EIKOの気まぐれ闘病日記 -158ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「宗門による被害がひどかった地域は天草、城北の阿蘇、とりわけ城南の八代、人吉、水俣が厳しかった」(勝木昭八郎、熊本総県総主事)

 学会が寄進した水俣の知見寺。婦人部の中心者だった山岡フミ子(水俣圏副婦人部長)は、毎月のように御講で立たされた。住職が「宗門と学会はどちらが正しいか」と詰問する。

「学会が正しい、と正直に言えない状況です。黙って下を向くしかなかった」。そのやり取りを、檀徒や脱会者が得意げに眺める。中心者ををさらし者にする陰湿な手口だった。

「でも、辛くはなかとでした」。90歳の山岡はゆっくり言葉を継いだ。

「心ん中に、池田先生がおんなはったです」。

 水俣の180人が、池田の招待で鹿児島・霧島の九州総合研修所(当時)を訪れたことがある(1974年1月24日)。

 「私は、皆さんが宿命に怯まず、絶望に負けず、自分自身に打ち勝ち、ここに集われたことをよく知っております」。直接、間接に水俣病で苦しんできた同志を、池田は心から励ました。知恵をこらした企画を準備し、


 「水俣の 生命の花に 朝の露」

 「水銀の 苦海の彼方は 虹の華」

 と詠んで贈った。

 「あの時、『幸福の地下水脈は確かにつくったよ』とおっしゃってねえ」。寺で足蹴にされた時も、山岡の胸には池田の声が響いていた。


 水俣は決して弱い組織ではなかった。名作『苦海浄土』で世界的に知られる作家・石牟礼(いしむれ)道子が貴重な証言を残している。

「今まで水俣にいて考えるかぎり、宗教も力を持ちませんでした。創価学会のほかは、患者さんに係ることができなかった」(『石牟礼道子対談集』河出書房新社)。

 その水俣が切り崩された。ある支部は8つの地区のうち、じつに7人の地区部長が脱会した。熊本県婦人部長だった福山晶子は、前任の沼川良子とその地域を励まして歩いた。福山自身、熊本市内の寺で行われた親戚の結婚式に出席した時、その場で住職から「まだ学会の経本を使っているのか」と詰られた辛い思い出がある。祝いの席までいじめの場と化していた。

 中滝美智子(当時、ブロック担当員)に、「よくぞ思いとどまりましたね」と声をかけた。「その時の返事が今も忘れられません」と福山は振り返る。小柄な中滝は、からりと答えた。

「私は聖教新聞を配達しとるとです、私が退転したら、誰が配るとですか」。

 戸田も池田も「信心に役職は関係ない」と徹底してきた。現在、91歳の中滝。師の言葉通りの生き方を貫いてきた一人である。

 かつて湯浦駅前に食堂を出したが、負債がかさんで店を畳んだ。新宗教にお金をつぎこみ、さらに借金が増えた。見かねた知人の勧めを2年間断り続けた後、1958年(昭和33年)に一家で入会。一度決めたら家族の誰より熱心に弘教に歩いた。中滝は聖教新聞を「池田先生からの手紙」と言って、誇りを持って配った。何台もバイクを乗りつぶした。


 知見寺。御講の席で週刊誌を手に、いつものように学会批判が始まった。老齢の婦人が立ち上がった。

「私たちはどがんなってもよかばってん、先生の悪口はやめてください」「破門だ。出て行け!」。

 別の日、違う婦人が「池田先生のことは言わんでください」と抗議し、同じく”破門”が告げられた。

 「御講が終わるとその婦人は庫裏まで乗り込みました」(賀来友雄、熊本城南県主事)。

 檀徒らが待つなか、住職が庫裏に姿を現わすと、その婦人は「今月の『大白蓮華』に、十四誹謗(=仏法者が犯してはならない行為)が書いてあります。ご僧侶でも同志の悪口を言うたら謗法ですたい!」。座が凍りつく。住職が目をむいて怒鳴るなか、「言うべきことを言ったので、帰ります」。さっさと寺を後にした。「痛快でした。幹部が言えないことをはっきり言ってくれた」(賀来)。

 


「あれはうちの凧だね。あそこが会館だな」。同行スタッフより早く池田が見つけた。3つの凧が空高く舞っていた。

 12日午後2時過ぎ、阿蘇の九州白菊講堂に到着。もくもくと煙がのぼっている。

「猪豚を使った”獅子汁”を煮ていました」(宮本和子、城北本陣県婦人部主事)。すたすたと近づいた池田は「何つくってるの?」。裏方の女性40人に「エプロン・グループ」と命名した。

 大凧を揚げたのは高校生たちだった。

「寒かったろう。見たよ、見たよ。ありがとう!」。本田雄三(熊本平和圏長)の冷えた手を両手で包んだ。

 会場いっぱいに菊を飾った女子部の有志には「白菊の その名の如き 乙女等が 茜の夕日に 瞳ひかりぬ」、壮年が徹夜で完成させた茅葺き小屋には「まごころの 萱の嬉しき 金の家」と、次々に詠んで贈った。3本の植樹に「池田黐(もち)」「熊本桜」「城北槻(つき)」と命名。

「なぜ池田とつけたかわかるか」。東京から来た最高幹部に問うた。黙ったまま答えられない。池田は自分の胸に手をあてた。「阿蘇は私の、ここにあるんだよ」。

 2時間ほどの滞在を終え、熊本文化会館へ。実情をじっくりと聞いて「文化祭をやろう。3000人の来賓を呼ぼう」と提案した。

 翌13日夜。2000人の県幹部会を終えた後、池田は聖教新聞熊本支局に立ち寄った。

「新聞はまだかな」。聖教新聞14日付の早版を載せたトラックが、福岡から向かっていた。平川照規(福岡市、副本部長)が50部ほどの新聞を抱えて支局に入った。「届きました!」。池田が1面をめくった。そぞき込んだ全員が唸った。岡城址での記念撮影の写真が2・3面の見聞きで載っている。同紙では初めての試みだった。九州指導に同行した記者の松川徳川宜照。

「あの岡城の本丸跡から下りる前、先生は『見開きで出せるか』と提案されていました」。

 1981年(昭和56年)の師走、この竹田の記念撮影をしのぐ大きさで見開き2・3面をぶち抜いた地域が、熊本と小田原だった。


 13日の午後、池田は学会員が営む喫茶店を訪問し、熊本のリーダーたちと懇談している。

「先生自らカウンターに入ってコーヒーを注いでくださり、話しやすい雰囲気をつくってくださった」(坂田良子、熊本池田県婦人部主事)。坂田は天草を担当していた。各地の状況が次々と報告された。

 日程上、すべての地域を回ることができない。翌14日は久留米、八女などを訪問する。

「15日、熊本文化会館に各地の代表が集えることが決まり、大急ぎで連絡を回し始めました」(高田葉子、熊本城南県婦人部主事)。

 池田は岡城址で多くの写真を撮った。太鼓櫓跡で鈴なりに並んだ学会員、はるかな山並み・・・・・二の丸の石垣を撮る時は崖のきわまで近づいている。

「難攻不落は、この石段のおかげだね。日本に幾つもない石垣だ」。

「駐車場を出発するバスを、手がちぎれるくらい振って見送りました」(麻生サケエ)。

曲がりくねった道を、バスは右、左、右と向きを変えた。そのたびに池田夫妻は車内を移動し、手を振り続けた。

 目まぐるしい日程の中、池田と会えなかったメンバーを数多くいた。衛藤昇。竹田を擁する豊後池田圏の圏長を務める。

「あの日は両親と妻の4人で、家で題目をあげていました」。

大正生まれの父・九州人と母・ハルエに信心を学んだ。中学生の頃、よく家族全員で座談会に行った。三重町での会合から帰る時は、家のある清川町まで13,4キロの山道を歩いた。

「闇夜に提灯を掲げ、学会歌を歌って、体の弱かった姉に歩調を合わせて。最高の思い出です」。「そうやって築かれた創価の世界は海外にもたくさんあります。先生の1度も来られていない国で、信心に励む人に、今こそ学ばねばならんね、と声をかけ合っています」。


 「私と会った人も大事だが、会わなかった人は、もっと大事だ」。池田はのちに語っている。

「旅の無事を祈り、真剣に題目をあげ続けてくださったんだ。その方々と、私は心で会った。その方々のおかげで、学会は勝ったんだ」

 トンネルを抜けたバスは、国道57号を熊本へひた走った。

 岡城が築かれた断崖は、稲葉川と白滝川に囲まれている。1586年(天正14年)、2万を超える島津の軍勢が岡城に襲いかかった。周辺の城が次々と落ちていくなか、18歳(一説には20歳)の城主・志賀親次は、わずか1000余りの手勢で守りきった。敵将の島津義弘は親次を「天正の楠木(正成)」と讃えた。城跡は今も発掘調査が続いている。

 竹田支部の支部長だった佐田俊夫。「若き日から『荒城の月』を愛唱された池田先生を、この古城に迎えることが私たちの長年の夢でした」。

 作曲家の滝廉太郎は、少年時代に遊んだこの岡城址を思い「荒城の月」を作曲したといわれる(1901年)。作詞した土井晩翠は、早世した滝を偲んで「世界にひびく韻律は 月照る限り朽ちざらむ」と記した。

 「その本丸跡まで登ったほうがいいのか」「ぜひ登って頂きたいと思います」。揺れるバスの中で、山本武は池田夫妻に岡城址の説明をしていた。竹田行きが正式に決まったのは前日の夜だった。駐車場のレストランで竹田本部、三重本部の代表と懇談することは決まっていた。妻の香峰子が加勢した。

「もう二度と来られるかわからないのですから、登った方がよろしいのではありませんか?」。この一言が決め手となった。


 続々と岡城址に人が集まる。自宅から1時間、2時間の道のりを歩いて集う人々もいた。先発していた丸岡善治と九州総合長の吉橋侃は、300人前後を本丸跡まで先導した。

 15分ほどかかる石段。足を痛めていた田崎アヤ子(竹田市、支部副婦人部長)は杖をついて登った。

「途中から青年部の方に支えてもらった。本当に助かりました」。老人を背負って登る男子部員もいた。千年の盛衰を見つめてきた石段を、衣の権威の暴風雨に耐えた母たちが黙々と踏みしめていった。

 バスを運転していた坂下英雄(千葉・副本部長)。「駐車場に降り立った先生と奥様に、駆け寄る学会員さんの表情、涙・・・・・・一生忘れられません」。その駐車場での一部始終を、「創価学会が大嫌いだ」という男性が見ていた。後藤直樹。31歳の板金職人だった。

「妻と3歳の娘を、車で岡城址まで送りました。正直、行きたくなかった」と笑う。

 妻の由美子(豊後池田圏副婦人部長)。「夫は信心に猛反対で。御本尊は押入れに安置して、夫が仕事に出たら静かに題目を唱えていました」。会合にも参加できない日々を重ねていた。

「『この日だけはお願いします』という妻の真剣さに押されて、仕事の都合をつけたんです」(直樹)。

 由美子が3歳の娘を連れて本丸跡へ登っていく。直樹は駐車場の入り口近くに車を停め、車内で待った。

 「父も叔父も学会嫌い。宗教指導者なんて、どうせ威張りちらしているんだろう、と私も決めつけていた」

 ゆっくりと池田の乗ったバスが入ってきた。目の前で止まった。抜けるような青空の下、車の窓越しに見た光景が直樹の人生を変えた。

「身震いするような、人間のすごい力を感じた」と振り返る。「庶民の海の中に、自分から飛び込んでいく人、というか・・・・・週刊誌が言ってきたこととは一体何だったのかと思った」。

 池田が岡城址を出発するにも居合わせた。「信心もしていないのに、なぜか泣けてしかたなかった」と語る。「なんというか、仕事とか、今までのいろんな苦労が報われた気がした。あの場にいて本当によかった」。

 3ヵ月後、直樹は信心を始める。「ずぐやりたかったが、それまで反対してきた手前、妻から声をかけられるのを待ちました」と苦笑いをした。地元の地区部長も努めた。後藤夫妻の自宅は、竹田支部の中心会場となって今年で25年目を迎えた。3歳だった娘の奈津美は今、大分総県女子部長として活躍している。


 三の丸跡から二の丸跡へ。左手に久住連山の絶景が見える。池田は空井戸の前で男子部員たちと握手を交わした。その一人、吉岡順一(大分戸田県副県長)。「母のチスは、私の兄の小児麻痺と、父の酒癖が理由で信心を始めました。踏まれても蹴られても題目をあげ抜く人でした」。

兄は少しずつ自分で歩けるようになり、順一と同じ会社で働いた。父の重光もやがて母と折伏に歩くようになった。

 握手を終え、池田が男子部に呼びかけた。「君たちのことは生涯忘れない。私についていらっしゃい」。最後の急な石段を登りきり、本丸跡に着いた。吉岡は、池田の肩越に沸き起こる歓声を聞いた。春のような風が頬をなでた。孫を抱いて師の前に立つ、母の笑顔が見えた。

 やがて「荒城の月」の大合唱が、岡城址に響きわたった。


 いつも沢山のペタやコメントをくださり、ありがとうございます<m(__)m>


 私事ですが、息子の旅立ちまで1ヶ月を切り、何かとバタバタ忙しくなってきました。


 ここ数日、140件を越えるペタが続いていて、ペタ返しが遅れ気味となっています。


 しばらくペタ返しが遅くなりますので、よろしくお願いします<m(__)m>