岡城が築かれた断崖は、稲葉川と白滝川に囲まれている。1586年(天正14年)、2万を超える島津の軍勢が岡城に襲いかかった。周辺の城が次々と落ちていくなか、18歳(一説には20歳)の城主・志賀親次は、わずか1000余りの手勢で守りきった。敵将の島津義弘は親次を「天正の楠木(正成)」と讃えた。城跡は今も発掘調査が続いている。
竹田支部の支部長だった佐田俊夫。「若き日から『荒城の月』を愛唱された池田先生を、この古城に迎えることが私たちの長年の夢でした」。
作曲家の滝廉太郎は、少年時代に遊んだこの岡城址を思い「荒城の月」を作曲したといわれる(1901年)。作詞した土井晩翠は、早世した滝を偲んで「世界にひびく韻律は 月照る限り朽ちざらむ」と記した。
「その本丸跡まで登ったほうがいいのか」「ぜひ登って頂きたいと思います」。揺れるバスの中で、山本武は池田夫妻に岡城址の説明をしていた。竹田行きが正式に決まったのは前日の夜だった。駐車場のレストランで竹田本部、三重本部の代表と懇談することは決まっていた。妻の香峰子が加勢した。
「もう二度と来られるかわからないのですから、登った方がよろしいのではありませんか?」。この一言が決め手となった。
続々と岡城址に人が集まる。自宅から1時間、2時間の道のりを歩いて集う人々もいた。先発していた丸岡善治と九州総合長の吉橋侃は、300人前後を本丸跡まで先導した。
15分ほどかかる石段。足を痛めていた田崎アヤ子(竹田市、支部副婦人部長)は杖をついて登った。
「途中から青年部の方に支えてもらった。本当に助かりました」。老人を背負って登る男子部員もいた。千年の盛衰を見つめてきた石段を、衣の権威の暴風雨に耐えた母たちが黙々と踏みしめていった。
バスを運転していた坂下英雄(千葉・副本部長)。「駐車場に降り立った先生と奥様に、駆け寄る学会員さんの表情、涙・・・・・・一生忘れられません」。その駐車場での一部始終を、「創価学会が大嫌いだ」という男性が見ていた。後藤直樹。31歳の板金職人だった。
「妻と3歳の娘を、車で岡城址まで送りました。正直、行きたくなかった」と笑う。
妻の由美子(豊後池田圏副婦人部長)。「夫は信心に猛反対で。御本尊は押入れに安置して、夫が仕事に出たら静かに題目を唱えていました」。会合にも参加できない日々を重ねていた。
「『この日だけはお願いします』という妻の真剣さに押されて、仕事の都合をつけたんです」(直樹)。
由美子が3歳の娘を連れて本丸跡へ登っていく。直樹は駐車場の入り口近くに車を停め、車内で待った。
「父も叔父も学会嫌い。宗教指導者なんて、どうせ威張りちらしているんだろう、と私も決めつけていた」
ゆっくりと池田の乗ったバスが入ってきた。目の前で止まった。抜けるような青空の下、車の窓越しに見た光景が直樹の人生を変えた。
「身震いするような、人間のすごい力を感じた」と振り返る。「庶民の海の中に、自分から飛び込んでいく人、というか・・・・・週刊誌が言ってきたこととは一体何だったのかと思った」。
池田が岡城址を出発するにも居合わせた。「信心もしていないのに、なぜか泣けてしかたなかった」と語る。「なんというか、仕事とか、今までのいろんな苦労が報われた気がした。あの場にいて本当によかった」。
3ヵ月後、直樹は信心を始める。「ずぐやりたかったが、それまで反対してきた手前、妻から声をかけられるのを待ちました」と苦笑いをした。地元の地区部長も努めた。後藤夫妻の自宅は、竹田支部の中心会場となって今年で25年目を迎えた。3歳だった娘の奈津美は今、大分総県女子部長として活躍している。
三の丸跡から二の丸跡へ。左手に久住連山の絶景が見える。池田は空井戸の前で男子部員たちと握手を交わした。その一人、吉岡順一(大分戸田県副県長)。「母のチスは、私の兄の小児麻痺と、父の酒癖が理由で信心を始めました。踏まれても蹴られても題目をあげ抜く人でした」。
兄は少しずつ自分で歩けるようになり、順一と同じ会社で働いた。父の重光もやがて母と折伏に歩くようになった。
握手を終え、池田が男子部に呼びかけた。「君たちのことは生涯忘れない。私についていらっしゃい」。最後の急な石段を登りきり、本丸跡に着いた。吉岡は、池田の肩越に沸き起こる歓声を聞いた。春のような風が頬をなでた。孫を抱いて師の前に立つ、母の笑顔が見えた。
やがて「荒城の月」の大合唱が、岡城址に響きわたった。