、このように見ることができるというものではない。私もヒマラヤ絵を描いてきましたが、こんなふうに描くことは不可能です」。74歳の老画家は「この作品を見て、私にはもうなすべき仕事は残されていないと思いました」とまで評した。

 それは池田自身が「できれば撮りたかった。日本の青年にも見せたかった」と望んだ絶景だった。


 「なんとしても先生にヒマラヤを撮影していただきたい」。ネパールSGI名誉顧問の川村良子(東京・目黒戸田区婦人部主事)は長年、願い続けていた。きっかけは池田の第三代会長辞任だった。

「ただ悔しかったんです。私自身、山歩きが好きだったこともあり、『世界一の山々を、世界一の先生にご覧いただきたい』と強烈に思った」。

 商社で働いていた川村。「エベレストを一望できる場所にロッジを建てよう」とも決意した。何のつてもなかったが、現地のシェルバ(ヒマラヤを案内する少数民族)と一から信頼を築き、会長辞任から10年後、その夢を実現する(1989年)。池田は「世界一高き道場 川村城」と詠んで川村に贈った。

 「1980年代後半、ネパールのメンバーは12人でした。カトマンズ市内のアパートで勤行会を開いていました」。そのなかにネパールSGI理事長となるケシャブ・シュレスタもいた。メンバー数が100人を超えた頃、池田の訪問が決まった。

「先生は『写真を撮りに行くよ』ともおっしゃいました。受け入れ準備の合間を縫って、『ヒマラヤを撮れる場所』を必死に探しました」(川村)。



                   春色のカーディガン②


 今回の取材中、「池田会長は、”眼が鋭い”」という言葉を何度か聞いた。シャッターチャンスをつかむ力

の強さを、そのように表現するそうだ。

 「昭和32年から3年間、会社勤めの頃、じつは学会本部の隣のアパートに住んでいたんですよ」。日本

写真家協会会長の田沼武能は懐かしそうに語った。

「夜、二階の自宅に帰ってきて窓を開けると、まだ本部の窓が明るくて、若い人たちが熱心に祈っていた。

大家さんに『隣は何の団体なんですか』と尋ね、創価学会の建物だと知りました」。


 田沼はアメリカのタイム・ライフ社の契約写真家として池田を取材している。

「こちらの要望に気さくに応じてくださり、庭で息子さんと相撲をされるところも撮りました」。

『ライフ』の仕事がきっかけで、「世界の子どもたち」がライフワークになった。訪問国は120を超えた。そ

の多くが発展途上国である。それらの作品は長年、聖教新聞で連載され、婦人部が行った「子どもの人権

展」でも紹介された。

「戦争の一番の犠牲者は子どもです。平和でなければ子どもの笑顔はない。これが私の究極の結論です」。


 近年は、武蔵野の消えゆく自然をテーマに撮影を続ける。83歳の今も機材を抱えて朝4時台の電車で

撮影現場に赴くこともある。

「単に美しい自然を写しただけだと『絵に描いた餅』のようで、心が通う写真にならない。どこかに人間の生

活、足跡を感じられるような風景を撮りたい。僭越ですが、池田さんも同じような心の構え方ではないかと思います」。

 池田が撮った写真集を眺め、神奈川・真鶴の海の写真に目をとめた。

「ごく自然に、パッとひらめきを感じ撮られるのでしょう。風景写真は『出あい』に尽きます。この波しぶきも、出会った瞬間を切り取っておられるのが素晴らしい」。