写真ー人生を照らす光   雪の日の出会い | EIKOの気まぐれ闘病日記

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 白川が命がけで撮ったアルプスの写真を絶賛した歴史家トインビー。1975年(昭和50年)に池田との対談集『二十一世紀への対話』(邦題)を発刊し、これまで28言語で出版された。イギリスのロンドンで行われた二人の対話は72年(同47年)と73年の2度、合計40時間に及んだ。その両方取材した写真家がいる。人物写真の第一人者として知られる齋藤康一である。

 池田をロンドンの自宅に招き、白熱した対談を続けるトインビー。齋藤は、碩学のもっといろいろな表情を残したいと思い、トインビー宅を退出する際、愛用のライカの”置き忘れ”をしてきた。

 忘れ物を取りに戻った齋藤を、トインビーは笑顔で招き入れた。「『書斎を撮らせていただけますか』とか『今度は暖炉の前に』といろいろお願いして、快く応じていただき、おかげで後日に残せる写真が撮れました」。こうして”二十一世紀最大の歴史家”の素顔が、より多くの人に知られるようになった。

 トインビーとの二度目の対談を終え、ロンドンからパリに飛んだ池田は、フランス代表者会議の後、田園風景が美しいロワールで現地の青年部員たちと懇談している(73年5月23日)。

 宿舎のバルコニーから、広大な草原と森が見えた。齋藤も同行していた。

「見事な夕陽でした。カメラを構えたけれども、どうしても邪魔な建造物があった。『形が決まりませんね』というようなことを池田会長とお話ししました」。

 夕食が終わって、写真談義の最中、二人とも生家が東京の大森駅をはさんだ地域だとわかった。池田は宿舎の便箋に地図を描きはじめた。

「大森周辺の詳しい地図です。京浜急行や省線(現在のJR)の路線図。それに六郷川や平和島の地名を次々と書き込まれ、話がすごく盛り上がって夜遅くなってしまい、会長の奥様に呆れられてしまいました」と笑う。二階の広々とした踊り場のテーブルセットで夢中になって語り込む二人を見つけた香峰子は「まあ、まだ話していたのですか。そろそろ時間ですよ」と目を丸くした。


 「池田会長ご夫妻のお宅でのツーショットを、一般誌に載せたのは、ぼくが初めてだったかもしれません」。齋藤はグレーのあごひげに手をやりながら、にこやかに語る。

「昭和43年2月、大雪の日に訪れた偶然の機会から、私は池田会長を一年半にわたって撮りつづけることになった」(『写真 池田大作を追う』講談社)。香峰子が池田に傘を差しかざす思いがけないシーンを、その雪の日に撮影した。

 池田を撮り始める3年ほど前、29歳の齋藤は若手芸術家の代表として、中国への交流団に参加している。

「まだ日本との国交はなく、両国の仲がいいとは到底いえない時代です。広州を振り出しに46日間で約10都市を回ったのですが、『創価学会はどんな団体ですか』『生活にどれくらい溶け込んでいるのですか』と熱心に尋ねられることが3度もあった。あれには驚きました」。すでに総理の周恩来が創価学会に関心を寄せていた時期だったのだろう。

 齋藤は不思議に思った。どんな団体なのか。リーダーはいったいどんな人物なのか──この体験が後の同行取材の淵源になった。アジア、ヨーロッパ、北南米も含め、足かけ20年にわたり池田の行動を追った。

 最初の写真集『写真 池田大作を追う』のあとがきに「追えば追うほど、池田大作という『人間』は巨(おお)きくなる」「まるで富士山のように、1枚や2枚の写真では、とらえつくせない対象だった」と書いた齋藤。

「あの時の感想は、今も変わらないですね」と語った。