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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 池田は前方に座っていた青年部男女5人を次々に指名し、「何か挨拶を」と促した。そのなかの一人、林眞二(別府市、本部長)は入会6年目だった。

「先生の目の温かさと、場内の熱気が忘れられません」。

 席上、池田は「冥益(みょうやく)」の話をしている。「冥益とは、子どもがだんだん大きくなるように、雪がだんだん積もるように、木がだんだん大木になるように、すぐ目には見えないけれども、自分自身に功徳の滋養をあげることだ。そうやって山を乗り越えるんです」。

「全国の青年部が、諸君の今日の様子を知りたいと待っている・・・・・諸君に責任を、願いを、託する儀式をここで私は残しておきたい」。

聖書は一部分が間に合わず、赤字だらけのままだった。

「発表する方の手が震えていたことを覚えています」(山田トモエ。別府市、支部副婦人部長)。

 「・・・・・今日も太陽は昇る。春の桜の朝(あした)にも、かの炎熱の日々にも、紅葉の秋にも、吹雪と嵐の曇天にも、悠然と太陽は昇る・・・・・若き君達よ、青春とは太陽の異名である」

 朗読が進むにつれ、「願いを託する儀式」という言葉の重みを、参加者たちは徐々に実感していった。

「私は諸君の成長をひたすら待っている、否、祈っている。それしか広宣流布の道がないことを知っているからだ」

「今、君達が存在するその場所で断じて勝たねばならない・・・・・かりに、不運にも姿は敗れることがあったとしても信心の二字だけは決して敗れてはならない・・・・・・」

 朗読が終わった。余韻がさざめくなか、池田は語った。「明日の新聞の三面に、そのまま出ますから、今日は忘れて結構です」。笑いが弾ける。

「大分の地で、今日の大切な儀式を踏んだことを、皆さん方の誇りとしてください」。

会長辞任後、これだけの長さの池田の詩作が発表されたのは初めてのことだった。

 翌年の5月、この長編詩を原型として、女子部合唱文化祭のテーマ曲「青年よ 広布の山を登れ」(作詞=山本伸一、構成=野田順子、作曲=甲斐正人)が生まれた。雄大な曲と簡明な詞は、年を経るにつれて広く親しまれ、池田の描いた理想、青年への期待を象徴する歌となっている。


  愛する君達よ  君らこそ

  悠々たる大河の流れだ

  この流れは  誰人にも

  止めることはできない

  いかなる妨げがあろうとも

  さらにさらに

  水かさを広げながら

  海原に向かって

  流れていくに違いない


  青年とは 希望とは 真実とは

  広宣流布という

  友のための法戦を

  貫きゆくことなのだ


 長編詩発表の2日後(12月12日)。朝、丸岡たちは報告することがあり、池田の部屋を訪れた。

「先生は、壁を向いて横になっておられました」。「やあ」と起き上がった池田。「実はよく眠れなかったんだよ」と微笑んだ。

「大分のみんなのことを思うと、かわいそうで、かわいそうで」。

絶句する丸岡に、池田は語った。

「会えなかった人たちに、私の代わりに、私の心を伝えてくれないか」。9時半、会館に集まっていたメンバーと勤行。10時、池田たちを乗せたバスは、竹田市の岡城址に向けて出発した。

 男子部の運営役員だった吉田誠。「10日朝、会館前の駐車場で先生に呼ばれました」。創価班など10数人との懇談が始まった。「いましかない」。吉田は思った。母の庚子(みちこ)から「もし先生にお会いすることがあれば、渡して」と手紙を託されていた。

 父が妻子を置いて家を出ていったのは、誠が中学2年の時だった。庚子は地元で書道教室を開き、子どもの学費を稼いだ。永石支部で支部婦人部長を努め、折伏は120世帯を超えた。地域の人々がどれほど宗門にいじめられたか、池田宛てに、つぶさに綴った。

「美しい字だなあ。あとで必ず読むからね」と応えた池田は、封筒を妻の香峰子に手渡した。

「翌日、先生の筆で『吉田桜』と揮毫された色紙が届きました。母はこの色紙を誇りにして、88歳まで生き抜きました。


 「みんな女子部かい?」。大分平和会館の1階廊下。池田はばったり出会った4人の婦人部員に声をかけた。中村介子(よしこ)。小崎桂子、村井ハツエ、宗加保留。別府で苦労してきた。

「皆、立派なおばさんでしたけど、『はいっ!』と返事しました」(小崎)。

 「一緒に勤行しよう」。廊下の奥にある管理者室に向かった。松田純之助(大分総県副総県長)。

「昼の1時前でした。先生は六畳の仏間に入られました。まさかあんな小さな部屋で、あのあと口述筆記が始まるとは、想像もしていませんでした」。

 唱題を終えた池田は、大分名物の鳥天入りの弁当を4人に振る舞い、一緒に昼食をとった。

「懇談の合間も、分厚い手紙の束をどんどん読み進めておられました」(中村)。

 「入会当初、座談会に集まる人のなかには、下駄の歯がなくて、草履だか何だかわからないようなものを履いている人もいた」と91歳の村井は語る。

「でも皆、人がよかった。悩む人をバカにせず、温かかった。この同志の世界を守ろうと思い、懸命に生きてきました。青年への指針を発表される直前にお会いできたことは、生涯の誉れです」。

 「突然、立ち上がった先生は一言、『よし、やろう!』と言われました。それが合図でした」(小崎)


 大分到着の8日夜、池田は「学会は一切を青年に託してきた」「青年に何か書き贈りたい」と語っている。10日午前も青年部首脳らと打ち合わせを重ねていた。大分の青年部からはほとんど退転者が出なかった事実も報告された。同行した聖教新聞記者の白井昭。

「学会の未来を青年に託したい。青年しかない。四六時中、そう考えておられた。あの6畳の仏間で、それまでの思案が奔流のように噴き出たのだと思います」。

 「なぜ、山に登るのか・・・・・・」。口述が始まった。婦人部4人が仏間を出て、青年部が5人がかりで筆記し始めた。切れ目なく約40分続いた。

「清書しておいて」。午後3時半、池田は市内の懇談会場へ向かった。

 中津を中心に活躍した井上次雄。「懇談の折、先生は『さあ、新しい学会の出発だ!』とおっしゃった。その一言に胸が燃えた」と書き残している。懇談の最中も、池田は長編詩に追加する文言を次々に指示した。懸命に書き取った笠貫由美子(副総合婦人部長)。

「先生の目の前に原稿はないのに、追加すると、まるで原稿を見て書いたかのようにピタリと表現が当てはまりました」。

 「『急いで来て!』と管理者室に呼ばれ、数人で清書を手伝いました。原稿のいたるところに追加や赤字、矢印が書き込まれていました」(川内知與子。別府市、支部副婦人部長)

 夕方5時半。池田は大分平和会館に戻った。「玄関で『原稿はどうなった!』と叫ばれ、ものすごい気迫で1階の応接室に入られました」(松田敦子、大分池田県副婦人部長)。

 夜7時から、2500人の県青年部幹部会が行われる予定だった。すでに館内は満員である。長時間、待たせられない。会合スタートを6時過ぎに切り上げた。さらに激しい推敲が続く。「行くぞ」。池田が会場に入ったのは6時53分だった。



 「悪知識とは真っ向から戦って結構です」。懇談が続く。「彼らは学会員を見下し、侮辱し、尊厳をふみにじり、邪悪な言葉を使いながら、人間としてこれ以上ないくらい理不尽なことをしてきた・・・・・・仏法は勝負です。皆さんは正しいかったんです」。

 池田の言葉に嗚咽をもらす者もいた。参加者の中には、読み書きができなかった四童子イトエもいた。別府一の貧乏と言われた岡本弘もいた。弘の妻である睦野──5日間の大分指導の間、一度も池田と会わなかった。

「おふくろはあの5日間、先生の旅の無事を祈り、自宅で題目をあげていました」(博幸)。

 また池田は地元に親しまれてきた会場の幾つかを訪問している。

 県東部の国東の功労者、和田ハルエ宅(8日)。「和田さえ落とせば地元組織はつぶせる」と攻撃の標的にされた。

「学会員を取り込もうと、檀徒は畑仕事の最中にも押しかけてきた。母は『盗人するな!』と一喝して追い返しました」(田島京子、大分牧口県総合婦人部長)。

池田が婦人部幹部と語り合った円城寺美智子宅(9日)。敗戦で満州から引き揚げ、大分の草創期を支えた一人だ。一連の行事役員をねぎらった個人会館(11日、平井会館)。

「竹田出身の母・英子が”皆さんが気兼ねなく使える会場を”と完成させました」(娘の佐藤真理子。福岡市、支部副婦人部長)。

懇談会の席上、音楽教室を営む真理子はピアノを演奏した。「あなたの好きな曲を」と池田から言われ、「荒城の月」を弾き語りした。その時、池田は「竹田に行きたいなあ」と周囲に語りかけている。


 大分平和会館に続々と人が詰め掛けた。「一番なのは民衆です。いわんや、御本尊を持った民衆は、何ものも恐れる必要はない。これが創価学会の底力です」(9日、県幹部会)。

池田は「弾圧があるのは信仰の宿命であるといっても過言ではない」とも話している(11日、自由勤行会)。

 「ここ数年、大変理不尽な暴言、攻撃を受け、苦しめられ、そのつらさはひとしおだろうと思います・・・・・・(昭和)51年頃から、一部のマスコミと連携をとりながら、学会をつぶそうとする陰謀だった・・・・・・徐々にそれが明確になりました」

 「これだけの大難をよくぞ乗り越えてこられた・・・・・皆さんが幸せになれば、私がどんなにいじめられても、全部、勝利です。もっと功徳をもらってほしい。それば私の願いです」

 12月10日午前。池田は大分平和会館の屋上から周辺をを見渡した。近接する新大分球場を指さし、井出督郎(大分総県総主事)たちに「あの球場で文化祭をやったら素晴らしいだろうね」と語っている。

 5ヵ月後、同球場で大分平和文化祭が実現した。県知事をはじめ来賓2500人が出席した。

「先生が一つ提案されるごとに、古い大分が音を立てて変わるのを感じました」(井出)。

 10日、池田は激励の合間を縫って、400行を超える長編詩をつくった。「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」である。この81年と翌82年、学会は2年連続で「青年の年」というテーマを掲げていた。

 別府圏本部長の宗亮作。顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

「別府文化会館に着かれた先生は宗さんに『泣くんじゃないよ。私が来たんだから、もう大丈夫だ』と声をかけられました」(佐藤寿治、別府英雄圏総合長)。

池田は居合わせた友と勤行をした後、「長い間、お宗門問題で苦しい思いをさせて申し訳ない」「皆さんは勝ったんです」と語った。「もう私が来ましたから、安心してください。あとは幸せになって、最高の人生を生き抜いてください」。

 その日の夜。約400人が参加した懇談会(大分平和会館)で、池田は「悪知識」(=仏道修行を妨げる存在)を破折する御書を拝読した。

 ──悪知識と申すは甘くかたらひ詐(いつわ)り媚(こ)び言を巧みにして愚痴の人の心を取って善心を破る──


 そして続けた。「大分の地においても、どれほどか大勢の人が、悪知識のために悩み、苦しみ、嫌な思いをしたか。それは言語に絶するものがある。その時の私の気持ちは、昭和52年に書いた、何枚かの原稿があります。それをそのまま、大分に持ってまいりました」「もう一つは、聖教新聞社でつれづれに書いた原稿です」。これらの内容は23年後の2004年(平成16年)に公表された。

 「宗門問題起こる。心 針に刺されたる如く 辛く痛し」──1977年(昭和52年)12月4日、悪化する宗門との関係を修復するため、池田は宮崎の定善寺を訪問。法主の日達と話し合う場を設け、対話は宮崎市内でも続けられた。その日、宿舎で書いた文章である。

 「広宣流布のために、僧俗一致して前進せむとする私達の訴えを、何故、踏みにじり、理不尽攻撃をなすのか」

 「大折伏に血みどろになりて、三類の強敵と戦い、疲れたる佛子(ぶっし)に、何故、かかる迫害を、くりかえし来るのか、私には、到底理解しがたき事なり」

 「尊くして 愛する 佛子の悲しみと怒りと、侘しさと辛き思いを知り、断腸の日々なりき。此の火蓋、大分より起これり・・・・・・誠に無念なり」

 丸岡は「『君たちにばかり苦労はさせない。私も一緒に苦しんだのだ』という先生の心がそのまま形になったような原稿でした」と語る。

 もう一つの、”聖教新聞社で書いた原稿”は、「昭和54年、4月24日(火) 晴れ 次第に 曇りゆく」という書き出しで始まる。

 「聖教本社 1階ロビーにて、記者会見 7時より 私は7時32分に出席せり・・・・・・宗門の厳たる未来を思いつつ、学会の将来を そして、愛する会員同志のことを深く思いつつ、この電波、電撃の如く 日本中に走り響きゆく 一夜であれり 后(=午後)8時55分 記す」

 ──「池田先生の歴史を永遠に残すため、この二つの原稿の原本は、学会本部に戻しました」(山本武)

 


 「大分のリーダーは皆、『今回の問題の発火点であるこの大分に、池田先生を無事、迎えることができれ

ば、それが学会の勝利だ』という思いで戦いました」(森保純子)

 会長辞任の1979年(昭和54年)以降も、週刊誌などの中傷記事は増える一方だった。その中で大分

は、会長辞任の翌80年、81年と、かつてない弘教を行い、九州一の結果を勝ち取る。宗門事件全体の

約一割が脱会したが、ほぼ元通りの陣列に戻した。袋叩きに狂奔する一部マスコミと、一対一の対話と、

どちらが人の心に響くのか。一つの結果を示したといえる。


 大分県本部長だった丸岡善治。

「師と弟子の間を切り裂く。それが敵の狙いでした」。

池田のもとへ大分の首脳16人駆けつけた(1979年11月21日、箱根研修所(当時))。何を報告する

か。夜行列車で寝ずに話し合った。

「竹田は」「日田は」「別府は」・・・・・・懇談は2時間近くに及んだ。

 その最後に丸岡たちは「先生から大分の支部長、支部婦人部長全員に年賀状を送っていただけませんか」と頼んだ。

「異常事態のなか、なんとかして現場を励ましたかった。失礼を承知でお願いした」。池田は快諾。

「数が少ないな。もっと多く出そう」と大分の名簿を取り寄せた。県下の200世帯を超える郵便受けに「瑞

春」「創価学会名誉会長 池田 大作」と記された年賀状が届いた。

「本当にびっくりした。何よりの励みになりました」(子守敏之、大分創価圏副圏長)。

 1980年(昭和55年)秋。池田は丸岡たちを自宅に招いた。体調が優れず、創価大学での行事を休ん

だ日だった。妻の香峰子が手料理でもてなした。

「大分のことを話してごらん」。徐々に盛り返す最前線の様子を夢中で伝えた。

 81年夏。大分青年部長だった竹中万寿夫は「大分に少年少女部の(小学生)の合唱団が誕生しました」と池田に報告している(8月9日、山梨研修道場)。

「皆、大成長して、列車に乗って全世界を駆け巡る人材になって欲しいなあ」と目を細める池田。

「大分列車合唱団」と命名した。「この時、先生は『必ず大分に行くよ』と言われました」(竹中)。弘教の勢いはいちだんと増した。


 竹中の母サダエが入会したのは1967年(昭和32年)5月。脊椎カリウスを治したい一心だった。

「家を座談会の会場にしましたが、すきま風が通るバラック。雨が降るとバケツとたらいが必需品でねえ」と笑う。薄紙をはぐようにサダエの病状は好転していった。

 万寿夫は明治大学に進学した。父の国重とサダエは重労働の布団業に精を出し、食費を切り詰め、仕送りを絞り出した。東京に届く皺だらけの百円札に万寿夫は胸を熱くした。

 弟の公剛は創価大学(1期生)に合格。

「その朗報を聞いてから、父は亡くなりました」。91歳の今も眼鏡なしで新聞を読むサダエ。

「池田先生の仕事を手伝えるわが子に育てる。それだけが私の願いでした」と語る。


 池田はニューヨークの友に贈った長編詩、創価大学での講演「迫害と人生」、四国の「紅の歌」と、反転攻勢の道を一歩ずつ進んできた。内外の蠢動に耐えた日々。その陰には幾多の母たちの祈りがあった。

 1981年(昭和56年)12月8日、午後3時20分。「来たよ!」。大分空港に池田の声が響いた。

 今も語り継がれる9日間の九州指導が始まった。