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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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                  春色のカーディガン①


 「僕と池田会長の出会いは一期一会だけど、お互い何冊か写真集を贈り合う『写真集友だち』なんです。こんなこと言ったら学会員さんに怒られちゃうかな」。人なつっこい笑顔で語るのは写真家の篠山紀信。日本を代表するクリエイターの一人だ。

 「池田会長は、好きな時に好きな場所に行って撮れないでしょう。限られた時間、限られた目線、限られた範囲という厳しい制約下で、よく撮り続けられるなと感心します。相当に強烈な意思がなきゃできませんよ。ぼくなら絶対無理。写真を拝見して『もっと自由に動き回りたかったんじゃないかなあ』と感じたこともあります」

 篠山は一度だけ池田を撮影したことがある。1973年(昭和48年)3月4日、東京農業大学(世田谷区)。同大学に学ぶ学生部員たちが「現代農業展」を企画し、池田をはじめ4600人の世田谷区内の学会員を招待した。そのメンバーと池田の記念撮影も行われた。

 当時、潮出版社の宣伝部長だった増田信之。

「『生命を語る』という池田会長の新刊本の、ポスター写真を篠山さんにお願いしました。東京農大の体育館で記念撮影があるので、その休憩時間を使いました」。

 当日の朝、篠山から増田のもとに『春色のカーディガンを用意してください』という連絡が来た。

「だって、背広の堅苦しいイメージだけじゃ面白くないから」と篠山は振り返る。

「体育館では高い撮影台に何百人も並んで待っていた。よく覚えています。記念撮影が終わり、次の記念撮影の列をそろえる間、池田会長が控え室に寄る。そこでぼくが撮る。これを何度か繰り返しました」。

 

 撮影中、篠山の高所恐怖症が話題になった。

「でも写真を撮る時はこわくありません」。「さすがだ。それがプロだね」。「あ、話している顔がいいですね。話し続けてください」。篠山がすかさず注文し、笑いが広がった。

「スタジオでもないし、決していい撮影条件じゃなかった。カメラの前で殻にこもって権威的になっちゃう人もいる。そういう時はなんとかして相手の心をほぐさないといけない。でもあの時はそうじゃなかった。まったくの初対面でも、ぼくのことをふっと受け入れて、逆にぼくが包まれるような感じだった。池田会長はとっても人間的に大きい人ですよ」。

 記念撮影の合間に、池田は「きょうは日本を代表するカメラマンが来られています。篠山さん、どうぞいらっしゃい」と紹介した。

「篠山さんは控え室で『おい、ぼくのこと言ってるよ、どうしよう』とびっくりされましたが、照れながら体育館に出て行って、皆さんから拍手で迎えられました」(増田)。

 「昭和48年は『女形・玉三郎展』で芸術選奨新人賞をいただいた年です。池田会長はご自身も写真を撮り、写真がわかる人だから、おそらくぼくの作品も見て、好意をもっておられたと思う。指名していただいて名誉に思っています」と篠山は語る。


 『生命を語る』の新聞広告には背広姿の写真が使われた。書店や電車の中吊り広告は青いカーディガン姿の写真だった。

「カーディガンのほうが、はるかに反響が大きかったですね」と増田は笑った。

                  闘病を支えた手紙②


 三木はブラジルをはじめ海外で信仰に励む学会員の日常もフィルムに収めた。香港では小さな船の上で暮らす水上生活者の様子を撮った。「香港仔(ヒョンゴンジャイ)」、英語で「アバディーン」と呼ばれる地域である。

「当時は読み書きのできない人も多かった。この写真は、庶民に仏法が広がる様子を伝える貴重な記録です」(李剛寿、香港SGI名誉理事長)。香港初代理事長の周徳光も写っている。

「バスや電車を乗り継いで『船上座談会』に集う人もいた。波止場で『仏の船』はどこかと尋ねれば、誰でも知っているくらい勇名でした」(李)という。

 「アバディーンの座談会の話は有名ですね。香港の方々の信心に多くを教わりました」。島田寿雄(大阪・豊中市、副支部長)が語る。1987年(昭和62年)、25歳の時に香港へ赴任した。服飾資材を扱う商社で海外第一号となる現地法人づくりを任された。

 「広東語もまったくわからないなかのスタートです。回りの状況が見えてくるにつれ、プレッシャーで自信を失いそうになりました」と語る島田。香港に来て1年半が過ぎた頃、池田から写真が届いた。

「香港の有名な高層マンション『エリザベスハウス』の写真です。右端に窓枠が写り込んでいて、車の中から撮られたことがわかります。思いもよらない激励でした」。88年(同63年)2月、香港訪問の際に池田が撮った1枚だった。

 島田は「ここで負けられない」と奮起した。香港の中国返還までの約10年間、駐在し、今は同社の代表取締役専務を務める。会社は北京、上海、タイ、ベトナム、米国にも事務所を構えるようになった。

「あの時の写真が、自分にとって大きな転機でした」と振り返る。


 三木が残した「昭和50年5月3日の池田会長」という書き出しで始まる、自身の闘病記録だ。

 「私が3年前(1973年)、脳腫瘍を手術した後、枕の下から水ににじんだ手紙を発見した。開けてみると池田先生からのお見舞いの手紙であった。私は即座に『手術前、先生からお手紙を戴きましたとあなたにいったら、枕の下に入れてくれといったじゃありませんか』と逆に家内からしかられた」

 53歳の三木。大手術を乗り越えた。18日間も意識がなかったという。退院後、池田は三木の自宅まで見舞いに行った。三木はかつて池田から聞いた「人の3倍働けばなんどかなる」という言葉を支えに、リハビリに励んだ。ひと月後に全快し、ヨーロッパ取材に飛んだ。

 手術から2年が経った。三木は池田の会長就任15周年の式典を取材した。

「1度死んで、先生のお陰で甦った私のせめてものご恩返しはこれ以外にない」とまで意気込んだ。

 「お二人の再会の場面はよく覚えています。池田は車から降りるや『三木さん!』と呼ばれた。三木さんは涙を浮かべ、構えていたカメラを下ろされた」(牛田恭敬、聖教新聞写真局主事)。その瞬間を三木自身が記している。

 「つかつかと私の所にこられて手を差し延べられた。『よく頑張りましたね。元気になられましたね、いつもお祈りしていますよ。お互いにもう少し長生きしましょうよ』と励ましてくださった。私は泣いた。涙が吹き出て止まらなかった。『先生のお陰でこんなに元気になりました。ありがとうございます』と、申し上げたつもりだが、はたして言葉になったかどうかわからない」

 三木は日本大学教授や国内初の写真専門美術館「土門拳記念館」の初代館長を歴任。後進の育成にも力を注ぎ、72年の生涯を終えた。

                   闘病を支えた手紙①


 敗戦国の日本がサンフランシスコ講和条約を結んだ1951年(昭和26年)9月。葉巻をくわえた吉田茂

(当時の首相)の笑顔が『ライフ』誌の表紙を飾った。約1800万部が世界各地を駆け巡り、「復興する日

本」を印象づけた。


 撮影したのは三木淳。日本の報道カメラマンの草分けだ。足掛け8年かけて池田を取材し、『写真 創価

学会』(1968年、河出書房)を出版した。同書の写真を見て学界に入った人もいる。池田に対し「あなた

の撮った写真で写真展をやるべきだ」と強く勧めたのも三木だった。


 「(三木と)初めてお会いしたのは、昭和35,6ごろ、真夏の日であった」(『池田大作全集』第21巻)。会

長就任間もない池田は、初対面の三木に「昔から毀誉褒貶を気にしてはいけないといわれていますが、私

も人間ですから少しは気にします。ほめられれば、ちょっといい気になりますし、けなされれば腹もたちま

す」と率直に話している。

「しかし、学会のことをけなされた場合、私を信じてついてくる大勢の学会員がかわいそうですから、私は

断乎として闘ってきました」。


 その印象を三木はこう綴った。

「私はいままで、偉いと世間からいわれている多くの人々に会ってきたが、池田会長のように率直にものを

いう人は初めてであった。高い地位にある人はことさらに自分を偉くみせようとする衒いがあるものだが、

池田さんにはそれがない。直感的に若い人々が『先生、先生』と敬慕するだけの大人物であるとわかった」(『写真 創価学会』)

 「作家の三島由紀夫はカメラを向けると、必ず身構えた。そういう人は多いが、池田さんは飾らない」とも

語った。写真家仲間から「三木は写真家には惜しい男だ。あの才智と男気があれば、政治家になればま

ず大臣は間違いない」と親しまれ、池田も「まれに見る活動家」と評した三木。聖教新聞本社まで毎週のよ

うに通い、写真記者たちに技術指導したこともある。


                   写真がつなぐ絆②

 

1週間後の3月19日、聖教新聞東北支社編集部長の斎藤国夫たちが気仙沼会館を訪れた。一階は外壁を破って突っ込んだ乗用車はじめ、大量の瓦礫で歩くことすらおぼつかない。流されたカツオやサンマも転がっていた。館内外の被災状況をカメラに収めた後、濡れもせず、流されもしなかった備品をいくつかに積み込み、市内の救援拠点に向かった。

 「これも見つかったのか」。総宮城長だった盛島明彦たちは声をあげた。

「無傷だった備品のなかに、池田先生が撮影された写真額があったのです」(斎藤)。それは色とりどりのコスモスが青空の下で咲き誇る写真だった(2007年8月、長野で撮影)。

 コスモスは「東北婦人部の花」として親しまれてきた。震災直後、断片的な情報から「気仙沼会館は猛火にのまれ絶望的だ」と思われていた。想像を絶する被害報告が相次ぐなか、「気仙沼会館に非難した人は全員助かった。コスモスの写真も無事だったらしい」という知らせは、小さくとも確かな朗報だった。半年後の9月、東北婦人部は「コスモス希望の集い」と名づけたグループの集まりを東北全土で開いた。

 東北婦人部長の千田静枝は語る。

「避難所や仮設住宅も会場となりました。まだご遺族の納骨ができない方々も多い状況でした。四畳半の部屋に7,8人で集まったり、テーブルに飾ったコスモスを囲んで、お互いの悲しみや苦しみを話し、聞き合ったり・・・・・。そういう小さな場で『コスモスの写真』も話題にのぼり、喜びになり、広がっていきました」。

 津波で自宅を流された加賀夫妻。今、夫の会社の再建を目指している。

「震災の後、いろんなお宅に家庭訪問に行くと見かけるんです。庭に咲くコスモス。道ばたで咲くコスモス。丈夫なものだな、私たちみたいだなって思います」(きい子)。

「踏まれても、踏まれても、立ち上がる花だから、本当に婦人部のことだ」。隣で利夫が微笑んだ。


 「震災前は、石巻で海岸から700メートルくらい入った平屋に住んでいました」。佐々木智恵(宮城・東松島市、地区副婦人部長)は3月11日、隣近所の人を車に乗せて高台に向かった。行けるところまで行って車を乗り捨て、あとは歩いて逃げた。

「山に野宿し、次の日は鹿妻小学校に泊まりました」。数日後、自宅に戻った。屋根まで浸水していた。両隣の家は壁が流され、柱ばかりが目についた。

 甚大な被害を受けた石巻(死者3280人、行方不明者557人。2月20日現在)。佐々木は東松島で借りたアパートから、石巻に通っている。学会員であるなしを問わず、消息を尋ね、声をかけて回る。友人が住む石巻市大橋の仮設住宅に行った時の様子が、聖教新聞に紹介されている。

 「ある日、友人の家を訪ねると、見覚えのある写真が額に収められていて、あれっと思った。友人が笑って答える。『きれいだよね、これ。智恵ちゃんからもらったの切り抜いて入れたっちゃ!』・・・・・殺風景な仮設住宅の部屋が、それだけで華やいだ雰囲気になる」(昨年11月5日付)

 友人は、佐々木が震災後に手渡した『グラフSGI(創価学会インターナショナル)』の1ページを切り抜き、額に入れて飾っていた。2008年に池田が撮影した、白に赤紫が映える洋ラン(デンドロビューム)の写真である。

 今も被災した知り合いが孤立したり、つながりが途切れたりしないように訪問し続ける日々だ。

「家族を助けられなかったと何度も悔やむ人がいる。子どもの思い出を何度も振り返る人がいる。元気づけたくても、思うように言葉が見つからない。いつも、もどかしさを感じる。だから、『この人は幸せになれる!いつか必ず!』と祈りを込めて、じっと耳を傾け続ける」(「聖教新聞」同)。

 被災した子どもに支援物資を送るNGO(非政府組織)も手伝い、玩具などを手渡した家庭はこれまでに100を超えた。