続・母たちの合掌(いのり)  「苦しんだ友が待っているんだ」 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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 日立総合病院の院長だった大谷育夫が国鉄の水戸駅で池田を見かけたのは、1982年(昭和57年)2月7日、午後3時過ぎだった。「駅構内の長い廊下でした」。走り寄った大谷は驚きで声を失った。

「一目見ただけで、高熱を押して茨城入りされたことがわかりました」。前日、水戸市内に茨城文化会館が落成。その祝賀の会合に向かう途中である。「ひたち11号」から降りたばかりの池田。大谷に「すみませんね、こんなになってしまって」と火照った顔で笑いかけた。

 同行していた山川義一(当時、茨城本部長)が大谷に語った。

「昨日からとても高い熱です。休んでいただくように皆で話しても『いや、あれだけ苦しんだ茨城の友が待っているんだ。私は行く』とおっしゃって・・・・・・」。

 茨城文化会館で代表300人の懇談会が開かれた。池田は席に着くなり言った。「日立と鹿島の責任者、いらっしゃい」。二つとも、県下で悪僧が特にはびこった地域である。

 呼ばれた人々のなかに、日立圏長の中野良友がいた。茨城県壮年部長を務めた大谷は会場でその姿を見て、泣けてならなかったという。

 二人の出会いは20年前(1962年)にさかのぼる。

「中野さんはまだ信心していませんでした。道子さんという13歳の娘がいました」。

 夏休みが明けて、道子の体力が著しく衰えた。妻の誠子が道子を連れて、日立総合病院を訪れた。同院の院長が大谷だった。

「あの時、私は信心を始めてひと月も経っていませんでした」。


 診察した大谷。「道子さんはリウマチ熱によって心臓が拡張する病気で、すでに手の施しようがなかった。話を聞くと、誠子さんと道子さんも学会に入ったばかり。何のために信仰するのか──あの一家の信心に、私は強く影響を受けました」。

 娘の命があとわずかだと知った中野良友。事実を受け入れられなかった。仕事から帰ると自室にこもり、頭から布団をかぶった。声を押し殺して泣いた。何日も続いた。

 連日、ドアの向こうから数人の女性の話し声が漏れ聞こえた。

「婦人部の方々が妻を励ましてくれていました。妻も道子の闘病の様子を話した。苦痛で寝られない時、道子は病院のベットの上で、小さな声で題目をあげ続けていました。私はドア越に聞こえる信心の話に、いつの間にか聞き入り、そしてこう考えるようになったのです」

 道子はそれほどまでに御本尊を信じているのか。もし俺が信心したら、道子は喜んでくれるだろうか──娘の死のひと月前、中野もまた信心を始めた。

 12月のある日、診察を終えると、道子は「今までありがとう」と笑い、大谷の手を握った。翌日、静かに亡くなった。

「信心を教えてくれた池田先生に、お礼を言ってね」。それが親への遺言だった。娘の信仰の火は、父に受け継がれた。


 それから16年が経った1978年(昭和53年)、良友は日立圏長に就任する。学会攻撃の火が広がる渦中だった。

「住職が御講のたびに猛烈な学会批判をする。涙のでるような思いで参加しました」(菊池利子、日立県副婦人部長)。寺が「純粋な学会員の皆様へ」と題する長文のチラシ4000枚を刷り、日立市内の学会員宅に送りつけたこともあった。

 「あの寺では数年間にわたって、多忙を理由に、通夜の導師を学会の壮年幹部にやってもらっていた時期があった。私の夫も何度もやりました」(弘田寛子、同)。「その後がひどい」と弘田は言う。「自分は通夜に行っていないにもかかわらず、遺族から”お車代”と通夜の供養を受け取る坊主もいたんです」。

 中野は大企業の関連会社取締役を努めながら、日立の組織の要として奮闘した。

「父のもとには毎日のように誰かが個人指導を受けに来ていた。夜中に相談の電話が鳴れば、何時でもすぐに同志のもとへ駆けつける父でした」(長男の良一)。

 ──茨城文化会館での懇談会。池田は「ありがとう。よく頑張ってくれたね。よくみんなを守ってくれたね」と語り、中野たちに深々と頭を下げた。中野は「池田先生、ありがとうございました」と礼を述べた。亡き娘との約束を、20年後に果たした瞬間だった。

 「必死になって学会員を守り抜いた弟子と、自身の命を削ってでも弟子を励ます師匠。あの光景は忘れられません」。今年90歳になる大谷は、かみしめるように語った。