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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 1959年(昭和34年)4月。「小学6年の春でした」。博幸が夕刊の配達に出かける前、母の睦野から声をかけられた。

「東京からすごい人が来たのよ。別府駅まで見送りに行くからついておいで」。

 早めに待合室に着いた。睦野は博幸を残して改札口へ見に行った。やがてコート姿の男性が待合室に入ってきた。

「その人は木製の椅子に座り、倒れこむように横になった。かなり疲れた様子でした」。待合室にはほとんど人はいなかった。何分経っただろうか。改札口が賑やかになった。長椅子から跳ね起きた男性を、博幸は見上げた。

「その人は待合室から飛び出し、列車が来るまでプラットホームに集まった人たちと握手し、方を叩き、声をかけ続けていました」。

 博幸は中学を卒業してすぐ働いた。やがて本腰を入れて学会活動を始め、池田の『若き日の日記』を手にした。闘病の記述が多い。”あっ、そうだったのか・・・・・”と気づいた。不意にあの光景が蘇った。

 母に手を引かれて行った別府駅。プラットホームで撮った記念写真をあらためて見直した。左端。白いトレパンを履いた自分。後ろに母いる。写真の中央。30人ほどに囲まれ、コート姿で微笑む男性──池田だった。

「あのお疲れのなか、無理を重ねておられたのか」。言葉を失った。

 別府駅で出会った前日──1959年(昭和34年)4月7日、池田は大分を初訪問し、県教育会館での指導会に出た。その夜も、翌朝も、宿舎で質問会が続いていた。8日には宮崎、9日に鹿児島、10日に福岡、11日に帰京・・・・・会長就任前の苦闘を物語るひとコマに、母と子は居合わせていた。

「おふくろは『この場所で笑われてきたから、この場所で実証を示す』と言っていた。後年、その通りの場所に個人会館が建ちました」。

父の弘は初代の大分県長を努めた。博幸は別府圏男子部長として、会長辞任の嵐に立ち向かうことになる。

「青年よ21世紀の広布の山を登れ」

会長辞任後の内外の暗雲を吹き払う池田の長編詩が発表されたのは、第一次宗門事件の”発火点”

九州──。

僧の横暴に耐え抜いた、健気な母がいた。

来県した池田のもとへ家族を送り出し、行事の成功を祈り続けた母もいた。

1981年12月、大分、熊本で綴られた幾多の同志と池田の”共戦の譜”を追う。


 福山晶子(熊本県婦人部主事)は受話器の向こう側に耳を澄ました。2001年(平成13年)秋。73歳の誕生日だった。孫娘のうれしそうな声が聞こえる。

「おばあちゃんの知ってる曲、弾けるようになったんだよ。聞いてね」。

耳元にバイオリンの穏やかな音色が届いた。目頭が熱くなる。「春、高楼の・・・・・・」。福山は思わず、歌詞を口ずさんでいた。


「春 高楼の 花の宴

めぐる盃 影さして

千代の松が枝 わけ出でし

むかしの光 いまいずこ」


 「荒城の月」。九州創価学会の人々にとって忘れられない歌である。

 1981年(昭和56年)12月。池田は、日蓮正宗(以下、宗門)の僧らの横暴に苦しみ抜いた大分・竹田の同志とともに、岡城址で「荒城の月」を歌った。

「池田先生はそのまま熊本にも来られ、宗門に痛めつけられた天草や城南の友と『田原坂』を合唱されたのです」(福山)。

会長辞任から三度目の冬。池田は「第一次宗門事件」で甚大な被害を受けた地域を、相次いで訪れている。その反転攻勢の旅路を「母」の視点で追った。


 「”別府一の貧乏”と馬鹿にされてね」。岡本博幸(大分総県総合長)が語る。父の弘は大坂の鉄工所で働いていた。太平洋戦争の敗戦で仕事を失い、故郷の別府に引き揚げた。

「屋根も壁もトタン張りの長屋暮らし。水道もなかった」(長女の近藤信恵。別府王者圏婦人部副総合長)。母の睦野と育ち盛りの3人の子ども。米もろくに食べられなかった。知人が睦野に学会の信心を勧めたのは、1956年(昭和31年)の師走だった。

 弘と睦野は「一家和楽の信心 各人が幸福をつかむ信心 難を乗り越える信心」と書いた紙を貼り、折伏に励んだ。弘の勤め先も見つかった。


 「ほとんどの人は、いつか夫を亡くす。あなたは同じ運命に泣く人の友となり、味方となって生きていくんだ」(狩野よね子、山形)。

「いずれは誰でも一人になる。その時に『私をご覧なさい』と胸を張れる信心をしていきなさい。決して卑屈になってはいけない。いつまでも明るく、若々しく」(引間ふじ、埼玉)。

 「どんなつらいことがあっても、泣いてはいけない。泣いているだけではご主人を成仏させることができない。あなたには御本尊様があるじゃないか。幸せになるんだ」(福住ふさゑ、大坂)──いずれも、夫を亡くした婦人部員に池田が語りかけてきた言葉である。

 大坂・守口市に住む福山和子が、夫の晶雄の異変に気づいたのは夜中だった。1982年(昭和57年)の1月末。

「急性心不全です。隣で『うっ』と言ったきり。あっという間でした」。

自営の電気工事店を切り盛りしていた晶雄は46歳。地元組織では本部長を務め、慕われた。43歳の和子は守口圏婦人部長として奮闘していた。

 中学二年の長女、小学五年の長男を抱え、途方に暮れる和子のもとへ、池田から立て続けに激励が届いた。念珠が入った木箱の裏には、池田の直筆で「祈 福運」。主婦として暮らしてきた和子は、守口市内の会社で慣れない事務仕事を始めた。


 「夫の死から半年後、家族の状況と決意を綴って、池田先生の奥様に手紙を書きました」。数日後、一通の封書がポストに届いた。消印を見ると、長野県内からの投函。裏には青いインクで「池田香峰子」と書かれてあった。

「まさかご本人から直接お返事が来るなんて。思ってもみませんでした」(福山)。

「8月とは思へない、不順な天候が続くこの頃でございます。お便りありがとうございました。突然の御不幸にもめげず、働きながら圏婦人部長をおやりになられていらっしゃる事に心より敬服いたし、御健康を心よりお祈

り申しあげます」

 池田から子どもたちへの伝言も書き添えられていた。

「お父様の代わりに、いつも見守っています、と伝えてあげて下さい、と申しております」。

 手紙は「十年間、お子様の為に頑張ってあげて下さい・・・・・長野県松本平和会館にて」と結ばれていた。

 1年後、和子はもう一度手紙で近況を報告した。桜並木の絵はがきが届いた。

「今度は石川文化会館からでした。どこにいても即座にお便りで励まされるんや、とびっくりした。ほんまにありがたかった」(福山)。

 「ご苦労なさった分だけ、先の幸せは大きいのが因果の理法です。これからもどうぞ御健康でご活躍下さいませ・・・・・北陸文化祭終了の日」


 「お手紙にあった『十年間』を指針にした。学会活動も一歩も退かなかった」と福山。簿記資格も取得し、二人の子が大学を卒業するまで、11年働いた。京阪総合本部の副婦人部長として7つの市を3ヶ月ごとに担当した時は「忙しいけど楽しかった」と語る。同じ境遇の婦人部員から「あなたがいるだけでホッとする」と慕われてきた。

「学会活動は相手が心を開いてくれるのがうれしい。そのためには一旦、愚痴も文句も全部、気かなあきません」。

 関西文化会館近くで、池田から「ご主人の分まで頑張りなさい」「負けちゃだめだよ」と励まされる機会もあった。

「もしも信心してへんかったら、『私は不幸な女なの』と愚痴って生きてたやろなあ」。小柄な体を大きく揺すって笑う。

「先生と奥様のおかげで、胸を張って生きてきました」。29年前、池田の提案で守口文化会館に植樹された「福山桜」は今、隆々と枝を伸ばしている。


 1988年(昭和63年)4月、全国婦人部幹部会に出席した池田は「学会で最も大切な記念日である『5月3日』を『創価学会母の日』としたい」と提案した。「5月は世間でも『母の日』があります。しかし先生は『婦人部の皆様を二重に祝福する月としたい』と、重ねておっしゃいました」(高柳洋子、総合婦人部長)。

 1951年(昭和26年)に産声をあげた創価学会婦人部。今年、結成60年を迎えた。

 京都の喫茶店──池田と小塚夫妻の懇談が続いている。「これは?」。池田は机に置かれた紙を手に取った。「雨中嵐山」という詩だった。

 中国の初代首相・周恩来は十代の頃、日本に留学していた。祖国への帰途、京都の嵐山に立ち寄り、詩を詠んで「雨中嵐山」と名づけた。その後、周恩来は「五・四運動」の激動の中で、妻となる鄧穎超(とうえいちょう)に出会った。

「池田先生の第五次訪中から2週間後、じつは学会婦人部も中国政府からの招聘を受け、訪中しました。私はその訪中団の一員として、答礼宴で感謝の舞を披露することになっていました」。(綾子)

 何を踊るか。一つしか考えられなかった。日中友好の象徴である「雨中嵐山」の碑は、まさにわが右京区に立っている。あの詩に合わせた舞踊しかない──訪中を前にして、綾子は猛練習を重ねていた。

 「雨中嵐山」の詩吟のテープに耳を傾けた池田は、「久しぶりに詩吟らしい詩吟を聞いたね」と喜び、「これは答礼宴ではなく、鄧穎超さんに直接、捧げてはどうか」と提案した。

 ちょうど1年前(1979年4月16日)、京都の嵐山公園で行われた「雨中嵐山」の碑の除幕式。周恩来夫人の鄧穎超も出席した。その4日前、池田は都内で鄧穎超と会見している。

 第五次訪中でも、池田は鄧穎超と再開する予定になっていた。小塚夫妻に「私が先に行って、よく伝えておくからね」と言い、店を後にした。


 第五次訪中が始まった。「聖教新聞」で連日、池田の行動が大々的に報じられた。

「時を措かず訪中した私たちは、想像を超える歓待を受けました」(浅野三重子、婦人部訪中団副団地長)。中日友好協会のスタッフは一行に語った。

「池田先生はわが国に滞在中、三度、『私の後に来る婦人部をよろしくお願いします』とおっしゃいました」。

 5月13日午後、鄧穎超との会見が実現した(北京の人民大会堂)。

「日本からの客人が『雨中嵐山』を舞うようだ」と知った鄧穎超。「皆も入りなさい」。会見場の外にいたスタッフたちも中に招き入れた。

 場内に詩吟が朗々と流れる。「雨中嵐山」。その日本語訳を、池田は関西青年部総会で紹介している(1999年5月31日付「聖教新聞」)。

 ──雨の中、嵐山に来てみると、両岸の青い松の間に、数本の桜が光っている・・・・・霧雨が、もうろうと煙るなか、ひと筋の陽光が差してきた。

 同じように自分は、「人の世の真実とは何か」を求めて、霧雨の中を歩んできた。今、一筋の光が差してきたようだ。なんと美しいことか──。

 綾子は無事に舞い収めた。「婦女連(中華全国婦女連合会)の康克清主席以下、居合わせた人々は皆、泣いていました」(浅野)。

 「不倒翁」と呼ばれた周恩来逝いて4年。往時を偲ぶ涙だった。しかし、その場で涙を見せなかった人が一人いた。鄧穎超である。

 舞い終えたばかりの扇を受け取った鄧穎超は、「一生の宝にします」「池田先生から託された使命を、見事に果たされましたね」と笑顔で語った。そして、泣いている婦女連の幹部たちを鋭くたしなめた。

 その一言は、綾子たちの胸にも鮮烈に響いた。

「涙は禁物です。周総理は涙が嫌いでした。涙は全身を阻みます」


 夫の賢一が「こんなん、むりやり持たされたわ」と一部の新聞を放り投げたのは、1958年(昭和33年)の3月だった。「聖教新聞」だった。記事を読んだ綾子は驚いた。

「幸不幸の原因は何なのか、確信を込めて書いてありました」。

夫に「聖教新聞」を持たせた山本よねの家を訪ね、とことん話を聞き、入会を決意した。反対だった夫も間もなく続いた。

 半年も経たないある日、賢一が「お前、二膳目、食べてるやないか」と目を丸くした。それまで寝たり起きたりの生活だったが、知らないうちに食欲が増していた。斑点も消えていった。どんどん仏法対話が楽しくなった。

「絶望を乗り切る、負けない人生の道を初めて知りました」。

 それまでも被爆の事実は口外できなかった。このままでいいのか。これだけ苦しんでいる私が、戦争の愚かさを、戦争を知らない世代に語らなくていいのか。悩み続けていた時、綾子は「原水爆禁止宣言」を知った。


 「原水爆禁止宣言」池田の恩師、戸田城聖が青年に向けて語った遺訓である。

 ──核兵器は魔物の仕業だ。核兵器を使う指導者は誰であれ、勝とうが負けようが、全員死刑にすべきである──。

 綾子は全身が震えた。「戸田先生はこんな力強い宣言をされ、池田先生がその後を継がれた。私は世間から隠れるように生きてきた自分を恥ずかしく思いました」。

 ほどなく、小塚夫妻は京都・嵐山支部の支部長、支部婦人部長に任命された。1965年(昭和40年)8月、被爆からちょうど20年の節目だった。

 今日まで綾子は京都・広島を中心に40ヶ所以上で被爆体験を語り継いできた。

「原爆は、人間らしく死ぬことも、人間らしく生きることも許さない悪魔の兵器です」。そう語る綾子をはじめ多くの被爆者の証言を、女性平和委員会が映像にまとめ、5カ国語で平和教材として使われている。

「宿命に泣く人生から、自分でなければ果たせない使命の人生に変わった。そのことが私の誇りです」。