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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 熊本でも宗門の非道は目立った。 

日蓮は、四条金吾という門下に「あなたが地獄に入られたら、私も同じく地獄に行きましょう」と書き残して

いる。四条金吾は、日蓮が斬首されかけた竜の口の法難に命がけで同行した。池田はこの御書をもと

に、折に触れて師弟の絆の強さを語ってきた。弟子が地獄へ行けば師も地獄へ行く。師が地獄へ行けば

弟子も行く。そして地獄そのものも浄土へ変えていく。これこそ仏法の力ではないか──日蓮の一節はそ

のまま、苦境の戸田城聖を支え、その遺志を継いだ池田の信条でもあった。

 1979年(昭和54年)4月、熊本の寺。檀徒は畳に座り、学会員は庭に立たされた。聞こえてくる「説法」

に、村田徹(熊本総県副総合長)は耳を疑った。

「池田先生が御書に基づき訴えてきた指定のあり方を揶揄する話でした。檀徒は喜んで奇声をあげた。信じがたいありさまだった」。


 4月24日、池田の会長辞任が発表された。大分平和会館では聖教新聞の販売店主会が開かれてい

た。矢野幸太郎(大分牧口県副県長)は、誰かが「おい、テレビに池田先生が出てるぞ」と叫んだことを覚

えている。一階の事務所に駆け込んだ。「会長勇退」のニュース。誰もが寝耳に水である。

「意味がわからんかった。放心状態になりました」(矢野)。

「なんでや」「学会はどうなるんや」。不安が走り、騒然となった。「うろたえてはいかん!」。声が響いた。県

書記長の山本武(総九州長)だった。

「動揺してはいかんぞ。敵の思うつぼやないか。我々の師匠が池田先生がであることは変わらん」。

山本は宗門や脱会者に対応する責任者だった。

「悲しみよりも、負けてたまるかという怒りのほうが強かった」と振り返る。

 山本の父・繁は腕の立つ一級建築士だった。朝鮮戦争で物価が高騰し、会社は倒産。脳溢血で倒れ

た。一家で入会したのは1958年(昭和33年)の夏である。

「苦しくても勉強だけはしておきなさい」。母のフミエと姉の恵子が大分大学進学を助けてくれた。

 日蓮の重書「御義口伝」を、池田自身が毎月、学生代表に講義する「御義口伝講義」。九州から10人が参加した。山本もその一人だった。

「交通費の7000円を工面するのに苦労しました」。小さな英語塾を開き、一日三軒の家庭教師をかけも

った。母のフミエが質屋に着物を預け、旅費をそっと渡してくれることもあった。

「急行「高千穂」号の二等席で丸一日揺られた。顔を東京駅の洗面所で洗い、池田の講義に臨んだ。

「あの出会いで人生が変わった。先生から『広宣流布』という理想を教わり、生きる希望が見えた。坊主から信心を教わった覚えはない」。


 1979年(昭和54年)7月、法主の日達が死去。別府の寿福寺でも通夜が営まれた。檀家総代だった

荒木明男(大分総県副総県長)。

「早めに本堂に着いたら、突然『通夜の導師をしてくれ』と頼まれたんです」。用事ができたという住職の代

理で急遽、通夜の導師を務めた。

「あれにはあきれた」と荒木は語る。

「宗門は”葬儀で坊主が導師をしないと、故人も遺族も地獄行きだ”と脅して学会員を困らせてきた。その

宗門自身が、”御法主上人猊下”の通夜の導師を、在家にやらせたんです」。学会攻撃を繰り返した僧ら

の一部は80年、「正信会」と名乗り、やがて孤立していく。


 1978年(昭和53年)12月、大分平和会館が落成するが、完成までの間、脱会者たちは「新しい会館


は建たない」「我々は騙された」と騒ぎたて、10人、20人とつるんで大分市新町の学会大分本部に押しか


けた。週刊誌に煽られ、迷う人が増えていった。会館職員だった森保純子。県女子部長の亀井直子らとと


もに矢面に立った一人である。


「ひと月300通の脱会届が届いた時もあった。一通ずつ処理するごとに、胸が裂けそうだった」。

 

森保の母・ユリが信心を始めたのは58年(昭和33年)。4人目の子である次男が先天性の盲目だった。


父は酒に溺れ、平穏な家庭が崩れた。それから20年、母の祈りは父を立ち直らせた。次男は無事に盲


学校を卒業。社会人として立派に巣立った。学会の温かさを肌身で感じてきた。そのかけがえのないつな


がりが、目の前で壊されていく。


「こんなことが一体いつまで続くんですか!」。


先輩に泣いて問いかけた。

 1966年(昭和41年)5月、別府市光町に学会の別府会館が落成した。もとは民家で広間は20畳ほど。小さな会館だった。

 別府に建立された宗門の寿福寺は、この別府会館よりはるかに大きかった。大分・竹田の伝法寺とともに、現地の学会員が土地を探した。

「卓袱台から湯飲み、鍋、米まで用意して宗門に寄進した寺です」(丸岡善治、参議)。そうした寺の僧らが、77年(昭和52年)前後から全国各地で学会員を脅し、池田の中傷を繰り返すようになった。

「第一次宗門事件」。大分はその発端の地の一つである。僧らは学会員の誠意のうえにあぐらをかき、恩を忘れ、法を弘めるという本来の使命を見失っていた。

「寺に行くたび、池田先生の悪口を浴びせられた。わけわからんごとでした」豊後大野市の麻生サケエ(大分戸田県婦人部主事)はノートを取り出した。当時の脱会者の名前が記されている。

「悔しかった。その後もずっと対話に通いました」。

麻生の住む三重町は、竹田氏と並んで宗門の横暴に悩んだ地域だ。

「特に御書を学ばん人は、袈裟を着た坊主にころりとやられた」。

日蓮は、本来の務めを忘れて遊び暮らす出家者の本質を「法師の皮を着たる畜生なり」と断じている。


 竹田市の臼杵テル子(豊後池田圏婦人部主事)。

「昨日まで一緒に活動してきた人らが、家に押しかけ、池田先生を悪く言って帰りよる。不思議でかなわんかった」。東京の動向は伝わってこない。

「先生はお元気じゃろうか。どうなさっとるんじゃろうか」。大工の棟梁だった夫の重信と、竹田の山奥で胸を痛める日々が続いた。

 中津市に住む小久保俊男(大分総県長)。

「先生が会長を辞任される半年前、19歳の妹を交通事故で亡くしました」。葬儀の数日後、寺の住職は、御講に集った人々の面前で「池田を信じているから、妹が死んだのだ」と暴言を浴びせた。小久保は必死で怒りをこらえた。県北の広大な地域を、一人の落伍者も出すまいと駆けずり回った。

「信心は母に学びました」。小久保の母・エミ。常軌を逸した迫害の中、自宅の会場に集う同志たちを毅然として励まし、祈り抜いた。


 「読み書きは学会で学びました」。97歳の四童子イトエ。1914年(大正3年)、大分・佐伯市の農家に生まれた。父を早くに亡くし、百姓仕事を手伝い、小学校も満足に通えなかった。57年(昭和32年)8月に入会。ある時、池田を囲んだ質問会があった。

「教学の質問が多く、仏法用語が飛び交って、さっぱり意味がわからんかった」。

 手を挙げた四童子。

「私は難しいことは知らんが、主人が病気で、息子が不良で悩んでいます。この信心で解決できますか」と尋ねた。

「素晴らしい質問です!」。池田は語気を強めた。

「四童子さんのような悩みを抱えていない人はいますか?」。誰も手を挙げない。池田は懇々と題目の力を語った。

 悩みが解決し、確信を深めた四童子は、池田が九州に来るたび質問を重ね、指導を求めた。今、四童子の御書(日蓮の遺文集)は、大半のページに赤鉛筆で線が引かれ、講義のための書き込みがある。弘教は200世帯を優に超え、対話の達人として慕われた。

 大分市内の賀来に住んだ頃は、近所の学生の面倒をよくみた。現在、国立埼玉病院に勤める小児科医の真路展彰。大分医科大学時代、四童子に信心を教わった一人だ。

「本当の名医とは、四童子のおばあちゃんのように、生命の底から人を蘇生させる人のことだと思います」。

そうした”生命の名医”たちを、池田は一人一人、手ずから育てていった。