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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「日本の優れた写真家が50カ国で撮った、180枚の風景写真が展示されている」──デジタルカメラの愛好者たちが集まるインターネットのサイトでも話題になり、感想の書き込みが相次いだ。

「今日はモスクワに出張。昼間で仕事が片付いたので中央芸術家会館に行ってみた」

「目にしたものは、言葉では到底表現できない!出口で思わす感想を書いた。まだ間に合いますよ」。

 噂を知ってシベリアから訪れた人もいた。来館者は3万人を超えた。ロシア語や英語で書かれたアンケートが、そのまま保管されている。仏法を知らす、「ダイサク・イケダ」が誰なのかもよくわからず、写真展に訪れた人々の声である。


 「写真展に来たのは偶然でしたが、来てよかった・・・・・この写真は、時間に追われる生活の中から、自然と平和、静寂を引き出して編あげた織物です。これらの写真を撮られた方の幸せを祈ります」(アレクセイ・フィラートフ)。「まわりがすべて灰色に覆われる11月のモスクワで、大変さわやかな気分になりました」(ジュラブリョーワ・アナスタシヤ、大学院生)。「ありがとう、ありがとう、ありがとう」(モスクワ、3人の年金生活者より)。


 「今年で三度目です」(ビクトル、画家)「どうかご長寿であられますように」(マスコラワ・V・O、元中学校長)。「ぼくは10歳です。あなたと同じように写真を撮るのが好きです。水中の写真は撮らないの?(父が代筆しました)」(ニコライ・キターエフ=スムイク)。「月の写真が一番気に入りました。世界は美しいのですね」(マーシャ)。


 「同館のオーナーでもあるファトクーリンさんが、『見に来た人がこんなに元気になって帰っていく写真展は今までなかった』と興奮するほどの反響でした」(道口)。翌07年には、聖教新聞に連載された池田の写真紀行(「地球は美しい」と「光は詩(うた)う」)のロシア語版『桜花点々』が出版された。

 「こんな素敵な写真を撮る人だとは想像していなかった」。ロシア芸術家同盟総裁のバレンチン・シードロフは、その写真の前に立ち尽くし、しばらく動かなかった。ロシアを代表する画家でもある。造形芸術で名高いマスート・ファトクーリンと、興奮して語り合っている。2005年(平成17年)10月31日、創価世界女性会館(東京・信濃町)。二人が目にしたのは、池田が撮影した「ウィンザーの道」と呼ばれる1枚だった。(1991年6月27日撮影)。縦2・4メートル、横5・1メートルに引き伸ばされたこの写真は、今も同会館ロビーで来館者たちを迎える。

 イギリスの古城・ウィンザー城。テムズ川を見下ろす丘の上に立つ。その南側の城門から撮られたこの写真は池田の代表作の一つだ。「ロング・ウォーク」と呼ばれる約5キロの道が画面の半分を占める。プラタナスや芝生の緑を割るように、地平線までまっすぐ、なだらかに道が伸びていく。


 案内役だったSGI(創価学会インターナショナル)公認通訳の道口幸恵。

「いくら他の展示物を説明しようとしても、15分ほど写真の前で立ち止まったままでした」と振り返る。

「見る人が見ないとわからないかもしれないが、これは素晴らしい写真だ」「引き伸ばすと鑑賞に堪えられなくなる風景写真が多いが、彼の作品は引き伸ばすほど作品の世界が大きくなる」。2日後、シードロフとファトクーリンは池田と会い、「モスクワであなたの写真展を開催したい」と強く要望。翌年の11月、「日露国交回復50周年」を祝賀する企画として実現することになる。

 会場はモスクワ川を挟み、クレムリンの対岸に立つ中央芸術家会館。年間100万人が訪れる。モスクワ最大規模の美術ギャラリーである。

「SGI会長 池田大作写真展──わが宇宙」というタイトルはロシア側が考えた。

「当初の開催期間は12日間でしたが、ファトクーリンさんからの要望で10日間、延長されました」(大内英二、創価学会国際渉外部担当部長)。

 オープニングに出席した文化マスコミ大臣のアレクサンドル・ソコロフ。世界有数の音楽学校、国立モスクワ音楽院の学長を務めた音楽理論の専門家でもある。開会前、池田の写真をくまなく見て回った。

「長身のソコロフさんが、まるで写真と話し合っているようでした」(エミコ・シミズ、ロシアSGI副女子部長)。さらに池田から寄せられたメッセージを聞いたソコロフは、式典の最中、用意してきた自分のスピーチ原稿を丸めてしまった。

 その場にいた道口は驚いた。

「ソロコフさんは挨拶の冒頭、『心に染み入るメッセージの後では、何を語っても月並みなものとなってしまいます』と前置きして、見たばかりの写真展の感想を熱心に語られました」。

 「巨大組織を率いる指導者の孤独を撮りたい、という思いもあった」。そう立木は語る。『大いなる太陽』の巻末に収められたインタビューでは、指導者としての池田の葛藤を聞き出している。ワシントンでの会合を振り返り、立木は「(感動する大群衆の)渦の中にいらっしゃる会長を見ていて、『大変だなあ』と感じました。会長ご自身にしてみれば、大変ではすまないことなのでしょうが」と言った。

 池田は「みなが歓喜していれば私もうれしいし、みなが悲しかったら一緒に泣きたい。心でそれはあっても、しかししかし多くの場合、不可能です」。そしてこう語った。

 「自分でいうのもどうでしょうか・・・・・私は常に次の一歩考えなければならない宿命的な立場にいます」「感傷は往々にしてその場だけのものともなりますし、歓喜は永くもっていてこそ、人生に歓喜の日々をつくり出していくのですから」


 同じ観点から池田の葛藤を描いたジャーナリストに草柳大蔵がいる。昭和40年代、草柳は池田に同行取材した。なぜこれほど多くの若者の信頼を集めるのか。それが取材理由の一つだった。1967年(昭和42年)の夏、仙台。池田と学会員の記念撮影が行われた。その一コマを、草柳は複数の雑誌に書き残している。

 「ひとりの女子高校生が時間におくれて駆け込んできた。白いセーラー服が背中にぴったりくっつくほど汗をかき、荒々しい息をついている」(『文藝春秋』69年9月号)。

「少女は、がらんとした会場に入ると、撮影の終わったことを知って、肩をふるわして泣いた。学校の行事が重なって時間に間に合わなかったという」(『時』68年12月号)。

 会場を出る前に彼女を見つけた池田は「泣くんじゃないよ、おかしいよ」と握手し、「よく勉強して創価大学にくるんだよ」と励ました。少女はさらに号泣した。「さあ、行こうか」とスタッフに語り、後ろも振り返らず歩き出した。


 草柳にとって、その去り際の印象が強烈だった。

「少女の心情を思えば、あまりに素っ気ない態度に映った」という草柳は、その夜、「あなたは少女の涙をどう思うのです?」と問う。池田は「さっきは、私だって心の中で泣いていましたよ」「しかし、私はあの場で泣くわけにはゆかないんです」と答えた。そして、自分が何を背負って生きているのか、丁寧に説明した。

 「あの子の汗びっしょりの顔を見て、私も泣けてならなかった。が、あそこで私が泣いたら、まわりの人がみんな泣いてしまう。そうすると、創価学会は情意的(エモーショナル)な団体だということになってしまう。感情の団体というラベルが貼られてしまう。だから私は我慢したんです。つらかったですよ」「真実はそうではなくても、世間にはそうとられます、私は哀愁をつくれないんです」(前掲『時』)

 「それから彼(=池田)は『日蓮は泣かねども涙ひまなし、という言葉があるんです』と、ポツンとつけ加えた」(前掲『文藝春秋』)。さらに草柳は、日蓮の言葉をこう読み解いている。

「私は人間の優しさをいい当てた言葉だと思う。優という字は、ニンベンに憂うと書く。人が人を憂える、他人の痛みや悲しみを自分のものと感じる能力である」(前掲『時』)。


 組織を率いる者として、自らの喜びも苦悩も軽々に他人に見せない池田。しかし、ひとたびカメラを手にすると、何の気兼ねもなく、ストレートに自身を被写体にぶつけてきた。

 池田の写真集を一枚ずつめくりながら、日本を代表する写真家の白川議員は「おこがましい言い方になりますが、池田会長が撮影した写真は実に素直です。それが一番素敵なところだと思う」と語る。「写真がうまくなると皆、構図やピントの位置にこだわる。プロでも素人でも、誰かに見せることを意識すると、どうしてもいやらしさが出るものですが、そういういやらしさが全然ない」。

 さらに「広がりがある」とも評する。

「写真のもつ広がりは、撮る人の心の広さに関係する。広がりがあると希望が生じる。理想を感じさせ、人間を安堵させる。池田会長にはそういう写真が多い」。

 「何年か前、東京の港区で『自然との対話──池田大作写真展』を拝見しました。まずタイトルが素晴らしい。『自然はただのモノではない』という思いが伝わりました。人間の精神をつくった根本が自然なのだから、我々が自然から何を受け取るかが勝負です」

 ファインダーを通して、写真家は池田のどんな姿に注目したのか。

 1974年(昭和49年)の3月から4月にかけて、池田は北米、中南米を訪問した。その38日間に同行した写真家が立木義浩である。日本の写真界をリードし続ける一人だ。

 74年9月に『太陽の詩』(潮出版社)を発刊した立木は、翌75年1月のアメリカ訪問、同年5月のヨーロッパ・ソ連訪問にも同行し、『大いなる太陽』『太陽との出会い』を発刊した。写真とともに立木によるエッセーも収録された。池田の折々のふるまいを軽妙にすくいとっている。

 たとえば──「ああ、やっぱり海はきれいだ」。そう言って、マリブの海岸に佇んでいた池田が靴のままザブザブと海に入っていく。

「あとで考えれば、この時、自分も海に入らなければならなかった」と立木は振り返る。(『太陽の詩』の解説文より)。

「相手が膝まで入ったら、自分は腹まで入るのがカメラマンの務め」だからだ。「この時、痛切に感じたことは池田会長という人は、なにとでも語り合える人なんだ──ということだった。だから、どんなことにでも興味を示される。こんなに自然に溶け込み、波と語れる人を、他に知らない」。

 今回、池田を被写体にした作品のなかから、組写真を選んでもらった。一枚は、ローロッパを代表する文化人アンドレ・マルローとの対話。緊張感がみなぎる。もう一枚は同志の一家との懇談。くつろいだ雰囲気である。

 「知の巨人マルローから一人の無名の子どもまで、とにかく出会った人の数が多いでしょう。その幅の広さがあらわれた写真だと思う」「池田会長はとにかく人をよく気遣う。人を接する達人だよ。そして常に何かを表現しようとしていた」


 いま立木は「写真甲子園」の審査委員長を務めている。

「私たちの時代は、土門拳や木村伊兵衛の写真を通してこの世界に入った。今は携帯電話一つで、写真のほうからどんどん生活の中に入ってきている。間違いなく写真に対する感覚が変化していると思う」。

 昨年5月、東日本大震災で被災した宮城の気仙沼や石巻など、六つの高校に自ら足を運び、写真部員たちを励ました。

「キャノンや北海道・東川町の協力を得て、カメラをはじめパソコンやプリンターも手渡してきました」。

 阪神・淡路大震災の時、「すべて失った。せめて家族のアルバムがほしい」という声を聞き、「写真の力ってすごいんだなとあらためて教わった」という。

「被災地の子たちは、今は辛くて撮れないかもしれない。しかし、よそから来た人じゃなくて、地元の高校生の手で、ふるさとの風景を記録してほしい。そう願っています」。

 白川が命がけで撮ったアルプスの写真を絶賛した歴史家トインビー。1975年(昭和50年)に池田との対談集『二十一世紀への対話』(邦題)を発刊し、これまで28言語で出版された。イギリスのロンドンで行われた二人の対話は72年(同47年)と73年の2度、合計40時間に及んだ。その両方取材した写真家がいる。人物写真の第一人者として知られる齋藤康一である。

 池田をロンドンの自宅に招き、白熱した対談を続けるトインビー。齋藤は、碩学のもっといろいろな表情を残したいと思い、トインビー宅を退出する際、愛用のライカの”置き忘れ”をしてきた。

 忘れ物を取りに戻った齋藤を、トインビーは笑顔で招き入れた。「『書斎を撮らせていただけますか』とか『今度は暖炉の前に』といろいろお願いして、快く応じていただき、おかげで後日に残せる写真が撮れました」。こうして”二十一世紀最大の歴史家”の素顔が、より多くの人に知られるようになった。

 トインビーとの二度目の対談を終え、ロンドンからパリに飛んだ池田は、フランス代表者会議の後、田園風景が美しいロワールで現地の青年部員たちと懇談している(73年5月23日)。

 宿舎のバルコニーから、広大な草原と森が見えた。齋藤も同行していた。

「見事な夕陽でした。カメラを構えたけれども、どうしても邪魔な建造物があった。『形が決まりませんね』というようなことを池田会長とお話ししました」。

 夕食が終わって、写真談義の最中、二人とも生家が東京の大森駅をはさんだ地域だとわかった。池田は宿舎の便箋に地図を描きはじめた。

「大森周辺の詳しい地図です。京浜急行や省線(現在のJR)の路線図。それに六郷川や平和島の地名を次々と書き込まれ、話がすごく盛り上がって夜遅くなってしまい、会長の奥様に呆れられてしまいました」と笑う。二階の広々とした踊り場のテーブルセットで夢中になって語り込む二人を見つけた香峰子は「まあ、まだ話していたのですか。そろそろ時間ですよ」と目を丸くした。


 「池田会長ご夫妻のお宅でのツーショットを、一般誌に載せたのは、ぼくが初めてだったかもしれません」。齋藤はグレーのあごひげに手をやりながら、にこやかに語る。

「昭和43年2月、大雪の日に訪れた偶然の機会から、私は池田会長を一年半にわたって撮りつづけることになった」(『写真 池田大作を追う』講談社)。香峰子が池田に傘を差しかざす思いがけないシーンを、その雪の日に撮影した。

 池田を撮り始める3年ほど前、29歳の齋藤は若手芸術家の代表として、中国への交流団に参加している。

「まだ日本との国交はなく、両国の仲がいいとは到底いえない時代です。広州を振り出しに46日間で約10都市を回ったのですが、『創価学会はどんな団体ですか』『生活にどれくらい溶け込んでいるのですか』と熱心に尋ねられることが3度もあった。あれには驚きました」。すでに総理の周恩来が創価学会に関心を寄せていた時期だったのだろう。

 齋藤は不思議に思った。どんな団体なのか。リーダーはいったいどんな人物なのか──この体験が後の同行取材の淵源になった。アジア、ヨーロッパ、北南米も含め、足かけ20年にわたり池田の行動を追った。

 最初の写真集『写真 池田大作を追う』のあとがきに「追えば追うほど、池田大作という『人間』は巨(おお)きくなる」「まるで富士山のように、1枚や2枚の写真では、とらえつくせない対象だった」と書いた齋藤。

「あの時の感想は、今も変わらないですね」と語った。