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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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                      写真がつなぐ絆 ①


 東日本大震災で甚大な被害を受けた学会の会館の一つが、宮城の気仙沼会館である。

 地震が起きた時、加賀利夫(気仙沼市、副本部長)は職場にいた。漁船のエンジンなどを修理する仕事である。揺れが尋常でなく、「みんな帰っぺ」と声をかけ合い自宅に急いだ。妻のきい子(同、婦人部副本部長)と一歳二ヶ月になる孫の大心を車に乗せた。

「高台に向かう道は渋滞していて、気仙沼会館の方向へ向かいました。会館の手前の十字路に車一台分のスペースが空いていて、なんとかすり抜けた。会館に入ってしばらくしたら、玄関のガラス越に黒い水が迫ってくるのが見えた。『こんで終わりだ』と思った」。

 「(会館は)海から500メートルしか離れていない・・・・・津波の勢いは止まらない。避難者は会館の二階へ。それでも水が迫ってくる。全員、須弥壇(しゅみだん)にまで上がった。振り向くと、水は足元すれすれで、かろうじて止まった」(「聖教新聞」2011年3月22付)

 「学会員が8人、近所の人は14人いました。大広間の畳みも全部、津波の水で浮かびました」(きい子)。2階の窓からは流されるバスが見えた。会館のアンテナの上に避難している男性がいた。

「脚立を使って助けたら、なんと気仙沼会館の増築を手がけた業者さんでした。相談して会館の天井を破り、断熱材を引っ張り出して、全員の体に巻きました」(利夫)。

 水が引き始めた。「とてつもない爆発音」が聞こえた。近くの重油タンクに引火し、大火災が発生していた。会館裏のコンビニエンスストアも焼けた。燃える木片がゆらゆらと会館に迫った。

「燃え移らないように必死で水をかけました」(利夫)。会館の壁には穴が開いていた。きい子は流れてきたペットボトルを取ってもらい、断熱材にくるんだ孫の大心に飲ませた。爆発と余震が続く。題目の声が朝方まで途切れることなく続いた。

 翌日午後、救援隊に22人全員が救助された。

「非難する時は、水やヘドロでスリッパが流されないように、その上からストッキングを履いて歩きました」(きい子)と振り返る。



 大沼は「被災した友人の家に物資を届けたり、救援活動で動き回るなかで、『この風景を撮ったら残るだろうな』と思ったが、苦しくてカメラを持てなかった」と震災直後を振り返る。


「桜が咲き始めて、もう一度写真が撮れるようになりました」。桜前線を追って、山口県から東北に向かった。昨年12月、東京の銀座で9度目の個展を開いた。タイトルは「それでも咲いていた 千年桜」。50枚ほどの写真展である。


 福島の相馬、南相馬、宮城の気仙沼、石巻、女川、東松島、岩手の宮古、大船渡、釜石、大槌・・・・・想像を絶する被災のなか、桜が春を告げる。


「どんな困難にあっても人々が立ち上がることができるように、これらの写真を100年後、千年後までも残そうと誓ったんです」。


 写真展の冒頭に、大沼は陸前高田の桜を選んだ。「どうしてもこの姿を残さねばならない」と思った一枚だ。──あたり一面に瓦礫が広がる。1本の桜がたっている。太い幹に、津波で流された数百個の養殖牡蠣が、筏やロープごと容赦なく巻き付いている。それでも咲き始めた桜を、夜明けの月が静かに照らしていた。

 「私が思うに、池田会長のポエムは口で詠まれた詩であり、写真は眼で詠まれた詩です」 「水中の鯉、木々や花の輝き、夕陽、月・・・・・これらの作品に写された『生きとし生けるものの鼓動』を通して私は、『永遠の生木命』へ昇り続けようとされる会長自身の姿を思い描いた」。20世紀を代表する美術史家ルネ・ユイグの言葉である。ユイグは、池田大作にとって海外初となる写真展をパリで主催。

「写真の選択をはじめ、額装の仕方などすべて、私が決めた」というほど精魂を傾けた。

 「1975年、パリ郊外の会館でお二人が対談された時です」。その場に居合わせたフランス在住のメンバーは語る。

「ユイグさんは語りました。『池田会長、あなたと話していると、まるで深い海まで潜り、海底の宝物や真珠を探し当て、地上まで運んでくる漁師の姿を想定させます』と」。必要とあらば海底にも潜り、目の前の人にふさわしい「何か」を探し出す。ユイグは池田にそうした人間像、指導者像を見ていた。二人の友情は後に、東京富士美術館の創立を彩った(本誌2011年8月号で詳述)。


 仙台に住む写真家、大沼英樹。人生が変わったきっかけは1996年(平成8年)、仙台で開かれた「自然との対話」展だったという。大沼はその3年前、24歳で入会していた。

「信心する前は、農業高校を卒業した、ただのバイク好きでした。どうすれば楽に生きていけるだろうとか、そんなことばかり考えていた」と笑う。学会員のプロ写真家と出会い、仏法を知った。助手として写真家修行もスタートした。

 「なんで学会の会館で写真展なんかやるんだろう」。不思議に思いながら「自然との対話」展に足を運んだ。

「当時は池田先生のこともよく知らなかった。写真の腕も少し上がってきて、『写真家は他の人と違う、ちょっと特別な存在なんだ』と思っていました」。

 池田の撮った風景写真は、どれも大沼にとって鮮烈だった。満月の組み写真の前で、一歩も動けなくなった。

「心に突き刺さりました。あの感動は言葉で説明できないです。心底、ああ俺は甘いなと感じました」。

 写真のそばに「微笑」

という詩が掲げられていた。

 「前進には 革命には 様々の圧迫がある 障魔が逆らう それを打開しゆくのが 青年の青年たるゆえんだ 冬に耐えた春の大地の 萌芽のごとくに」

 「青年よ いつまでも甘い考えを抱いていてはならぬ 現実は厳しい・・・・・・青年は 真剣に目的に進む時 最も尊く 最も気高い──されど決して微笑を忘れてはならぬ 常に快活であれ 中天の太陽のように」

 池田が21歳で書いた詩だ。

「その場で書き写しました」。今も大事に持っている。

「なぜ月は輝くのか。太陽に照らされているからですよね。俺も太陽のように人を元気にする写真を撮りたい、と思いました」。

 2年後に独立。「山形で農業を営む父からは『写真で腹くっつぐなんね(写真で腹一杯にはならない)』と愛情半分、心配半分の言葉をかけられました」。2002年から全国の桜を撮り始めた。初めて桜の写真集を出版したのは2010年。その1年後、東日本大震災が起こった。

 1971年(昭和46年)6月9日、函館の大沼研修所(現・函館研修道場)。執務に区切りをつけた池田大作は玄関に向かった。

「午後8時過ぎ、『ちょっと出よう』とおっしゃり、車で大沼湖畔を回られました」(大黒覚、北海道主事)。同研修所の職員だった石田耕造(副北海道長)。玄関での会話を覚えている。

「池田先生に『外が明るいね。あの光は何だろう』と尋ねられ、高間孝三さん(北海道総主事)が『函館の灯りだと思います』と答えておられました」。

 同じやりとりが道中も繰り返された。

「道路はうっそうとした木々に囲まれていましたが、たしかに山の向こうが明るかった。途中で車を降りた先生は、輝く湖の水面を眺めて『何の光だろう』と。そして再び車に乗り、少し走った時でした」(大黒)。その瞬間を池田自身が書き残している(「ニッコールクラブ」1971年秋季号)。

 「私はハッと息をのんだ。私たちを待っていたのは人工の光ではなく、あまりにも巨大にして優雅な天体であった。太陽ほどもあろうかと思われる堂々たるその存在に、それが月であることに、一瞬、気がつかなかった」。池田は大沼湖畔を一時間弱かけて回った。この夜に撮影した満月が、写真展「自然との対話」の淵源になった。


 「月の写真をこんなにたくさん撮っておられるとは驚きました」。「星の手帖社」の社長、安部昭は池田の写真集『月』をめくりながら語った。同社は天文教育の支援にも力を入れている。

「集中して月をお撮りになった時期があったとすれば、大きな心境の変化があった時や、体調を崩された時ではないでしょうか。フランス語では『太陽』は男性名詞、『月』『海』は女性名詞です。疲れた時は、月や海を見るほうが癒されるものです」。

 阿部は「月そのものの写真なら、三日月や繊月(細い月)が絵になります」とも語る。「満月は『盆のような月』という歌詞のとおり、のっぺりして表情が乏しい。しかし池田名誉会長の写真は三日月よりも満月が多い。『月そのもの』ではなく、木の枝や、緑の葉や、富士山など『月光に照らされる世界』を写そうとされたのかもしれませんね」。


 会長職という激務のなか、なぜ折々の風景を撮り始めたのか。「月と夕陽とカメラ」と題された池田のエッセーがある(「ジュノン」1974年2月号、主婦と生活社)。

 「元来、不器用な私にとって、カメラとの邂逅(かいこう)は、正式には昭和45年のことといってよい」──それは前年から起こった「言論・出版問題」で、池田が体調を崩した時期だった(単行本『民衆こそ王者』第一巻で詳述)。

 「少々、心身ともに疲れていた私に、激励を兼ねてであろう、ある人たちがカメラを贈ってくれた・・・・・『是非このカメラを使用して、何かを写してもらいたい』と」。

「しかし、半年も先まで日程が組まれている悲しい私には、自由な写真旅行とか、写真行脚とはいかない。そこで、会合等で、遠出をした場所を選んで、たまにファインダーをのぞくということを覚えたのである」(同)。

 そうして最初に選んだ被写体が「月」であり、「夕陽」だった。池田は「華やかな表舞台の人よりも、陰の人にこそ合掌する思いで、私は生きている。だから、月が撮りたかった」(1999年3月28日付「聖教新聞」)と回想している。次のような短文も綴っている。


 夕陽を浴びながら

   これから座談会に歩みゆく

 君の姿の荘厳にも似た

   尊い軌跡のために

 私は、この瞬間を写しとりたい


 まさに沈みゆかんとする

   太陽の彼方

 悩める民衆と語りゆく

   君の黄金の人生と活躍を

 私は、心して包みとりたい

 1973年(昭和48年)3月21日、「第一回九州青年部総会」が行われた(北九州市の新日鉄大谷体育館)。席上、池田は5つの「行動の規範」を示した。「正しき信仰を」「研鑽を重ねよ」「誠実に生きよ」「品格を磨け」「連持(持続)の人に」である。

 「私はアコーディオンの責任者でした」。九州鼓笛隊の副部長を務めた中田妙子(福岡市、支部副婦人部長)。

「総会の終了後、参加した鼓笛隊118人全員に、先生から満月の写真をいただきました」。中田が手にしたのは、重なり合う緑の葉の合間に丸い月が浮かぶ1枚である(1971年、池田が撮影)。

「東京の満月の写真をいただいた人もいました」。それらの写真には「皆が寝静まった後に苦労している人が多い。だから皆のところを、僕が月の光でそっと照らしてあげたい」という趣旨の伝言が添えられていた。

 「22歳でした。その後もたくさん激励をいただきましたが、あの月の写真がひときわ印象に残っています」と中田は語る。

「私たち学会員は、座談会などの行き帰り、月明かりの下で歩くことも多いんです。鼓笛隊は夜、一人で練習することもよくあります。『先生も同じ月をご覧になっているかもしれないね』などと話しながら、家路を急いだこともありました」。


 池田は様々な境遇の人に、自ら撮影したさまざまな写真を贈り続けてきた。家族を失った同志へ、「闇を照らす人に」という一言とともに満月の写真を贈ったこともある。多忙な会長は”励ましのための良い武器”を持たれた──そう評した写真かもいる(井上青龍)。

 幾百万の同志が営み続ける、生老病死のドラマ。池田の肉声が届かない所にも、足を運ぶことができない所にも、闇を照らすように写真が贈られた。

 岡山の中国学園大学で公衆栄養学の教授を務める森恵子(支部副婦人部長)。1972年(昭和47年)年末、夫の芳輝が29歳の若さで亡くなった。

「亡くなる三ヶ月前、闘病中の夫は、池田先生に広島の福山市の会合でお会いし、直接励ましていただきました」。芳輝は因島(尾道市)で家具屋を経営していた。27歳の専業主婦だった恵子。2歳と1歳の娘を抱え、岡山の実家に戻ることになった。

 「実家には未入会の父がいましたが、ちょうどその頃、両親と同居しながら女子部の最前線でがんばっていた妹に、池田先生から満月の写真が届いたのです」。妹の中川規子(兵庫、地区副婦人部長)。

「女子部の先輩からは『家族が大変な人にいただいたのよ』とうかがいました。まわりの同志の方々に励まされ、母の淑子にも支えられ、『大悪を(起)これば大善きたる』という日蓮大聖人の言葉を胸に学会活動に励みました」。

 恵子は「毎日皓々(こうこう)と光る月の写真を見ながら第二の人生をスタートしました。心が洗われるような写真でした。私自身も少し後に先生から月の写真をいただきました」と振り返る。管理栄養士の資格を生かして岡山県庁の職員に採用された。

 父の知章は「こんなことになったから皆、信心をやめるだろうと思っていたら、かえって一生懸命やりだした」と首をひねった。7年後の1979年(昭和54年)に入会した。

 「晩年の父は『辛いこともあったが、孫にも囲まれて今が一番幸せだ』と喜んでいました」と語る恵子。県庁職員から大学教員に。岡山県の栄養士会会長も努め、昨年は厚生労働大臣表彰を受けた。管理栄養士の育成や講習会など、多忙な日々を送っている。


 ある評論家から「写真は趣味か」と質問され、「写真は戦いです。二度と来ないこの一瞬を、永遠に留める。これは戦いです」と答えた池田。何を撮り、誰に贈ってきたのか。前号に続いて追った。