京都の喫茶店──池田と小塚夫妻の懇談が続いている。「これは?」。池田は机に置かれた紙を手に取った。「雨中嵐山」という詩だった。
中国の初代首相・周恩来は十代の頃、日本に留学していた。祖国への帰途、京都の嵐山に立ち寄り、詩を詠んで「雨中嵐山」と名づけた。その後、周恩来は「五・四運動」の激動の中で、妻となる鄧穎超(とうえいちょう)に出会った。
「池田先生の第五次訪中から2週間後、じつは学会婦人部も中国政府からの招聘を受け、訪中しました。私はその訪中団の一員として、答礼宴で感謝の舞を披露することになっていました」。(綾子)
何を踊るか。一つしか考えられなかった。日中友好の象徴である「雨中嵐山」の碑は、まさにわが右京区に立っている。あの詩に合わせた舞踊しかない──訪中を前にして、綾子は猛練習を重ねていた。
「雨中嵐山」の詩吟のテープに耳を傾けた池田は、「久しぶりに詩吟らしい詩吟を聞いたね」と喜び、「これは答礼宴ではなく、鄧穎超さんに直接、捧げてはどうか」と提案した。
ちょうど1年前(1979年4月16日)、京都の嵐山公園で行われた「雨中嵐山」の碑の除幕式。周恩来夫人の鄧穎超も出席した。その4日前、池田は都内で鄧穎超と会見している。
第五次訪中でも、池田は鄧穎超と再開する予定になっていた。小塚夫妻に「私が先に行って、よく伝えておくからね」と言い、店を後にした。
第五次訪中が始まった。「聖教新聞」で連日、池田の行動が大々的に報じられた。
「時を措かず訪中した私たちは、想像を超える歓待を受けました」(浅野三重子、婦人部訪中団副団地長)。中日友好協会のスタッフは一行に語った。
「池田先生はわが国に滞在中、三度、『私の後に来る婦人部をよろしくお願いします』とおっしゃいました」。
5月13日午後、鄧穎超との会見が実現した(北京の人民大会堂)。
「日本からの客人が『雨中嵐山』を舞うようだ」と知った鄧穎超。「皆も入りなさい」。会見場の外にいたスタッフたちも中に招き入れた。
場内に詩吟が朗々と流れる。「雨中嵐山」。その日本語訳を、池田は関西青年部総会で紹介している(1999年5月31日付「聖教新聞」)。
──雨の中、嵐山に来てみると、両岸の青い松の間に、数本の桜が光っている・・・・・霧雨が、もうろうと煙るなか、ひと筋の陽光が差してきた。
同じように自分は、「人の世の真実とは何か」を求めて、霧雨の中を歩んできた。今、一筋の光が差してきたようだ。なんと美しいことか──。
綾子は無事に舞い収めた。「婦女連(中華全国婦女連合会)の康克清主席以下、居合わせた人々は皆、泣いていました」(浅野)。
「不倒翁」と呼ばれた周恩来逝いて4年。往時を偲ぶ涙だった。しかし、その場で涙を見せなかった人が一人いた。鄧穎超である。
舞い終えたばかりの扇を受け取った鄧穎超は、「一生の宝にします」「池田先生から託された使命を、見事に果たされましたね」と笑顔で語った。そして、泣いている婦女連の幹部たちを鋭くたしなめた。
その一言は、綾子たちの胸にも鮮烈に響いた。
「涙は禁物です。周総理は涙が嫌いでした。涙は全身を阻みます」