台湾に初めて学会の支部(台北支部)が誕生した時、台湾全土には戒厳令が敷かれていた(1962年)。
翌年の1月、池田は東南アジアを歴訪。香港から帰国する際、東京への直行便が欠航したため、台北経由の便に乗った。突然の変更にもかかわらず、松山空港に50人ほどのメンバーが集まった。
台北支部長の朱萬里は、空港のフェンス越しに池田を見つけた。気づいた池田は金網に手を突っ込んだ。指が2本ほど入った。朱はその指を握った。空港の係官に頼み込み、ロビーに集まった全員が池田に会えた。
池田は松山空港で「何があっても、どんなに辛くとも、台湾の人々の幸福のために、絶対に仏法の火を消してはならない。本当の勝負は30年、40年先です。最後は必ず勝ちます」と語った。
「あのわずかな時間に、先生は『冬必為春(冬は必ず春となる)』と励ましてくださった」(林釗 台湾SGI理事長)。その直後の4月、台湾当局から台北支部に対して解散が命じられた。「長い冬」が始まった。
一切の会合が禁止された。当局は「個人の信教の自由は守る」という建前だった。しかし幹部たちは次々と警備総司令部の取調べを受けた。学会員であることが職場でわかると、左遷されることもあった。御書(日蓮の遺文集)や御本尊まで没収されたメンバーもいる。
台湾SGI理事長の林釗は、何度も警備総司令部の尋問を受け、「私は池田の弟子ではない」と書かれた誓約書に署名するよう迫られた。「命に代えても拒否を貫いた」と語る。
「『それなら文化運動で社会に貢献しようじゃないか』と知恵を絞りました」。34人で始めたハーモニーカの楽団に、「ケイコウハーモニカ隊」と名付けた(65年)。婦人部の白鳥合唱団(68年)、女子部の天使鼓笛隊(70年)も結成された。
「20年間で32回も出頭を求められた婦人部員もいます」(チンシンシン、台湾SGI総合婦人部長)。朱萬里妻・秀鳳は当局に呼び出された時、担当官から「この宗教さえやめれば、それですむじゃないか」と諭された。「いい宗教がどうかは、実践しないとわからないではないですか」と言い返した。「家に戻ってから、足がガクガク震えましたよ」と振り返る。
時間を決めた会合は開けない。秀鳳は自宅の地下室を解放し、メンバーがいつでもこれるようにした。クッキーを焼き、お茶を用意した。
「お菓子を食べながらの井戸端会議を、当局も咎めることはありませんでした」(秀鳳)。
「やっと海外への渡航許可が出て、日本で先生に会ったのは1979年の夏です。第三代会長を辞任されたわずか4ヶ月後でした」(林釗)。その時、池田は池田は林を「最も苦難に満ちた場所で、最も苦しい思いをしながら戦い抜いた人こそ真の人材だ」と励ましている。池田は台湾の同志に、数えきれないほどの伝言や手紙を送り続けた。朱夫妻の自宅に、池田から一メートル半の巻紙が届いたこともある。
「御金言を身を以って実践した信心は、学会員の亀鏡(ききょう)であり、熱原の三烈士を偲ばせます」「創価学会草創期に於いて軍部の弾圧に屈することなく、今日の発展の基盤をつくったのと同じ方程式であり、台湾に正法が流布する瑞相です」
1987年(昭和62年)、戒厳令が解除された。台湾SGIが法人を取得したのは、その3年後である。じつに27ぶりの”春”だった。
「私は撮ったよ」という池田の伝言から2ヵ月後(1997年8月)、台北と並ぶ大都市の高雄で、2度目の「自然との対話」展が始まった(市立中正文化センター)。
入り口の一番近く──「台湾上空」と題された、あの機中から撮られた写真が、大きく引き伸ばしてあった。二重、三重の人だかりができた。
「台湾SGIの草創期を支えた人々が連日、バスでやってきて、あの写真の前から動かないんです。号泣している人もいた。あんな感動的な場面は、その後も見たことがありません」(加倉井)。「そんなに泣いたら写真が見えないですよ」と声をかけたかったと言う加倉井も、胸を熱くしながら取材を続けた。
台湾では内政部が「社会優良団体賞」を発表する。台湾SGIは16回連続で同賞を受賞した。審査対象となる約9000団体の中で、16回連続の受賞を果たしたのは台湾SGIのみである。