「悪知識とは真っ向から戦って結構です」。懇談が続く。「彼らは学会員を見下し、侮辱し、尊厳をふみにじり、邪悪な言葉を使いながら、人間としてこれ以上ないくらい理不尽なことをしてきた・・・・・・仏法は勝負です。皆さんは正しいかったんです」。
池田の言葉に嗚咽をもらす者もいた。参加者の中には、読み書きができなかった四童子イトエもいた。別府一の貧乏と言われた岡本弘もいた。弘の妻である睦野──5日間の大分指導の間、一度も池田と会わなかった。
「おふくろはあの5日間、先生の旅の無事を祈り、自宅で題目をあげていました」(博幸)。
また池田は地元に親しまれてきた会場の幾つかを訪問している。
県東部の国東の功労者、和田ハルエ宅(8日)。「和田さえ落とせば地元組織はつぶせる」と攻撃の標的にされた。
「学会員を取り込もうと、檀徒は畑仕事の最中にも押しかけてきた。母は『盗人するな!』と一喝して追い返しました」(田島京子、大分牧口県総合婦人部長)。
池田が婦人部幹部と語り合った円城寺美智子宅(9日)。敗戦で満州から引き揚げ、大分の草創期を支えた一人だ。一連の行事役員をねぎらった個人会館(11日、平井会館)。
「竹田出身の母・英子が”皆さんが気兼ねなく使える会場を”と完成させました」(娘の佐藤真理子。福岡市、支部副婦人部長)。
懇談会の席上、音楽教室を営む真理子はピアノを演奏した。「あなたの好きな曲を」と池田から言われ、「荒城の月」を弾き語りした。その時、池田は「竹田に行きたいなあ」と周囲に語りかけている。
大分平和会館に続々と人が詰め掛けた。「一番なのは民衆です。いわんや、御本尊を持った民衆は、何ものも恐れる必要はない。これが創価学会の底力です」(9日、県幹部会)。
池田は「弾圧があるのは信仰の宿命であるといっても過言ではない」とも話している(11日、自由勤行会)。
「ここ数年、大変理不尽な暴言、攻撃を受け、苦しめられ、そのつらさはひとしおだろうと思います・・・・・・(昭和)51年頃から、一部のマスコミと連携をとりながら、学会をつぶそうとする陰謀だった・・・・・・徐々にそれが明確になりました」
「これだけの大難をよくぞ乗り越えてこられた・・・・・皆さんが幸せになれば、私がどんなにいじめられても、全部、勝利です。もっと功徳をもらってほしい。それば私の願いです」
12月10日午前。池田は大分平和会館の屋上から周辺をを見渡した。近接する新大分球場を指さし、井出督郎(大分総県総主事)たちに「あの球場で文化祭をやったら素晴らしいだろうね」と語っている。
5ヵ月後、同球場で大分平和文化祭が実現した。県知事をはじめ来賓2500人が出席した。
「先生が一つ提案されるごとに、古い大分が音を立てて変わるのを感じました」(井出)。
10日、池田は激励の合間を縫って、400行を超える長編詩をつくった。「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」である。この81年と翌82年、学会は2年連続で「青年の年」というテーマを掲げていた。