EIKOの気まぐれ闘病日記 -155ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 「とにかく先生の体調が心配でした」(宮寺襛子、第一茨城総県婦人部主事)。県代表者の集い(7日)、県幹部会(8日)、会館落成記念勤行会(9日)、日立会館の勤行会(10日)・・・・・大人数の会合が続く。会合がひとつ終わるたび、池田は汗だくになり、その都度、着替えが必要なほどだった。

 水戸婦人会館の管理者だった渡辺キク。夜、ボイラー調整のために敷地内を回った。上の階から女性の題目の声がかすかに漏れ聞こえる。耳を澄ました。香峰子の声だった。

 11日午後には、茨城文化会館前の駐車場に青年部をはじめ3500人が集まった。大分、熊本、小田原、秋田の規模をしのぐ記念撮影である。

 終了間際、一人の男子部員が「先生、鹿島に来てください」と叫んだ。

「当時、鹿島の寺側は学会員に対して『池田は絶対に鹿島に入れない』『妨害してやる』と脅しをかけていました」(長谷川久能、鹿島県総主事)。

 池田は間髪をいれず答えた。「行くよ。今から行くんだよ!」


 「会長辞任前後の時期、水戸から鹿島まで泊りがけで通いました。特に南部の波崎町がひどかった」(浅野秀子、総茨城総合婦人部長)

 山口修(鹿島県総合長)は「昭和53年に先生が作詞された茨城の県歌『凱歌の人生』が皆の心の支えになった」と語る。「特に三番の冒頭『君よ辛くも いつの日か/広宣流布の 金の風』という歌詞に泣いた。

発表当時、まさにこの通りの思いでした」。この「凱歌の人生」は、冒頭で紹介した「母の曲」と同時に発表されている。(東京・板橋での本部幹部会)。

 隣接する千葉でも宗門は牙をむいた。佐原市(現・香取市)の涌化寺。利根川を挟んで茨城に近い。鹿島や潮来の学会員が長年通う寺だった。佐原にすむ福田カツ(池田総県婦人部主事)。

「非道な寺への対応に追われ、いつ寝ていつ起きたかもわからないような日々だった」と回想する。

「息子を亡くした婦人部員は、告別式の当日に『まだ懲りないのか』と暴言を浴びせられ、脱会を迫られました。その婦人は『息子が成仏するまで私は学会員として祈り続けます』と、毅然としていました」。

 御講で住職が週刊誌をかざして学会を批判すると、檀徒たちはわざわざ学会員の方を向いて拍手した。御講に通う学会員の数が減れば「福田がそそのかしている」と吹聴された。「僧俗和合のために、一言も反論せず、耐え続けました」。

 78年(昭和53年)のある日、福田は元学会員の女性檀徒に、思わず「週刊誌はウソでも書くものでしょう」と抗議した。その女性は福田の胸ぐらをつかみ、「このアマがウソだと言ってるぞ!」と叫び、20人ほどの檀徒の輪の中に放り出した。福田は延々と罵倒され続けた。「家に火をつけてやる」と脅されたこともある。

 79年(昭和54年)2月、鹿島近郊に学会寄進の願生寺が建った。

「やっと僧俗和合できるかもしれないと喜び、入仏式の準備もほとんど学会員で整えました」(細川美佐子、鹿島勇者圏総合婦人部長)。ところが新任の住職は、あろうことか「学会の過ちをだたして参ります」とあいさつしたのである。望みは打ち砕かれた。

 この年の元旦、福田夫妻は涌生寺の住職から面と向かって「無間地獄に間違いなく落ちる」と貶された。

「お父さん、無間地獄に落ちるって言われたわね」。自宅に戻ったカツはつぶやいた。夫の良助は(香取市、副支部長)は「無間地獄でいいじゃないか」と言った。「地獄に行ったら行ったで、池田先生と一緒なら、無間地獄でも結構じゃないか」。二人で笑い合った。

 カツは入会前、姉、兄、父を病気や事故で相次ぎ亡くした。1964年(昭和39年)、長女の夜泣きに困り果てていた時、学会と巡りあった。勤行を始めて1週間後、長女は布団ですやすやと眠るようになった。

 2年後、カツは聖教新聞社での記念撮影会に出席した。池田は「このメンバーは霊鷲山まで私と一緒だよ」と語った。

 霊鷲山──「法華経」に説かれる「師と弟子が永遠の約束を結ぶ地」である。「あの言葉を心の拠り所に、耐えてきました」。

 第一次宗門事件の最中、池田はカツに書を贈っている。


  佐原にも


    広布のわが弟子


      妙の指揮


 カツが対話を重ね、宗門から別れた人の数はこれまで40人を超える。


 日立総合病院の院長だった大谷育夫が国鉄の水戸駅で池田を見かけたのは、1982年(昭和57年)2月7日、午後3時過ぎだった。「駅構内の長い廊下でした」。走り寄った大谷は驚きで声を失った。

「一目見ただけで、高熱を押して茨城入りされたことがわかりました」。前日、水戸市内に茨城文化会館が落成。その祝賀の会合に向かう途中である。「ひたち11号」から降りたばかりの池田。大谷に「すみませんね、こんなになってしまって」と火照った顔で笑いかけた。

 同行していた山川義一(当時、茨城本部長)が大谷に語った。

「昨日からとても高い熱です。休んでいただくように皆で話しても『いや、あれだけ苦しんだ茨城の友が待っているんだ。私は行く』とおっしゃって・・・・・・」。

 茨城文化会館で代表300人の懇談会が開かれた。池田は席に着くなり言った。「日立と鹿島の責任者、いらっしゃい」。二つとも、県下で悪僧が特にはびこった地域である。

 呼ばれた人々のなかに、日立圏長の中野良友がいた。茨城県壮年部長を務めた大谷は会場でその姿を見て、泣けてならなかったという。

 二人の出会いは20年前(1962年)にさかのぼる。

「中野さんはまだ信心していませんでした。道子さんという13歳の娘がいました」。

 夏休みが明けて、道子の体力が著しく衰えた。妻の誠子が道子を連れて、日立総合病院を訪れた。同院の院長が大谷だった。

「あの時、私は信心を始めてひと月も経っていませんでした」。


 診察した大谷。「道子さんはリウマチ熱によって心臓が拡張する病気で、すでに手の施しようがなかった。話を聞くと、誠子さんと道子さんも学会に入ったばかり。何のために信仰するのか──あの一家の信心に、私は強く影響を受けました」。

 娘の命があとわずかだと知った中野良友。事実を受け入れられなかった。仕事から帰ると自室にこもり、頭から布団をかぶった。声を押し殺して泣いた。何日も続いた。

 連日、ドアの向こうから数人の女性の話し声が漏れ聞こえた。

「婦人部の方々が妻を励ましてくれていました。妻も道子の闘病の様子を話した。苦痛で寝られない時、道子は病院のベットの上で、小さな声で題目をあげ続けていました。私はドア越に聞こえる信心の話に、いつの間にか聞き入り、そしてこう考えるようになったのです」

 道子はそれほどまでに御本尊を信じているのか。もし俺が信心したら、道子は喜んでくれるだろうか──娘の死のひと月前、中野もまた信心を始めた。

 12月のある日、診察を終えると、道子は「今までありがとう」と笑い、大谷の手を握った。翌日、静かに亡くなった。

「信心を教えてくれた池田先生に、お礼を言ってね」。それが親への遺言だった。娘の信仰の火は、父に受け継がれた。


 それから16年が経った1978年(昭和53年)、良友は日立圏長に就任する。学会攻撃の火が広がる渦中だった。

「住職が御講のたびに猛烈な学会批判をする。涙のでるような思いで参加しました」(菊池利子、日立県副婦人部長)。寺が「純粋な学会員の皆様へ」と題する長文のチラシ4000枚を刷り、日立市内の学会員宅に送りつけたこともあった。

 「あの寺では数年間にわたって、多忙を理由に、通夜の導師を学会の壮年幹部にやってもらっていた時期があった。私の夫も何度もやりました」(弘田寛子、同)。「その後がひどい」と弘田は言う。「自分は通夜に行っていないにもかかわらず、遺族から”お車代”と通夜の供養を受け取る坊主もいたんです」。

 中野は大企業の関連会社取締役を努めながら、日立の組織の要として奮闘した。

「父のもとには毎日のように誰かが個人指導を受けに来ていた。夜中に相談の電話が鳴れば、何時でもすぐに同志のもとへ駆けつける父でした」(長男の良一)。

 ──茨城文化会館での懇談会。池田は「ありがとう。よく頑張ってくれたね。よくみんなを守ってくれたね」と語り、中野たちに深々と頭を下げた。中野は「池田先生、ありがとうございました」と礼を述べた。亡き娘との約束を、20年後に果たした瞬間だった。

 「必死になって学会員を守り抜いた弟子と、自身の命を削ってでも弟子を励ます師匠。あの光景は忘れられません」。今年90歳になる大谷は、かみしめるように語った。

 いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます <m(__)m>


 ペタやコメントありがとうございます <m(__)m>


 昨日、息子の引越しを無事に終えることができました。


 ご心配くださった皆さん、本当にありがとうございました <m(__)m>


 15日に引越しやに荷物を預け、16日にアパートに荷物が届きました。


 昨日は私も片付けに、息子のアパートに行ってきましたが、電機製品は無事に届


いていました。


 私の父(=息子の祖父)と私で、細々したものを片付けてきました。


 夕方早く終わったので、息子と父と3人で帰ってきました。


 我が家から横浜は近いので、会社の研修が始まるまで息子はしばらく我が家にい


るようです。


 24日には御本尊様をご安置する予定です。


 息子が横浜の地で男子部の活動家になるように、母としてさらに祈っていく決意です。

 秋田を発つ前日の14日も、夜まで雪が強かった。

「平鹿町(当時)からマイクロバスを手配し、皆で向かいました。吹雪で前が見えないくらいでした」(高橋功。横手市、県本部長)。県下の青年部が一堂に会した総会。池田の指導も熱を帯びた。

「諸君は秋田の大地で何らかの立派な歴史を作ってほしい。必ず、後になればなるほど、やっておいてやかったなと思う。『妙とは蘇生の義なり』だ。これだけ批判され、迫害されても、妙法は世界に広がっている」

 「民衆のために立ち上がる哲学者がたくさん出てほしい。それが私の願いです。自分がダメだなと思った時、その時は必ず題目をあげてください。必ず道が開けます」

 秋田県女子部長だった小沼光子(総宮城婦人部長)。

「指導を終え、広間をでようとした先生は、もう一度青年部の方を振り返られました」。

 池田は「皆さんが思うと思わざるとにかかわらず、私は皆さんが池田門下生であると信じています」と言い残し、会場を後にした。

「宗門事件で散々荒らされ、『師弟』を口にすることすらできなかった時でした。先生のあの一言を、一生忘れることはありません」(小沼)。


 この青年部総会と同時刻、香峰子は加賀谷麗子宅にいた。若手の婦人部を含めた10人ほどの懇談会である。

 「なんでも聞いてくださるので、ある婦人が、仕事と学会活動で忙しい夫への愚痴めいたことまで言いました」(斉藤恵子、東北婦人部主事)。香峰子はそれを否定することなく、自分がどのように池田を支えてきたかを語った。

「先生が若い時、体調を崩してよく熱を出されたことや、そんな時は奥様ご自身が『すぐ起きて働けるよう、廊下で寝たこともあったんですよ』と。初めて聞く話ばかりで全員が驚きました。自分たちの姿勢を省みる機会になりました」(斉藤)。

 同席した一人、勝浦幸子(秋田・千秋光彩県婦人部主事)。父の病を機に1955年(昭和30年)に入会した。

「消極的で『後ろを見て歩くような』性格。自分でもそれを変えたいと思っていました」。香峰子との懇談会で自分が話す番になった。

「何を口にしたのか細かくは忘れてしまったが、ずばり見抜かれた」と振り返る。

 香峰子は「悲劇の女王になってはいけませんよ」と語った。

「不幸にどっぷり浸かってはダメ。信心している人に、そんな人(=不幸のままでいる人)はいません」。

 「やさしく、かつ厳しく諭していただき、目が覚める思いでした。すっかり前向きな自分に変えていただいた。あの瞬間が人生の原点です」

 翌15日の午後4時前、池田を乗せた全日空機は秋田空港を飛び立った。滞在中、一面の冬景色を見た池田は「雪を見ながら、先へ、先へ手を打とう」と語っている。バスで移動中の語らいを含めると、6日間の諸行事、懇談の場は40を超え、会った人数は1万人近い。

 2001年第一期会、婦人部第一期会(のちに白雲会)、白銀グループ、かまくらグループ、生々世々グループ、女子仏教哲学研究会、秋田教育者クラブ・・・・・・「雪の秋田指導」で結成された各グループが、その後の秋田の中核となっていく。

 池田は「雪の秋田指導」の翌月、秋田と同じ日数をかけて、同じく宗門に苦しめられた茨城県下を回った。「厳寒の茨城指導」と呼ばれる6日間である。

 13日。二度にわたる自由勤行会の際、約3000人が沼田児童公園に集い、池田との記念撮影を行った。

「先生は一度目を『吹雪グループ』、二度目を『嵐舞グループ』と命名された」(小松)。

 雪は前日から激しかった。豪雪地帯として知られる横手で男子部本部長だった松井照夫。

「あの日は横手よりもすごい雪が秋田市内を覆っていました」と書き残している。

「うれしくて夢中になり、オーバーも帽子も持たずに駆けつけた」(大仙市、副本部長)という人もいる。

 「白いアノラック(防寒着)を着て、長靴を履いた先生を見た瞬間、『ああ、先生が私たちと同じ格好をされている。本当に秋田に来てくださったんだ』と実感した」(大友洋子。秋田市、支部副婦人部長)。

「ボタ雪が口の中に入るのもかまわず『エイエイオー!』と大声で勝ち鬨をあげた」(柿崎由美子、能代広宣県副婦人部長)。翌日付の聖教新聞2,3面は、その2枚の記念撮影が前面を埋めた。

 「現在まで、つらい時に何度もこの紙面を見返してきました」(佐藤サヨ、第二秋田総県副婦人部長)

 この日、留守番や、行事の成功を祈って自宅で唱題を重ね、記念撮影に参加しなかった人も多い。秋田文化会館から徒歩数分の場所に住む加賀谷麗子(第一秋田総県婦人部主事)。

「遠くの地域の方が優先かな、と遠慮しました。しかし後年、先生は”集わなかった人々のグループ”まで作ってくださった」。

 「あの時、お会いできなかった人のほうが、福運がつくんだよ」といった伝言とともに、池田はその人々に「雪の秋田指導 栄光グループ」と命名している。