EIKOの気まぐれ闘病日記 -157ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 1981年(昭和56年)の年末、聖教新聞の2・3面に大きな集合写真が掲載された(12月23日付)。神奈川研修道場を訪れた池田のもとに、東の小田原、西の御殿場から続々とメンバーが集った。僧や檀徒の攻撃に耐えてきた人々である。紙面を開くと「あの時の苦しみは 生涯忘れられない」という大見出しが目に飛び込む。御殿場の壮年部員の「人生65年、こんなに屈辱されたことはない」という証言も載っている。

 「あの日を境に、皆が息を吹き返しました」と語るのは90歳の森田アイ。箱根支部の初代婦人部長だった。自身は記念撮影に参加していない。

「家で、はしかにかかった孫の面倒をみていたんです」と笑顔で語る。

 1944年(昭和19年)、夫が戦死した。「娘の弓子は1歳でした」。アイは過労で倒れた。先に学会に入っていた姉の胃潰瘍が治った。55年(同30年)の夏、信心を始めた。中学生だった弓子は「初めは反対していたんです。母が学会活動に出かけると、家の留守番をさせられるから」と苦笑い。「でも次第に元気になる母の姿に惹かれ、座談会に出るように」。65年(同40年)、弓子は箱根に美容院を開店。母と同じく箱根支部の婦人部長を努めた。

 「いつの間にか持病の肺病もすっかりよくなりました」と振り返るアイ。「『南無妙法蓮華経は獅子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや』。池田先生から教わったこの御書(日蓮の遺文集)の一節が大好きです」。弘教に、個人指導にと、バイクを駆って箱根の山を走り回るようになった。


 「大分の別府にいた宗門の僧が、小田原に転任してきました。寺には学会批判の雑誌がこれ見よがしに置かれて、皆が嫌な思いをしました」(遠藤具美子。当時、箱根本部婦人部本部長)。反学会の勢力が、一部のマスコミを使って学会攻撃に狂奔していた。

 葬儀の際、僧は学会員に車で送り迎えさせた。にもかかわらず「お車代」を平然と受け取った。

「やっとの思いで弘教した新入会の友人を寺に連れて行ったら、真っ暗で誰も出てこない。坊主が御本尊を授与する約束を忘れていたんです。悔しくて、友人に申し訳なくて・・・・・」(安藤明子。当時、箱根本部婦人部副本部長)。

 小田原の支部婦人部長だった田中英子。「御講に行くと畳に赤い線が引いてあって、その前方に檀徒が座り、学会員は後ろに座らされた。御講の運営はすべて学会員にやらせる。ひどい差別でした」。

 母の春江と親子で支部婦人部長を務めた。

「母が東京の創価婦人会館で体験発表をした際、出席していた奥様が、『苦労しながら広宣流布に戦ってこられたんですね』と抱きかかえるように励ましてくださった」。

 その春江が担当していた支部には、世帯が一割まで減った地区もあった。「負けてたまるかと戦いました」(染野ひで子、支部副婦人部長)。染野は1歳の子を背負って、神奈川研修道場での池田との記念撮影に駆けつけている。

 1979年(昭和54年)6月、染野は寺で結婚式を挙げた。その場で「池田は増上慢だ」と罵られた。仲のよかった同志たちが目の色を変えて退転していく。信心歴の浅かった夫の耐(小田原正義圏、副本部長)は迷い、「寺に行ったほうがいいのか」と口にした。「冗談じゃありません」。ひで子は師弟こそ仏法の根本であることを語った。「そうか、後で、歴史が証明するだろうな」と納得した耐は、夫婦で弘教に歩き始めた。


 本来は会長の池田大作が訪れる予定だった。開会あいさつに立った香峰子は「(会長が)緊急の用事で東京を離れられなくなりましたので、私に『代りに行って謝ってほしい』ということになりまして、今朝まいりました」と語った。

 滋賀の人々はこの行事に臨んで、「太陽と共に」というテーマを掲げていた。滋賀県長だった満田正明。

「第一次宗門事件の当時、師匠である池田先生とともに生きよう、という弟子として自然な思いを公言することすら難しかった。そこで『師』を『太陽に』に譬えたのです」。会長辞任の半年前。各地で日蓮正宗(以下、宗門)の僧らの横暴が吹き荒れていた。

 あいさつに立った香峰子は、メモを手に「母の曲」の歌詞を紹介し、その意味を語った。

 二番の歌詞──「名も無き城を 守りつつ/小さな太陽 変わりなく/あの人照らせ この人も/やがて大きな 幸の母」。「『城』とは『家』です。各家庭であり、地域の城です」

 三番。「嘆きの坂の 彼方には/城の人々 笑顔あり」という一節を香峰子は二度、繰り返して読んだ。

 この「城の人々」という一言について、池田が「婦人部に差し上げる歌だから、なんとか『夫』のことも入れたい」と言いながら作詞した経緯も話した。

「・・・・・けれども婦人部の中には、ご主人の亡くなった方も、また一人でいらっしゃる方もおられます。そういう意味で『城の人々』の一言に、家庭も、一族も、地域も全部、含めたわけです」。

 「先生の奥様が、屋外であれほど長時間にわたって話されたことは滅多にありません。約5000人が一心に聞き入りました」(油布章子、滋賀総県婦人部総合長)

 その場に同行した長男の池田博正(副理事長)。

「両親は滋賀の方々に少しでも喜んでいただこうと細かく相談を重ねていました」。会場には池田会長が前月、訪中した際に買い求めた切手や絵葉書など、記念の品々も届けられた。

 前夜に完成したばかりの「母の曲」のメロディーもグラウンドに流れた。香峰子は「楽しいご家庭の城を、地域の城を、明日からも元気に守り、発展させていただきたいことを祈りまして、ごあいさつにかえさせていただきます」と結んだ。


 「参加者を激励するため、グラウンドを一周されました。マイクのコードが届かず、手持ちの拡声器を持って回られました」(満田和美、関西副婦人部長)。砂ぼこりの舞う中を歩く香峰子に、「高島から来ました!」と叫んだ女性がいた。宇佐美フサエである。

「琵琶湖の北西に位置する高島は、関西で最も宗門にいじめられた地域の一つでした。宇佐美さんは草創期の高島を築かれた一人です」(森重瑛子、大津常勝県副総合婦人部長)。

「『(学会を離れて)寺につかなかったら葬式に行かへん』と言われた。会合や座談会にまで、坊主や檀徒がやってきて監視されました。寺の御講の入場券も学会員がつくり、その御講の場で坊主は池田先生を罵る。僧俗和合のために耐えるしかなかった」(小川由子、同県副婦人部長)。宇佐美と固く握手した香峰子。

「高島の様子はよく聞いております。絶対に負けないでくださいね」と励ました。

 4年後、この高島本部は「文化祭」を開く(1982年6月6日)。「方面でも県でもなく、一本部で文化祭です。前代未聞でした。来賓も含め、参加者は1200人も集まりました」(満田正明)r。


 宗門の信徒団体として出発した創価学会は、二度の宗門事件を経て、世界宗教としての可能性をさらに開いた。その最初の試練となった第一次宗門事件。「母の曲」誕生から半年後の1979年(昭和54年)4月、池田は会長を辞任した。しかし学会に対する攻撃は止むことなく続いた。

 81年(同56年)から翌年にかけて、宗門の弾圧に耐え抜いた地域が次々と勝利宣言を行った。どの地にも「名も無き城」を守る「名も無き母たち」がいた。その歴史は「誰が人間の道をまっとうしたのか」を照らす鏡でもあるといえよう。

 「宗教の権威」を振りかざす僧らは1979年、池田の会長辞任後も、常軌を逸した学会攻撃を繰り返した。

 反転攻勢の闘いを開始した池田は、嵐の渦中にあった小田原(神奈川)に次いで、雪の秋田、厳寒の茨城を訪問する。

 「誰か讃えむ この母を・・・・・・」

 それは婦人部の歌「母の曲」の一節のままに、苦難を耐え忍んだ名も無き母たちを励まし、ともに立ち上がる旅路でもあった。



 「幼子抱きて 汗流し/尊き元初(がんじょ)の


 使いをば/果たせし日々の 晴れ姿


 /誰か讃えむ この母を・・・・・」


 滋賀研修道場(米原市)のグラウンドに、池田香峰子の声が響いた。1978年(昭和53年)10月22日、第八回「琵琶湖フェスティバル」。前日(21日)に完成したばかりの婦人部歌「母の曲」を、参加者の前で全文朗読した。


 12月15日。城南地域から何台ものバスが熊本文化会館に到着する。自由勤行会の後、会館近くの壱町畑公園に1500人が集まった。

 「クレーン車があって、何が起こるのかと驚きました」(芝優子、熊本池田県婦人部主事)。「『田原坂』を歌おう!」。池田の提案に大歓声があがった。

 「国内最後の内戦」といわれる西南戦争(1877年)。西郷隆盛率いる薩摩軍に包囲された熊本城を開放するため、官軍が砲隊を通せる道は田原坂しかなかった。平凡な坂道が最大の激戦地となった。


 雨はふるふる 人馬はぬれる

 越すにおされぬ 田原坂

 

 右手に血刀 左手に手綱

 馬上ゆたかな 美少年


 天下取るまで 大事な身体

 蚤にくわせて なるものか


 1958年(昭和33年)11月。熊本支部の結成大会で、池田はこの歌を通して語った。「越すにこされぬ田原坂・・・・・・ここのところが大事なのです。広布の戦は越せなかったら退転だ。何があっても、たとえ一人になっても越すのです」。その10年後には、実際に田原坂まで足を運んでいる(1968年11月)。

 歌い終わり、全員で万歳三唱。その瞬間が12月17日付の聖教新聞を飾った。クレーン車で組んだ足場から撮った。笑っている人、泣いている人、両手を突き上げる人・・・・・連日のように続く、ぶち抜きの紙面。全国の読者は、この数年間、誰が耐え忍び、誰が勝ったのかを知った。


 野口悦子(熊本市、副本部長)。壱町畑公園で池田とともに「田原坂」を歌いながら、亡き母、西田住江の歌声を思い浮かべていた。

 西田は戦後すぐに、夫を結核で亡くした。9歳の長男も結核に。次男は5歳。長女(悦子)2歳。苦しい生活が続いた。1954年(昭和29年)10月。東京の妹の紹介で学会に入った。入会4年後には初代の熊本支部婦人部長に就任している。

 「先生の前で歌ば歌ったとよ」。東京の会合から鈍行列車で帰ってくると、うれしそうに語った。西田は地元の名高い合唱団に入っていた。同じく歌が得意な瀬野玲子(第二代の熊本婦人部長)らと、何度か学会の会合で歌声を披露している。得意な曲の一つが「田原坂」だった。

 池田の師、戸田城聖もまた「田原坂」を好んだ。

「田原坂の歌詞には母の心が託されているように思える」。戸田はそう語っている。「傷ついて帰ったわが子を匿って、傷を癒してやる。そして、立派に大きく育てて、天下を取るために、ふたたび世に送り出そうとする、その母の心境がこの歌だと、考えてみてはどうかね」。


 1963年(昭和38年)、西田は九州初の公明党女性市議に。人望が厚く、4期努めた。5期目の当選を果たした1979年(昭和54年)の秋、末期の肺がんが発覚。がんは肺全体を覆い、医師は「今、息をされているのも不思議です」と言った。入院中、西田は聖教新聞を開いた。広告を目にして、涙を流した。発刊間もない池田の歌集『友舞』。その広告には大きく、

 「妙法の 力は山も つらぬくと

   今日も希望に 強く生きぬけ」

 と記されていた。それはかつて、池田から、若き日の西田自身に贈られた和歌だった。

「あの時、母の確信が再び燃えあがったのだと思います」(悦子)。

 抗がん剤治療もうまくいき、痛みもなく、髪も抜けない。「じっとしているほうが苦痛よ」と言って退院し、学会活動の輪に加わった。

 1年後、西田は64歳で亡くなった。「花嫁のような臨終の相でした。最期の病床でも、病が重いと聞いた皆さんがおそるおそるお見舞いに来られるのですが、母が率先して『田原坂』や『同志の歌』を歌い、まるで座談会のように明るかった」(悦子)。のちに池田は『忘れ得ぬ同志』で、西田の生涯を綴っている。

 2002年(平成14年)。熊本は過去最高の世帯数を達成する。なかでも水俣は、第一次宗門事件前の1000世帯を突破した。「1990年代に起こった第二次宗門事件では、水俣から一人の脱会者も出ませんでした」(勝木)。

 同年夏、池田は東京牧口記念会館に「水俣の木」を植樹した。


 81年の九州指導の折、先に触れた二つの原稿と合わせて、池田が贈った書がある。脇書は「昭和53年 霜月(11月)18日」。


 万策つきて

 敗るとも

 天あり 地あり

 師匠あり


 池田がこよなく愛する「一献歌」の一節である。