EIKOの気まぐれ闘病日記 -154ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 いつも沢山のペタコメントありがとうございます <m(__)m>


 スマートフォンに機種変更はしたけれど、操作に悪戦苦闘しているeiko2002ですしょぼん


 さて、本日から「民衆こそ王者─池田大作とその時代」シリーズの連載を再開した


いと思います。


 今回のテーマは「写真─人生を照らす光」です。


 池田先生の写真にまつわる素晴らしい内容です。


 どうぞ、宜しくお願いします。<m(__)m>

 皆さん、いつもペタやコメントありがとうございます。<m(__)m>


 民衆こそ王者──池田大作とその時代


 母たちの合掌(いのり)の連載を愛読くださりありがとうございました。<m(__)m>


 お陰さまで昨日連載終了となりました。


 次の連載ですが、何を連載するか今のところ未定です。


 決まったらお知らせしますので、よろしくお願いします。<m(__)m>


 

 「先生の茨城訪問までに、土浦・龍ヶ崎方面は『ブロックで二世帯の弘教』に挑戦し、先生を迎えました」(永井みつ子、第二茨城総県婦人部議長)。土浦や龍ヶ崎の人々もまた、塗炭の苦しみを乗り越えて集った。

 土浦市の本妙寺。「檀家総代だった坂本全さんは関東広布の大功労者です。住職はその坂本さんを大勢の前で『一番悪いのはこいつだ!』と罵った。坂本さんは『池田先生が僧俗和合をおっしゃっている』と、何を言われても御講に足を運ばれた」(菅谷一子、土浦県副婦人部長)。

 龍ヶ崎市の要蔵寺。「昭和53年2月13日、住職が御講で、いつものように雑誌片手の学会批判を始めました」(永井)。終了後、学会員数人で抗議に行った。住職は「週刊誌を読んでないのか?週刊誌が正しいんだよ」と突っぱねた。永井はその時の言葉を今も覚えている。

「『では、御書と週刊誌と、どちらが正しいのですか?』との学会員の問いに、彼は『週刊誌だよ』ときっぱり言い切ったのです」。


 土浦文化会館での勤行会──会場前方に老婦人が座っていた。塚本はる。

「明治37年生まれで”折伏のおばあちゃん”と慕われました。土浦の学会員で知らない人はいませんでした」(菅谷一子)。

 池田は、はるに「おばあちゃん、いつまでもお元気で」と声をかけ、その場で香峰子が一枚の13行罫紙を手渡した。そこには「仏法は強(あなが)ちに人の貴賤(きせん)には依(よ)るべからず只経文を先きとすべし身の賤しきをもって其の法を軽んずる事なかれ」と記されていた。「身分の高低」で「人の価値」を判断する愚かさを突いた、日蓮の一文である。78歳のはるは顔をくしゃくしゃにして笑った。

 はるは土浦駅の西口で「魚長」とう魚屋を切り盛りしていた。漁師から転職した夫の長太郎を支え、仕事は朝4時から夜更けまで。天秤棒を方に担ぎ、魚を売りに歩いた。

 11人の子だくさん。「屋根の隙間から星空が見えた。雨が降れば傘をさして食事した」という経済苦の日々が続いた。夫は酒で荒れた。「あそこの魚屋はもうだめだで」と囁かれた。50歳で入会(1955年)。すると「学会員だから貧乏なんだ」と笑われた。奮起し、やがて仕事が起動に乗った。息子の代で中華料理店になり、今も同じ場所で営んでいる。

 「体調を崩した晩年でも、信心の話になると元気になった」と義理の娘の八世江(土浦市、支部副婦人部長)は語る。

「あの日、義母はしみじみと語っていました。『オレは、まじめに信心やってきたから、先生の心に通じたんだナ』って」。11人の子を育てあげた塚本。94年の生涯で、弘教は100世帯を超えた。


 池田の来訪時に土浦圏婦人部長だった菅谷静江もまた、1958年(昭和33年)の入会以来、土浦の組織を築いた一人だ。

「ぺったんこの下駄を履いて、おむつが入った袋をさげて学会活動した」と語り残している。でこぼこ道を自転車で二時間かけ、筑波山麓の町へ通ったこともあった。

「会場に着いたら髪の毛も眉もほこりで真っ白。顔を見合わせ大笑いしました」(夫の光、土浦県副県長)。1996年(平成8年)、静江の末期がんが見つかった。夫の光が池田に宛てて手紙を書いた。すぐに和歌が届いた。


   人生の

     偉大な使命を

      果たしたる

        母に幸あれ

         母をたたえむ


 「大作」というサインの下に、傍点が三つ打たれていた。

「先生からの伝言が添えられていました。『真ん中の点は、静江さんだよ。両脇は、僕と家内だよ』と」。

 それからの三ヶ月間、静江はお見舞いに訪れた30人以上と仏法対話を重ね、65年の生涯を閉じた。

「あんまり笑顔がきれいで、医師に『ご臨終です』と言われるまで、枕元にいた私も気づきませんでした」(菅谷光)。


 81年から82年にかけて、池田の激励行に同行した聖教新聞記者の松川宜照。

「特に、宗門にいじめ抜かれた秋田の人々の笑顔が素晴らしかった。予想していた以上に明るかった」と話す。「そうした印象を、秋田文化会館で先生にそのまま伝えたことがありました」。池田は「そうじゃないんだ」と言った。

 「たとえば子どもがいる。貧乏でおいしいものを食べていないが、外で笑って遊んでいる。親はその様子を笑顔で見守っていても、内心、不憫だと悲しんでいるのだ」

 また、飢餓で苦しむアフリカには「多くの子どもを残して死に行くお母さんもいる」と池田は続けた。「たとえ、にっこり笑って亡くなっても、心の中には悲しみや心配があったかもしれない。うわべの笑顔だけで判断してはいけないよ。我々は、その笑顔の奥にある心の奥底まで、わかってあげなければいけないんだ」。

 30年前、それぞれの地に無数の笑顔が咲いた反転攻勢の旅路。池田と歩みをともにした母たちの合掌(いのり)は、今日も続いている。


 鹿島会館に着いた池田と香峰子は真っ先に管理者室へ向かった。香峰子が管理者の橋本周子に微笑む。池田は橋本に「鹿島は勝ったかい?」と尋ねた。

「緊張してしまい、初めは何についておっしゃっているのかわかりませんでした」。

 橋本は「はい、勝ちました」と答えた。池田は少し語気を強めて、「鹿島は勝ったね?」と尋ねた。橋本も力を込めて「はい、勝ちました」。

 さらに語気を強める池田。「鹿島は勝ったんだね?」

 三度問われて、橋本は「宗門とのことを尋ねておられるんだ」と気づいた。堰を切ったように夢中で話し始めた。

「はい、勝ちました。先生、みんな一生懸命、闘いました。大変悔しい思いをしましたが、皆、必死に頑張りました」。橋本の両眼から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

 「そうか、よかった。頑張ったんだね。皆、闘ってくれたんだね」。池田はむせび泣く橋本にやさしく声をかけた。

「退転した人たちの厳しい現状も話しました」(橋本)。

「かわいそうだな。仏法は厳しい。何とか救ってあげたいな」と池田。

 師弟の対話を、部屋に飾られた一枚の色紙が見守っていた。

 「断固して 鹿島の城を 君頼む」

 1979年(昭和54年)4月、会長辞任の直前に、池田が橋本夫妻に贈った句である。夫の欣也も支部幹部として、脱会者が多かった波崎を担当してきた。この日、池田は夫妻に「信義を守ったね。生涯忘れないよ」と礼を述べている。


 二階の広間。総勢1000人の参加者の唱題する声も熱気にあふれていた。

「あの日は参加者の靴が下駄箱に入りきらず、床に新聞紙を敷いて対応しました」(橋本周子)。池田は広間の後方から入った。「『うわー』という声があがって振り返ると、そこに先生が立っておられた。次々と歓声が起こりました」(中澤春司、鹿島県副県長)。

 「鹿島は勝ちました」。そう宣言した池田は参加者と万歳三唱した。「その後、先生は学会員の氏名が刻まれた銘板に題目を唱えられました」(山崎美智代、鹿島王者圏副婦人部長)。

 「今日来られなかった人たちのために、題目を三唱しよう」「苦難の道を歩んでこられた鹿島の同志のことは、生涯、私は絶対わすれない」

 この日、池田は鉾田で行われた代表者会議にも出席し、教育者のグループを結成している。

 後に池田は次の和歌を贈っている。


  茨城に


   広宣流布の


    勇者あり


     その名を問わば


       鹿島の地涌と


 最終日の12日。池田は土浦文化会館へ向かった。駐車場には、館内に入りきれなかった200人が待っていた。「バスから降りるなり先生は『寒い中待たせたね。記念撮影しよう』と声をかけられました」(杉山英子、第一茨城総県副総合婦人部長)。会館三周年を記念する勤行会である。「土浦、霞ヶ浦というと予科練(=航空隊)を思い起こす」。池田は「時」について語った。

 「時は移り変わり、軍国主義から平和な時代となった。『時』というものは、色も香りもなく、大きく移り変わっていくものだ。戦前、軍人は正義の存在であり、自由主義者や戦争反対者は極悪人とされた。時代が変わると正反対になった」

 そして世界の宗教史を辿り、宗教弾圧に話が及んだ。「我々は難を恐れてはならない。すべてが広宣流布への一里塚であり、乗り越えなければならない過程だからです」