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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 政子は裕福な家に生まれ、青春時代は何不自由なかった。結婚後、太平洋戦争に翻弄された。夫の金吉は三菱重工に勤め、戦争終盤は熊本航空機製作所の副所長だった。約2万人が働いたといわれる巨大工場である。併設された青年学校の初代校長でもあった。

「父は特攻隊に出撃する卒業生のために食事を用意しました。まともなおかずもなく、『鯛』の絵を描いて食卓に置いたそうです。戦後、『若者たちに申し訳なかった』と涙をおさえながら話してくれました」。

 1945年(昭和20年)4月、和歌山に引っ越した。

「高野山の檜で木製の飛行機をつくるためだと聞かされ、着のみ着のままで軍用列車に乗りました」。敗戦後は生活が一変。芋の蔓(つる)を煮て食べ、かぼちゃの茎のトゲに悩まされた。

「よそ者に厳しい時期でした。父もすっかり元気をなくしました。母が、病弱たった私に食べさせようと近所の農家の方に土下座して、鶏のタマゴ1個恵んでもらった光景が忘れられません」。


 和歌山から上京した郁子は、日本女子大学を卒業し、光文社に勤めた。7年も続く厳しい労働争議に巻き込まれた。共に戦う仲間が次々と逮捕された。人生を変えた一つの転機は、国交正常化前の中国訪問だった。

「はつらつと働く女性たちに触れて『指導者の重要性』を痛感しました」。もう一つの転機は労働争議中の職場にあった。

「編集アルバイトをしている学生の何人かが、他の若者と明らかに雰囲気が違った」という。頼んだ仕事を必ず仕上げる。とことん調べてくる。愚痴を言わない。話してみると「創価学会の学生部です」という答えが返ってきた。

 郁子は誘われるままに青年部の会合に参加し、その場で入会を決意した。

「労働運動の闘士から、学会活動の闘志になったわけです」と笑う。1973年(昭和48年)の秋だった。

 学会に入って4年後、大きな会合で体験発表をした。信仰歴の古い先輩たちと一緒に活動に励む様子も原稿に入れた。

「数日後、婦人部の大先輩である多田時子さんから連絡がありました。池田先生からの伝言でした。『信心は年数じゃないよ。山田さんによろしくね』と。あの一言は本当にうれしかった」。

 信心は年数ではない──この一言を再び実感したのが、母・政子の入会だった。子育て、週刊誌のデスク業務、婦人部の活動・・・・・気づけば母と離れてくらすようになって30年近くが過ぎていた。仏法の話を聞いても首を縦に振らなかった政子だが、1982年(昭和57年)1月、帰省した17歳の孫(郁子の長男)の心の成長ぶりに感動して、自ら入会を求めた。病で倒れる8ヶ月前だった。


 「意識を取り戻した母は、医師が『すごい生命力のある方で見立てを誤りました』とおわびに来るほど回復しました」。季節は秋から冬になり、年を越した。心ゆくまで題目をあげ、娘とゆっくり語らう日々が続いた。ベットの脇には池田が撮った大村湾の写真が飾られていた。春を迎え、桜が咲き始める頃、政子は亡くなった。78歳だった。

「信心して1年と少しでしたが、最高の親孝行ができました」。

 8年後、郁子は念願だった自宅を新築し、地下を学会の個人会場にした。「山田栄光会館」と命名されてから、今年で22年を迎える。

 自然と対話する──1971年6月、池田が初めてレンズをむけたのは


 漆黒の湖の向こうに輝く満月だった。


 「苦労の人を そっと照らしてあげたい」


 奮闘する同志に、伝言を添えて


 自ら撮影した写真を贈ってきた池田。


 病室の窓辺で、被災地の仮設住宅で、


 飾られた一枚の写真は、希望の光となった。


 山田郁子(東京・新宿本陣区婦人部主事)が和歌山に住む母、政子の危篤を知らされたのは、1982年(昭和57年)の10月だった。

「私は『女性自身』という雑誌の編集者でした。仕事の段取りをつけ、新幹線と南海電鉄を乗り継いで病院に辿り着いた時は夜中でした」。入院当初の9月に医師から「もって1週間か2週間と思ってください」と告げられていた。

 「お母さん、郁子ですよ」と声をかけると政子の目から涙が流れた。3日目に医師が戻った政子は、開口一番、「池田先生が撮られた写真が見たい」と言った。郁子は目を丸くした。

「母は信心したばかりだったからです」。半信半疑で「先生のどの写真?」と尋ねた。「海の写真」と政子は答えた。

 郁子は実家に飛んで帰った。すぐ見つかった。

「東京で私がいただき、母に送った写真でした」。太陽に照らされた長崎の大村湾──5ヶ月前に池田大作が撮影したばかりの一枚だった。

「母は幼い頃から女学校まで、長崎で過ごしたのです」。

 「自然との対話」展で展示される作品は、すべて風景写真である。「『人間は撮らないのか』という問いには、『人の心は変わるが、自然は変わらないから』と答える場合もある」(『池田大作全集』126巻)

 

「語る人物少なきとき、わが心淋しきものあり」。会長就任直前の日記である(1960年2月28日)。こう続いている。


「新宿御苑の百花爛漫──わが家の、夜店で買いし木花の百花爛漫──いずれが、わが心の芸術なりや。大自然との対話なりや」。


 池田が本格的に風景写真に取り組み始めたのは1971年(昭和46年)。テーマは「月」だった。

 「ともあれ昼は太陽と共に謳いながら 生命を燃やそう 夜は静かな月光の道で 友の休むのを待って 自分という人間を考えよう」


 「日が昇る 月が静かに光る 君よ決して懊悩の自身に負けず 自己の城門を大きく開いて 別世界と交流したまえ」(『若き友へ贈る』)

 

この言葉に秘められた背景を、さらに探りたい。

 台湾に初めて学会の支部(台北支部)が誕生した時、台湾全土には戒厳令が敷かれていた(1962年)。

 翌年の1月、池田は東南アジアを歴訪。香港から帰国する際、東京への直行便が欠航したため、台北経由の便に乗った。突然の変更にもかかわらず、松山空港に50人ほどのメンバーが集まった。

 台北支部長の朱萬里は、空港のフェンス越しに池田を見つけた。気づいた池田は金網に手を突っ込んだ。指が2本ほど入った。朱はその指を握った。空港の係官に頼み込み、ロビーに集まった全員が池田に会えた。

 池田は松山空港で「何があっても、どんなに辛くとも、台湾の人々の幸福のために、絶対に仏法の火を消してはならない。本当の勝負は30年、40年先です。最後は必ず勝ちます」と語った。

「あのわずかな時間に、先生は『冬必為春(冬は必ず春となる)』と励ましてくださった」(林釗 台湾SGI理事長)。その直後の4月、台湾当局から台北支部に対して解散が命じられた。「長い冬」が始まった。


 一切の会合が禁止された。当局は「個人の信教の自由は守る」という建前だった。しかし幹部たちは次々と警備総司令部の取調べを受けた。学会員であることが職場でわかると、左遷されることもあった。御書(日蓮の遺文集)や御本尊まで没収されたメンバーもいる。

 台湾SGI理事長の林釗は、何度も警備総司令部の尋問を受け、「私は池田の弟子ではない」と書かれた誓約書に署名するよう迫られた。「命に代えても拒否を貫いた」と語る。

「『それなら文化運動で社会に貢献しようじゃないか』と知恵を絞りました」。34人で始めたハーモニーカの楽団に、「ケイコウハーモニカ隊」と名付けた(65年)。婦人部の白鳥合唱団(68年)、女子部の天使鼓笛隊(70年)も結成された。

 「20年間で32回も出頭を求められた婦人部員もいます」(チンシンシン、台湾SGI総合婦人部長)。朱萬里妻・秀鳳は当局に呼び出された時、担当官から「この宗教さえやめれば、それですむじゃないか」と諭された。「いい宗教がどうかは、実践しないとわからないではないですか」と言い返した。「家に戻ってから、足がガクガク震えましたよ」と振り返る。

 時間を決めた会合は開けない。秀鳳は自宅の地下室を解放し、メンバーがいつでもこれるようにした。クッキーを焼き、お茶を用意した。

「お菓子を食べながらの井戸端会議を、当局も咎めることはありませんでした」(秀鳳)。

 「やっと海外への渡航許可が出て、日本で先生に会ったのは1979年の夏です。第三代会長を辞任されたわずか4ヶ月後でした」(林釗)。その時、池田は池田は林を「最も苦難に満ちた場所で、最も苦しい思いをしながら戦い抜いた人こそ真の人材だ」と励ましている。池田は台湾の同志に、数えきれないほどの伝言や手紙を送り続けた。朱夫妻の自宅に、池田から一メートル半の巻紙が届いたこともある。

 「御金言を身を以って実践した信心は、学会員の亀鏡(ききょう)であり、熱原の三烈士を偲ばせます」「創価学会草創期に於いて軍部の弾圧に屈することなく、今日の発展の基盤をつくったのと同じ方程式であり、台湾に正法が流布する瑞相です」

 1987年(昭和62年)、戒厳令が解除された。台湾SGIが法人を取得したのは、その3年後である。じつに27ぶりの”春”だった。


 「私は撮ったよ」という池田の伝言から2ヵ月後(1997年8月)、台北と並ぶ大都市の高雄で、2度目の「自然との対話」展が始まった(市立中正文化センター)。

 入り口の一番近く──「台湾上空」と題された、あの機中から撮られた写真が、大きく引き伸ばしてあった。二重、三重の人だかりができた。

「台湾SGIの草創期を支えた人々が連日、バスでやってきて、あの写真の前から動かないんです。号泣している人もいた。あんな感動的な場面は、その後も見たことがありません」(加倉井)。「そんなに泣いたら写真が見えないですよ」と声をかけたかったと言う加倉井も、胸を熱くしながら取材を続けた。

 台湾では内政部が「社会優良団体賞」を発表する。台湾SGIは16回連続で同賞を受賞した。審査対象となる約9000団体の中で、16回連続の受賞を果たしたのは台湾SGIのみである。


 池田の写真展はこれまで、海外では40カ国・地域、138都市で行われてきた。サンパウロ美術館(ブラジル)、キュンストラーハウス(オーストリア芸術家協会)や、グアナファト大学(メキシコ)、モスクワ大学(ロシア)など、その国を代表する美術館や大学が会場である。スウェーデン、中国、ブルガリア、トルコ、カナダ、バラグアイ、チリ、ペルー、ドミニカ、パナマ、モンゴル、ハンガリーなども国立施設での開催だった。本年はアルメニアで初めて行われる予定である。

 2003年(平成15年)には、タイの三都市四会場で開催。合計15万人が鑑賞した。その会場の一つが、椰子の木の茂る海沿いに立つ、国立ブラバー大学だった。同大での展示だけで1万5000通に及ぶアンケートが寄せられた。

 「その中の一通が忘れられない」とカズヒコ・バンノ(タイ創価学会副議長)は振り返る。

「毎日やって来る一人の女子学生がいました」会場で役員をしていたランチャナー・ブンサップ(タイ東総合本部、女子部総合本部長)。

「何日も通った彼女から、感想を書いた紙を手渡されました」。その紙には写真を撮った池田への感謝が綴られていた。

 「写真を見て、これほどまでに深い愛情をもった人がいるのかと感動しました。今まで私は絶望の淵にいました。死ぬことばかり考えていました。しかし、もう一度生きようと思いました。この写真に出あって、生きる希望がわいてきました」

 バンノは「彼女は、先生が撮った赤い夕陽の写真や、湖畔の写真の前で立ち止まっていたようです。自殺の淵から立ち直ってくれてよかった。あの時、あの一人のために、写真展をやった価値があったと思います」と語る。


 台湾で初めて「自然との対話」展が行われたのは、1997年(平成9年)の6月だった(台北の国父記念館)。台湾の当時の三大日刊紙が報道し、テレビでも紹介され、6日間で鑑賞した市民は三万人を超えた。

 聖教新聞の特派員だった加倉井恵一は、アンケートの中から「素晴らしい写真展だったが、台湾を写した写真がなくて残念でした」という声を見つけた。こればかりは仕方ない、と加倉井は思った。

「昭和38年の1月、池田先生を乗せた飛行機が台湾を経由しました。台湾の地を踏んだのは、その1回のみ。その時の写真を撮られたという記録は、もちろんありません」。

 アンケートの声を知った池田は、すぐさま台北に伝言を届けた。それは思いもよらない内容だった。

「私は台湾の写真を撮ったよ。台湾の皆さんの幸せを願って、シャッターを押したよ」。

 どういうことだ──加倉井たちは頭を抱えた。しかし「撮ったよ」と断言する以上、必ず何かあるはずだ・・・・「半信半疑で、本社の写真資料部に電話し、事情を説明しました」。

 「可能性があるのは、これらの写真ですね。台湾かどうか、現地の方に確かめてもらってください」。本社の生越友子(新宿区、婦人部副本部長)が探し出した。台湾の初代理事長を務めた朱萬里をはじめ、草創の幹部たちは、東京から電送されてきた数枚の写真を見て声を詰まらせた。目を赤くする婦人もいた。白い綿雲の下に、見慣れた青い山河が、町々が、くっきりと写っている──まぎれもない台湾の天地だった。

 「1995年(平成7年)11月17日、香港から日本への帰路に撮られた写真でした。機上から、『ここが台湾だ』と意識して、台湾の同志のために撮影されていたのです」(加倉井)。画面の左下に飛行機の窓縁が写り込んでいる。台湾の誰も想像していなかった。展示写真を選んだスタッフの念頭にも浮かばなかった。撮った池田だけが覚えていた。