夫の賢一が「こんなん、むりやり持たされたわ」と一部の新聞を放り投げたのは、1958年(昭和33年)の3月だった。「聖教新聞」だった。記事を読んだ綾子は驚いた。
「幸不幸の原因は何なのか、確信を込めて書いてありました」。
夫に「聖教新聞」を持たせた山本よねの家を訪ね、とことん話を聞き、入会を決意した。反対だった夫も間もなく続いた。
半年も経たないある日、賢一が「お前、二膳目、食べてるやないか」と目を丸くした。それまで寝たり起きたりの生活だったが、知らないうちに食欲が増していた。斑点も消えていった。どんどん仏法対話が楽しくなった。
「絶望を乗り切る、負けない人生の道を初めて知りました」。
それまでも被爆の事実は口外できなかった。このままでいいのか。これだけ苦しんでいる私が、戦争の愚かさを、戦争を知らない世代に語らなくていいのか。悩み続けていた時、綾子は「原水爆禁止宣言」を知った。
「原水爆禁止宣言」池田の恩師、戸田城聖が青年に向けて語った遺訓である。
──核兵器は魔物の仕業だ。核兵器を使う指導者は誰であれ、勝とうが負けようが、全員死刑にすべきである──。
綾子は全身が震えた。「戸田先生はこんな力強い宣言をされ、池田先生がその後を継がれた。私は世間から隠れるように生きてきた自分を恥ずかしく思いました」。
ほどなく、小塚夫妻は京都・嵐山支部の支部長、支部婦人部長に任命された。1965年(昭和40年)8月、被爆からちょうど20年の節目だった。
今日まで綾子は京都・広島を中心に40ヶ所以上で被爆体験を語り継いできた。
「原爆は、人間らしく死ぬことも、人間らしく生きることも許さない悪魔の兵器です」。そう語る綾子をはじめ多くの被爆者の証言を、女性平和委員会が映像にまとめ、5カ国語で平和教材として使われている。
「宿命に泣く人生から、自分でなければ果たせない使命の人生に変わった。そのことが私の誇りです」。