ファインダーを通して、写真家は池田のどんな姿に注目したのか。
1974年(昭和49年)の3月から4月にかけて、池田は北米、中南米を訪問した。その38日間に同行した写真家が立木義浩である。日本の写真界をリードし続ける一人だ。
74年9月に『太陽の詩』(潮出版社)を発刊した立木は、翌75年1月のアメリカ訪問、同年5月のヨーロッパ・ソ連訪問にも同行し、『大いなる太陽』『太陽との出会い』を発刊した。写真とともに立木によるエッセーも収録された。池田の折々のふるまいを軽妙にすくいとっている。
たとえば──「ああ、やっぱり海はきれいだ」。そう言って、マリブの海岸に佇んでいた池田が靴のままザブザブと海に入っていく。
「あとで考えれば、この時、自分も海に入らなければならなかった」と立木は振り返る。(『太陽の詩』の解説文より)。
「相手が膝まで入ったら、自分は腹まで入るのがカメラマンの務め」だからだ。「この時、痛切に感じたことは池田会長という人は、なにとでも語り合える人なんだ──ということだった。だから、どんなことにでも興味を示される。こんなに自然に溶け込み、波と語れる人を、他に知らない」。
今回、池田を被写体にした作品のなかから、組写真を選んでもらった。一枚は、ローロッパを代表する文化人アンドレ・マルローとの対話。緊張感がみなぎる。もう一枚は同志の一家との懇談。くつろいだ雰囲気である。
「知の巨人マルローから一人の無名の子どもまで、とにかく出会った人の数が多いでしょう。その幅の広さがあらわれた写真だと思う」「池田会長はとにかく人をよく気遣う。人を接する達人だよ。そして常に何かを表現しようとしていた」
いま立木は「写真甲子園」の審査委員長を務めている。
「私たちの時代は、土門拳や木村伊兵衛の写真を通してこの世界に入った。今は携帯電話一つで、写真のほうからどんどん生活の中に入ってきている。間違いなく写真に対する感覚が変化していると思う」。
昨年5月、東日本大震災で被災した宮城の気仙沼や石巻など、六つの高校に自ら足を運び、写真部員たちを励ました。
「キャノンや北海道・東川町の協力を得て、カメラをはじめパソコンやプリンターも手渡してきました」。
阪神・淡路大震災の時、「すべて失った。せめて家族のアルバムがほしい」という声を聞き、「写真の力ってすごいんだなとあらためて教わった」という。
「被災地の子たちは、今は辛くて撮れないかもしれない。しかし、よそから来た人じゃなくて、地元の高校生の手で、ふるさとの風景を記録してほしい。そう願っています」。