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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 大曲の寿泉寺、檀徒がバリケードを作り、学会員を御講から締め出したことがあった。大曲圏長だった小松俊彦たちは厳重にマークされて入れない。

「昭和53年のことでした。小柄で痩せた関根さんが『あんたら何言ってんのよ』と檀徒を無視し、ずんずん入っていった」(小松)。

 「創価学会は謗法(ほうぼう)だ」「出て行け」などと言い募る檀徒を、関根は「出て行けとはなんですか」と一喝した。

「私はここに、御本尊の供養に参り、御住職の説法を聞きに来たんです。あなたはいつから、私に出て行けという資格と権利を得たのか!」。

反学会の記事を片手に説法しようとしていた住職。「ここは”俺の家”だから出て行け」と叫んだ。

 関根の舌鋒は鋭さを増す。「今日はじつに不思議なものを見せていただいた。日蓮大聖人は謗法の者から供養を受けなかったはずです。私は今日、謗法呼ばわりされたが、御供養は取っていただきましたね」。慌てて供養を返そうとする檀徒に「いつからあなたは供養をもらったり返したりする資格ができたの?」。それでも返そうとする住職の妻には「言われてからそんなことをするもんじゃありません!あなたにあげたわけではない」。一婦人の言葉に、満座の誰も言い返せなかった。

 「来月もまた来ますから、よろしく」と言い残し、寺を後にした関根。毎月13日、御講という名の針のむしろに悠然と座り続け、中傷から同志を守る防波堤になった。


 「関根さんは男女青年部をたくさん育てました。口だけでなく、自分の姿で見せてくれた」(藤原悦子。仙北市、副本部長)。

「地域の学会員の子どもたちの面倒を見て、食事をふるまったり、一緒に題目をあげたり。わが子のごとく育ててくれた。私もそのなかの一人です」(伊藤テイ子、第三秋田総県副婦人部長)。

 池田は「あなたのことは永遠に公布史に残るよ」と関根を励まし、後に「世紀まで 共に生きなむ地涌かな」との句を贈った。「法華経」に説かれた「地涌の菩薩」になぞらえたのである。

 「晩年はカリエス治療の穴も塞がり、首まで風呂に浸かれるようになったと喜んでいました」(矢作)。「雪の秋田指導」の7年後、関根は68歳で亡くなった。大曲文化会館には、来る春ごとに「関根桜」が咲く。 

 「みんな面魂も立派だし、いい顔をしている。ほっとしました」「人のいい場所に権力、魔物が巣を作り、威張る。民衆の力で抑えるんです」(1月11日、秋田県代表者会議)

 前号で触れた大分と同様、池田は秋田でも”だまし討ち”とも言えるような数年間の経緯を語った。

 「『大切なのは学会員だ』と思い、私が一歩後退したがどうしようもない。ますます複雑になった」「反学会の輩は、私さえいなくなれば自由ににできると、昭和49年頃から策略をめぐらした。必ず学会を壊滅できると判断した。特に大曲や能代など、申し訳ない状態になってしまった」「もう一度、私が指揮を執ります。一緒に、もう一度やりましょう!」

 落成間もない会館に、地鳴りのような拍手が響いた。


 県北の能代市──学会員の葬儀を多宝寺に頼むと、『脱会しなければ葬儀はやらない』と再三、脅された。「心が凍りつくような日々だった」。武石美子(能代広宣県副婦人部長)が語る。「他の寺にも『地域が違うから行かない』と断られ、やむをえず学会員だけで友人葬をしたこともあります」。脱会者たちが興味本位でのぞきに来た。大ブロック長の武石鉄郎(同副県長)が堂々と導師を務め、無事に終えた。

「遺族や親戚からの文句も一切ありませんでした」(武石)。

 県南の大曲市(現・大仙市)──「寿泉寺の御講の教材は週刊誌でした」と伊藤チヤ子(秋田黄金県副婦人部長)。

「ある時は、わざわざ黒板に『池田大作、創価学会』と書き、大きく×印をつけて悪口をまくしたてるのです」。その内容があまりにひどく、途中で退出した。

「後ろから『腹の中が腐るぞ』と怒鳴り声を浴びせられました」。

 石田トシ子(支部副婦人部長)。家族の葬儀の際、坊主から「学会をやっているから家族が死ぬんだ」と言われた。

「先生の批判もされた。本当に切なかった。『負げでなるものか』と思って乗り越えました」。


 「人を陥れようとした人こそ、自分にやましいことがある。その自らの悪を隠そうとする根性があるものだ」・・・・・池田の話が続いている。

 「社会を軽視している人は、信心が厚いようであっても薄い」「信心強情な人は、難があればさらに強くなる。信心が薄い人は、才知が先に立ち、疑ってしまう。すべてを仏道修行ととらえていく姿勢が大事だ」

 池田の一語一語にうなずく人々。「会合が終わった時でした」。工藤恵子(鹿角郡、副婦人部長)は会場の最後方に座っていた。

「先生が誰かを探すように、出口と反対の一番後ろまで歩いてこられ、私の隣に座っていた婦人と固く握手されたのです」。池田が「あなたのことは全部知っていますよ!」と声をかけた相手は、角館町(現・仙北市)に住む関根都美(当時、田沢本部指導長)だった。

「宗門を破折する言論戦で、あの人に勝る人はいませんでした」(雲雀邦子)。

 「楽に死にたい」。それが関根の入会動機だった。それほど病弱だった。

「大正10年生まれの叔母は、日本女子大学の学生時代から結核、腸結核、肋膜炎、腹膜炎と次々に発症し、カリエスで肋骨が3本なく背中に大きな穴が開いていました」(姪の矢作範子。東京・府中常勝区婦人部主事)。

 1955(昭和30年)の冬に信心を始め、十数年に及んだ闘病生活が終わった。「いつ死ぬか」と言われていた関根が歩く姿を見ただけで、入会を決意した人もいた。

「何しろ歩けるのが楽しくて」。青森の弘前市にも通い、班から支部に発展させた。

 82年(昭和57年)1月10日、秋田文化会館(現・秋田中央文化会館)。午後3時を過ぎて、運営スタッフたちは「まだ到着されない。事故でも起きたのか」と心配しだした。池田が秋田空港に着いたのは午後2時過ぎ。空港から会館までは車で30分強。渋滞していないはずなのに着かない。予定時刻を大幅に過ぎている。遅れた理由は事故ではなかった。


 池田を乗せた車が空港から県道9号を少し走り、雄和町の交差点にさしかかった時である。十数人が物陰で身を寄せ合っていた。東北長だった中山晃は助手席に座っていた。フロントガラスから人影が見えた。「先生は『うちの人だね?』と尋ねられました」。

 「ゆっくり走って」「窓を開けて」矢継ぎ早に指示を出す池田。目が合う距離まで近づいた。

「近づく車を見ても、集まった人々は駆け寄ったりせず、じっと見守っていました」(中山)。

 休業日のガソリンスタンド。雪を避ける屋根があり、待つには最適の場所だった。池田は「降りるよ。車を止めて」。勢いよくドアを開けた。

「先生、革靴は滑ります。気をつけてください」。急いで後を追う中山たちの耳に、ザク、ザクと雪を踏みしめる靴音が響いた。みるみる足元が濡れていく。かまわず同志のなかに飛び込んだ。

 「先生にご迷惑をかけてはいけないということは皆、わかっていました」(柏谷シゲ。秋田市、支部副婦人部長)。

「先生の車に向かって手を振りたいという思いでしたが、まさか先生が車から降りられるとは・・・・・」(水野あや子、同)。「寒いところご苦労様。写真を撮ろうよ!」。池田の声を聞き、遠慮がちに見ていた人々も集まり、みるみる40人を超えた。

「県道9号線ではもう一度、街頭座談会が行われました」(小松)。


 左折した車は国道13号に入った。あとは会館まで一直線だが、この13号の路上に、池田は合計5回、降り立っている。すべて即席の座談会となった。

「秋田は感情をあまり表に出さない方が多いのですが、あの時は違いました」(中山)。

 仁井田のガソリンスタンドで5人でお待ちしていました」(相原チタ子、第一秋田総県副婦人部長)。そこから数分の大野地区でも田口真志子(秋田市、副本部長)ら10人が待っていた。

「よく来てくれたね!」少人数も見逃さず、池田は次々と写真に納まった。

 「寿司屋さんの前で90人余り、牛島にある自動車店で40人・・・・・6ヶ所目は茨島交差点近くの広場でした」(小松)。池田は一人の婦人部員に「いいお顔だね!」と声をかけている。

「『ああ、先生はわかってくださっているんだ』と感動しました。その人は、ご主人の反対のなか、大変苦労して信心を貫いた方でした」(高嶋恵子、第一秋田総県副婦人部長)。

 7ヶ所目。会館に近い自動車修理工場だった。交通量が多い。車を降りた池田は「危ないね。近くだから会館にいらっしゃい」。午後3時18分、秋田文化会館に着いた。その場でも懇談が続き、記念撮影を重ねた。翌日付の聖教新聞に「雪の街角、9ヶ所で座談会」と見出しが躍った。

 会館ロビーには大きな地図が張ってあった。折り紙の花々で埋まっていた。

「題目が3000遍あがるたびに花を一つ張り、世界地図を作りました。題目は60億遍を超えました」(雲雀)。その前に立ち止った池田。

「皆が私を呼んでくれたんだな」。会館到着までに出会った人数は約1000人。どの人も覚えている池田の言葉がある。

 「私が来たから、もう大丈夫だ」


 翌82年(昭和57年)1月9日午後5時過ぎ、池田は目黒平和会館(現・目黒国際文化会館)を訪れた(品川・目黒合同の自由勤行会)。東京都内で宗門が激しく動いたのが目黒だった。

「妙真寺の御講には目黒だけでなく、都内の各所、神奈川など遠くからも檀徒が集まりました。学会攻撃の情報を送り出す拠点だったのです。しかし目黒の組織からはほとんど脱会者を出しませんでした」(佐々木典子。当時、目黒区婦人部長)。

 武蔵小山で紳士服のテーラーを営む高橋博(副支部長)。

「先生が来られる前、町内のある壮年に聖教新聞の購読を頼みに行きました。若い不良や無頼漢たちを束ねていた顔役です。ご近所は皆、敬遠していた」。

高橋は婦人部の工藤房子とともに、勇気を出して尋ねた。呆気ないほど気軽に購読してくれた。しかも「前から読みたかった」と言う。

「翌朝、その人が店まで来て語ってくれました。『尊敬していた先輩が亡くなる時、”池田大作という人物は武器も持たず、力で人を押さえつけるのでもなく、青年を育て、学会を世界まで伸ばした。見習わねばならない”と言い残したんです』と」。


 指導会の席上、区婦人部長の佐々木はこの話を伝えた。池田は「地に足の着いた貴重な体験じゃないか。当たればそこから開けるということだね」。そして「目黒は今年から壁を破ろう」と続けた。この年、目黒は全国トップの弘教を成し遂げた。池田は「狂暴の嵐乗り越え勝ちきたる/その名目黒の同志なるかな」という和歌を贈っている。目黒平和会館を発つ際、ロビーでコートの襟を立てながら、池田は言い残した。

 「明日から秋田に行ってくるよ」

 秋田──第一次宗門事件で「北の秋田、南の大分」と言われた激震地である。

「『よりによって真冬の、いちばん雪深い時にお呼びするのはおかしい』。そう言う東京の幹部もいました」。秋田県婦人部長だった雲雀(ひばり)邦子は語る。

 秋田県長の小松俊彦ら秋田の首脳が聖教新聞本社で池田に会ったのは前年の暮れだった。

「『私は秋田に行く』と言われた先生は、周囲の最高幹部に『いいか!』と念を押された。あの一言で決まりました」(雲雀)。

 会長辞任以来の闇を晴らす反転攻勢は、急所にさしかかっていた。


 なぜ信心が揺らがなかったのか。「母の姿を見ていたからです」とひで子は即答した。母の大江登美恵。父の栄作とともに湯河原の草創期を支えた一人である。

「母が先に信心を始めました。きっかけは病気でした」。家は常に布団が敷かれ、誰かが病に臥せっていた。いろいろな宗教を遍歴し、学会にめぐり合った。題目を唱え始めて1週間で母の体調が好転した。

「両親があちこちに仏法対話で歩いたので、近所に知れ渡り、私まで学校でいじめられました」とひで子は笑う。父の栄作は湯河原の支部長を努めた。

「池田先生を師匠と定めて生きる親の姿を見て、この信心は間違いないと感じたのです」。


 小田原圏長だった本多英雄。1000人を超える記念撮影を終えた後、池田からの色紙が届いた。踊るような筆致で

 「限りなく また限りなく 広宣に 天下の嶮も いざや恐るな」と書かれていた。「天下の嶮」の一言を目にした本多は、その場で落涙した。滝廉太郎の名曲「箱根八里」。その冒頭は「箱根の山は天下の嶮 函谷關(かんこくかん)もものならず」(作詞=鳥居忱)という歌詞で始まる。「『天下の嶮』はこれからだ、本当の勝負はこれからなんだ、と腹を決めました」。

 第一次宗門事件で一割まで減った染野たちの地区。10年かけて元に戻した。

「第二次宗門事件では1世帯も脱会しませんでした」(染野耐)。