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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「心を打たれたので紹介したい」。こう前置きした池田が、関西創価小学校の児童の前で、一人の写真家生き方を話したことがある。(1997年7月)。『ヒマラヤ』『世界百名山』『世界百名瀑』など数々の名作で知られる白川義員である。1981年(昭和56年)には全米写真家協会の「最高写真家賞」を受賞した。

 「白川氏は、壮大なスケールで、”本物の仕事”を続けておられる人です」。池田はその一端を紹介した。ヒマラヤは4年、アメリカ大陸は3年、南極大陸は支援を依頼する交渉が20年、撮影3年。

「飛行機を使っての取材は数千回。2回の南極撮影で、23キロ体重が減ったという」「まさに生と死の境を踏み分けての撮影です」・・・・・想像もつかない話に子どもたちは聞き入った。


 「すでに日本の山でも外国の山でも、何回となく死線をさまよっているので、いまの命は余りものである」──白川がこう書いたのは40年も前のことだ。いつ決着するとも知れぬ取材許可を取る戦い。高山病や大吹雪からスタッフの命、自分自身の命を守る戦い・・・・・過酷な撮影を貫いてきた白川の信条は「地球をアウシュビッツ(=ナチスの強制収容所)にして何になろう」(『ヒマラヤ』のあとがき)という一言に象徴される。

 若き日の白川に、思いがけないエールが海外から届いたのは1969年(昭和44年)だった。

「6年かけて撮った『アルプス』が日本よりも海外で高く評価されました。その時、無名の私に宛てて、あの歴史学者のトインビー博士から手紙が届いたのです」。

 それは自然破壊を憂う碩学からの熱烈な”ファンレター”だった。

「あなたは世の中に対して非常な貢献をされている」「あなたの作品が、人類にこの不幸な歩みを踏みとどまらせるものとなれば、と心から念じてやみません」と期待が綴られていた。

「当時の『アサヒカメラ』の編集長たちに手紙のコピーを見せても、『あのトインビーから手紙なって来るはずがない』と誰も信用しなかった」と笑う白川。

「トインビー博士は、次に出版した『ヒマラヤ』に長い序文を寄せてくださった。それまで国内では、私が『地球を再発見し、人間性の回復を』などと訴えても、『一介の写真屋に何ができるか』と総スカンだった。しかしトインビー博士の序文によって、そんな批判も一気に下火になったのです」。

 「私は地球を舞台に仕事を続けてきて、どれほど島国根性の母国からいじめられたかしれません。だからわかるのです。池田会長はこれまで、スケールの大きさ、内容の高さからいっても、誰人とも比べられない仕事を重ね、無理解や偏見にさらされてきた。私から言わせれば、国内での評価が低すぎます。『嫉妬』が日本の悪しき遺伝子ではないか。しかし世界はすでに、その偉大さをよく知っているのではないでしょうか」

 壮大なスケールで地球の美を記録し続けてきた白川は今、「永遠の日本」をテーマに据えている。

「5年越しの仕事です。つい数日前、静岡の『白糸の滝』の撮影が終わったばかりなんですよ」。目を輝かせた。

 この後も『若き日の日記』には戸田を心配する記述が続く。

「先生、1日中、第一応接室にて、お休みの由──お聞きする。一層、ご衰弱の様子。淋しさ、悲しさ、あまりある」(11月13日)。

 2日後の15日、戸田が学会本部(東京・信濃町)で語った言葉を書き留めている。

「先生のいわく『二年間の牢獄生活にわれ勝てり。75万世帯を達成せり』と。『大作の未来は』と。最後に、先生のいわく『戦いに負けるは男の恥なり』と」。

 この15日、池田は市ヶ谷ビルに立ち寄った。その時の写真が残っている。市ヶ谷ビルには、戸田が顧問を務める大蔵商事が入っていた。同社に勤めていた湯川が撮った。

 「私は昭和29年に入社しました。初出社は12月8日です。信心を始めてまだ三ヶ月くらいでした」。湯川はその日のことを鮮明に覚えている。朝9時に出社するように言われ、8時に着いてドアをノックした。「『どうぞ!』といる張りのある声がして、それが池田先生でした」。始業前、池田から掃除の仕方や細々とした雑務を教わった。

「市ヶ谷ビルは関東大震災でも倒れなかった建物ですが、あちこち傷み、使い古されていました」。部屋を掃除しながら、そうした印象を池田に正直に伝えた。

「そのとき先生の目に火花が走ったような気がした」と湯川は振り返る。

 池田は鋭く「今は汚れたビルかもしれないが、いずれここから世界が回るよ」と言った。そして「今日は真珠湾攻撃が始まった日だけど、あなたは今日から『幸福になるための戦い』を始めるんだよ」と湯川を励ました。

 「私が働き始めた頃は、すでに戸田先生の事業の逆境をしのいだ後でした」。恩師の苦境をはね返した池田が、社員たちを励まし、市ヶ谷ビルの屋上に佇む姿を、湯川はカメラに収めた。

「あとから考えると、あんな激務のなかで気さくに応じていただいて。我が家の宝物になりました」。


 2006年(平成18年)、学会の機関誌「大白蓮華」に、湯川の撮った写真が掲載された。池田が会長に就く以前の足跡をたどる企画記事だった。カット写真の説明には、誰が撮ったのかも、場所がどこなのかも記されていなかった。掲載後、湯川のもとに池田から、感謝の伝言とともに次の句が届けられた。


   幸福を


     祈り祈りて


       この1枚


 受け取った湯川の脳裏に、かつて池田の語った「幸福になるための戦いを」との言葉がよみがえった。

「心の底から驚きました。50年も昔に私を励ましてくださったことを覚えておられたのですから。親、子、そして孫の代まで先生に励まし続けていただいた。そういう方は国境を超えて、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか」。

 湯川の父、1908年(明治41年)生まれの栗原藤太は、埼玉の蕨市に住む腕利きの畳職人だった。

「池田先生は父と会うたびに『畳屋のおやじさん』と親しく呼んでくださいました」。日蓮正宗の大石寺(静岡・富士宮市)で、ある宿坊の畳の張り替えを頼まれたこともある。

「父は腕のいい職人を数人集めて、張り切って出かけました。昭和30年頃のことです」。畳を全て張り替えた広間を、戸田と池田が見に行った。

 池田が深刻に表情で藤太に声をかけた。「おやじさん、畳が破れているよ」。「そんなはずはありません!」。慌てて広間に戻った。一枚の畳が刃物で斜めにざっくり切られ、無残に裂けていた。

「本山の仕事が学会員の父に任されたことで、妬まれたのでしょう」(湯川藤江)。

 「俺は完璧な仕事をしたのに・・・・・」。怒りで顔を歪める藤太に、池田は「おやじさん、我慢の時だ。『すぐやり直します』と言って、職人の意地を見せつけるしかない」と諭した。

 1979年(昭和54年)に池田が第三代会長を辞任した際、藤太は「こんな理不尽が通るなら死んだほうがましだ」と泣いた。その様子を聞いた池田は「忘れまじ 縁もふかき 君とわれ 断固生きなむ 三世の旅をば」と書いた色紙を藤太に贈っている。

 「父は82歳で亡くなるまで信心を貫きました。私は信心して57年ですが、学会活動は飽きることがありません。夫と一緒に、恩返しの毎日です」と娘の藤江は言う。

 湯川藤江(東京・台東区婦人部主事)はその写真を机にそっと置いた。「昭和32年の11月、池田先生


からいただきました」。写真の中で、コート姿の戸田城聖が微笑んでいた。池田の師である。


「池田先生は当時、この写真をたくさんの方に贈られました。第二代会長の戸田先生が亡くなる5ヶ月ほど前のことでした」。


 この年(1957年)の11月前後から、戸田の健康を木にかける日々が続いていた。『若き日の日記』


(『池田大作全集』第37巻)に当時心境が描かれている。


 「先生、関西にて、非常にお疲れとの報あり。申し訳なし。あまりにも激動のご生涯であられる。われら弟子は、もったいない。こんなに自由で」(11月5日)

 

「先生、午後の便で、帰京。お疲れの、ご様子」(11月6日)

 

「先生、非常にお疲れの様子。顔・・・・青し。われも、また疲労激し。背の痛み、焼けるが如し」(11月8日)。師も病み、弟子もまた病んでいた。


 11月11日。「朝、微熱あり。妻、大変に心配そう。将来を考えると、全く苦難多し。1時──本部前より、


伊東網代に向かう。秋季職員旅行。皆、愉しそう。われ、苦痛。・・・・・伊豆海岸の景観。ミカン畑、美の光


景なり。大自然の鮮やかさ。策にあらず、人工にあらず。無作、本有(ほんぬ)・・・・」。


 「あくる日(=11月12日)。東京着、夜の8時になる。途中、ミカン狩り、写真を多数撮る。うまく撮れたら


皆にあげよう」──戸田の写真はこの日に撮った(熱海の曽我浦)。池田自身が撮影して、人に贈った、最も初期の1枚である。

 「元の写真を少し引き伸ばした、通常の八つ切りサイズより少し小さめの写真でした」(湯川)。池田にと


って、壮健な面影の残る戸田の肖像写真が、「写真による励まし」の出発点になった。

 順子が集中治療室に駆けつけた時、人口呼吸器をつけ、足をロープで吊られた広明は辛うじて意識を


取り戻していた。全身打撲で片肺がつぶれ、肋骨は14ヶ所も折れ、骨盤も砕けた。医師から「肺炎を併発


したら極めて危険です。いつ歩けるようになるかもわからない」と告げられた。小学6年だった長女の昌美


は鎖骨を折ったが入院せずにすんだ。順子は昼夜を問わず唱題を続けた。


 事故直後の激励に続き、年明けには池田大作から1枚の写真が届いた。順子はその写真を抱きしめて


病院に向かった。ベットで横たわる広明に見せた。


「それは青空の下、そびえ立つ鉄塔の周りに満開の桜が咲き誇る、堂々たる写真でした」(広明)。


池田が東京の八王子で撮った1枚である。


「今年の桜が咲いているうちに、必ず退院しよう」。夫婦で決めた。「祈るうち、『この鉄塔のように頑丈な体


になるんだ』という先生からの励ましだと思うようになりました」(順子)。


 広明は肺炎を起こしたが、もちこたえた。やがて人口呼吸器が外れた。車いすでロビーに出て、仏法対


話を続けてきた知人たちにかすれた声で電話した。見舞いに飛んできた人には病室で対話を重ねた。


 4ヶ月が過ぎた。小倉の桜が盛りを過ぎようとする頃、広明は歩いて退院した。医師の予想をはるかに超える回復だった。


「同じ時期に入院していた知人が昨年、信心を始めたんですよ」と笑顔で語った。


 写真は、自然や人生の一瞬一瞬の姿を光で切り取る。その写真が、今度は人生を照らす「光」となるこ


ともある。これまで池田は折に触れて写真を撮り、幾多の人々に贈ってきた。今、ここに、池田が29歳の


秋に撮った1枚の写真がある。

 いつまでも壮健のままで──。


 コートを着て微笑む恩師の姿を


 池田は写真に収め、親しい同志に贈った。


 戸田城聖が亡くなる5ヶ月前のことである。


 多忙な日常の合間を縫ってカメラを手にし


 自身の真情を投影してきた池田。


 その内面に迫ろうとした写真家との交流。


 1枚の写真に秘められたドラマを追う。


 2008年(平成20年)12月13日。秋満順子(福岡・小倉南県婦人部長)が自宅の電話をとったのは朝


7時過ぎだった。


「夫と長女の乗った車が交通事故に遭ったという知らせでした」。6時半頃、青信号でアクセルを踏んだ直


後、右から猛スピードの車に突っ込まれた。夫の広明が運転する軽自動車は15メートルほど飛ばされ


た。