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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「恐ろしく空虚で不正義な 戦争という名の破壊事業」──池田は長編詩「母」で謳っている。


「母の本能の智性は 叫んでいるに違いない

 人間よ

 こんな気どりの勲章のために

 こんな犠牲をつくる権力のために

 なにゆえ 尊いこの生命を

 路傍の屍とするのか と」


 ミネと綾子は、けが一つなかったのに原因不明の高熱とひどい下痢に襲われた。己斐駅前でミカン箱一つ置いた救護所。

「赤チンと白いペンキのような軟膏くらいしかありませんでした」。そこで知り合った衛生兵と賢一と、綾子はのちに結婚する。

 2年後、戦中に空襲も殆どなかった京都に移り住んだ。寝たきりになっていたミネ。

「京都の水はおいしいなあ」「空気もおいしいなあ」と喜び、3ヶ月で死んだ。42歳だった。

 苦しみは続く。常に体がだるく、真夏も寒気が止まらない。全身の皮膚に黒い斑点が広がり、髪が痛みもなく抜け落ち、歯茎から血が出た。

 さらに情報不足と偏見による「被爆者差別」におびえた。被爆した事実は賢一と自分だけの秘密だった。賢一の家族にも黙っていた。

「ただただ差別がこわかったんです」。

 毎年8月、原爆を振り返るニュースを見るたび涙を流した。

「おかあちゃん、なんで泣いてるの?」。不思議そうに見つめる娘にも隠し続けた。

「子どもの将来が心配で・・・・・・誰にも相談できずつらかった。今、福島の原発事故でも『放射能がうつる』とか、ひどいデマで苦しめられています。原爆の被爆者への差別もどれほどひどかったか・・・・・・・」

 1979年の前後から、池田は全国各地の功労者宅訪問に力を入れた。小塚綾子(京都・右京区)の長男夫婦が営む喫茶店「YOUR(ユアー)」を訪れたのは、1980年(昭和55年)4月18日の午後だった。3日後の21日から第五次訪中が控えていた。会長辞任以来、初の海外訪問である。

「狭い店ですが、寛いでいただこうと一家で準備しました」(綾子)。

 店に入った池田。「池袋のサンシャイン60からは、遠くの方までよく見える」と周囲の幹部に語った。

「しかし、家の中までは見えないし、歩いている人の心も見えない。その人の本当の悩みもわからない。幹部は上からみてはいけない。地を這って見るんだ。今、私はそれをしているんだ」。

 また「一人が大事だ。一つの原爆が尊い20万人の命を奪ったが、一人の人間が20万人を救うこともある」とも言った。

「心臓が止まるかと思うほどびっくりした」と綾子。「まだ先生に、私が広島で被爆したことはお話していなかったからです」。

 カウンター席に腰掛けた池田は、同世代の綾子に「昭和何年生まれ?」と尋ねた。「4年生まれです」。昭和3年生まれの池田は自らの戦争体験を語った。

「あの時は芋の茎まで食べた。灰色の青春だったね」

「同時代を生き抜いた者でなければ、あの苦しさはどうしてもわからない。あなた方ならわかるね。わかるのは昭和10年生まれくらいまでかな・・・・・・・」。

 「先生、じつは」。綾子は自分が被爆者であることを伝えた。隣で夫の賢一が緊張していた。池田は静かに「そうか」とだけ言った。2時間半の懇談中、一言もその話題に触れなかった。

「同行の方も大勢いらっしゃっていたので、つらい体験を人前で話させないよう、気遣ってくださったのだと思います。その心が伝わってきて・・・・・・」。綾子は涙をこらえた。


 1945年(昭和20年)8月6日。綾子は16歳だった。

「あの日は朝から焼け付くような暑さでした」。広島の宇品港で、船舶司令部の事務見習いをしていた。いつも通りの朝礼が終わり、木造事務所の二階に上がった。その時だった。

「見たこともない強い光で目が眩み、次の瞬間、ゴゴゴーッと唸りをあげた爆風に吹き飛ばされました」。

 8時15分。アメリカ軍の爆撃機B29は、市の中心にかかるT字型の相生橋めがけて原子爆弾を投下した。上空600メートルで炸裂した。

「我に返ってあたりを見渡すと、皆、血を流していました」、綾子は幸いにも無傷だった。爆風が収まり、空を見上げた。太陽は消えていた。

「不気味な暗闇に包まれ、強烈な熱風と臭気が襲ってきました」。

 広島市内では幾つもの火災の竜巻が暴れ回り、天を焦がしていた。

「昼近く、軍のトラックが次々と被爆者を運んできました。あの時、私はこの世の地獄を見たのです。どの人もどの人も、これ以上焼かれるところがないほど真っ黒で・・・・・。両手が焼き尽くされ、骨がむき出しの人もいました。『助けて』とすがりつかれた若い女性は全身が焼けただれ、背中に負ぶった赤ちゃんには首がありませんでした」

 人類史上最悪の愚行といわれる原爆投下。

「事務所前の岸壁には、みるみる死体が山積みになりました。当日は暑くて爆心地には近づけませんでした。母は前日、爆心地から遠い可部町に行っていたので安心し、向宇品の洞窟で夜を明かしました」。


 3日目の早朝、爆心地を抜けて己斐町の自宅に戻った。焼け崩れた市街は、見渡す限り焦土と化していた。靴底が熱い。黒こげで転がった電車。すべての場所に死臭が漂い、川は遺体で堰き止められていた。

 自宅に着いた。絶句した。「屋根を吹き飛ばされた家で、衰弱しきった母が私の帰りを待っていたのです」。娘の身を案じた母のミネ。枕木の焼けた線路伝いに市の中心部へ入り、軟化したアスファルトに足をとられながら、爆心地を歩き回ったのだ。

 疲れ果てた母娘とともに、あの日降った「墨を溶いたような黒い豪雨」に濡れていた。舞い上がった土やほこり、煤を含んだ黒色の雨。強い放射能が含まれていた。コールタールのように皮膚にへばりつき、洗っても拭っても落ちなかった。

「ろくに食べ物を口にしていない私に、母は、裏の畑で雨に叩かれた黒いトマトを拾い、食べさせてくれた。そのおいしかったこと・・・・・・・放射能の怖さなど知るはずもなかった」


 子を亡くす。親にとってこれほどの悲しみはない。行方えみ子(奈良市)。一人息子の勲を亡くした時のことを静かに語った。

「13歳でした。脳腫瘍で10ヶ月、闘病しました。共に泣き、笑い、歌い、励まし続けた10ヶ月でした」。

 結婚3年目で授かった命だった。勲が2歳の時、池田との思いがけない出会いがあった。明日香文化会館にほど近い明日香路。「創価大学で待っているよ」。その一言が励みになった。

「わんぱくに育ちました。単車の後ろに乗せて、一緒に学会活動に走り回りました。短い一生でしたが、その分、何倍も密度の濃い思い出を夫婦に残してくれました」。

 2度の開頭手術。長期の放射線治療。中学2年として通学できたのは3日間だった。看病中に言ってくれた「お母さん、長生きしてね」という一言に胸が詰まった。

「音楽隊だった勲は『紅の歌』が好きでした」。意識のない息子の耳元で歌った。

 12日間眠り続け、1978年(昭和62年)11月13日、静かに息をひきとった。

 葬儀に寄せられた香典袋の一つに「聖教新聞」の切り抜き(「きょうの発心」)が入っていた。婦人部の先輩からだった。

「勲が亡くなった翌日付の新聞でした。そこには私と同じように、息子を亡くし、池田先生や仲間の励ましによって立ち上がった北海道の方の体験が掲載されていたのです。驚きました」。

 大きな文字で日蓮の言葉が載っていた。

「をやこ(親子)のわかれこそ月日のへだ(隔)つるままに・いよいよ・なげきふかかりぬべくみへ・・・・・」

──親子の別れだけは、月日が経つほどにいよいよ嘆きが深くなっていくものとみえる──夫と別れ、自分を妙法に導いてくれた息子の弥四郎にも先立たれた、光日尼という女性門下へ宛てた手紙である。えみこはその切抜きを今も大切に残している。

「多くの方が心から励ましてくれた。何よりもありがたかった」。


 「少し落ち着いた年末、先生の奥様に手紙を出しました」。年が明けて、行方のもとへ、香峰子からの伝言が念珠とともに届

けられた。

「お手紙拝見致しました。お寂しい気持ちはよくわかります。でも生きて、生きて、生き抜いて、お子様にお題目を送ってあげて下さい」

「奥様ご自身も、この3年前に次男の城久さんを亡くされ、創造を絶する悲しみを受け止め、生き抜いてこられたに違いありません。その思いに満ち満ちた伝言でした。私の生涯の指針です。読み返すたび、『生きて、生きて、生き抜いて』の一言に、胸がいっぱいになります」。えみ子はそう言って目頭を押さえた。

 悲しみに負けず、勲の分も長生きしようと誓った夫妻。えみ子は勲の死の3年後に子宮がんを、夫の茂るは18年後に上咽頭がんをそれぞれ乗り越えた。

「私たちと同じ悲しみに直面した人から相談されることもあります。『一緒に生き抜きましょう』と語ってきました。青年部や未来部(小、中、高校生のグループ)は、みんな我が子です」。勲が果たせなかった創価大学への進学。

「いつか創大の通信教育部に入学することが、私の夢なんです」。えみ子は微笑、ゆっくり椅子から立ち上がった。


 1980年(昭和55年)8月。「家族4人で婦人会館の見学に行きました」(仁科時子、大坂・豊中市)。

玄関を入ると、「どちらからいらっしゃったのですか」と声をかけられた。香峰子だった。

「夫に対して『いつも大変お世話になっております』と深々とお辞儀され、『どうぞ中へ』と自ら案内してくださいました」(仁科)。

 夫の恭次。「ロビーで80歳前後の女性が奥様の隣に座り、一生懸命、これまでの人生の体験を話していました。にこにこと聞いていた奥様の『私も将来、こんなおばあちゃんになりたいわ』という優しい声が忘れられません」。

 このひと月前。林智栄子(奈良市)が香峰子から受け取ったはがきには、「大きな障魔と私共も立ち向かっています。共に変毒為薬をしようではありませんか」(7月9日)と書かれている。林は怒りを込めて回想する。

「坊主たちは、学会員が寄進した寺で威張り、学会員をいじめ抜いた。非道がまかりと通っていました」。

会長辞任から1年。香峰子も池田と同じく”一人の励まし”に徹していた。


 「婦人会館での勤行会が終わり、ロビーに行くと、奥様を中心に懇談会が行われていました」(宮下久栄、京都・南区)。1982年(昭和57年)3月9日である。本部長だった宮下。

「支部婦人部長の森さんが末期の子宮がんで府立病院に入院していました。何か激励をお願いしたいと思い、持ち合わせた絵はがきを手に、奥様にご相談したのです」。

 香峰子は「暗いものはだめですよ。もっと明るいはがきで」と、陽光に輝くアメリカ・サンタモニカの海辺の絵はがきを取り出した。そして池田の歌集『友舞』をぱらぱらとめくり、181ページを開いた。


    この世をば


     祈り祈りて   広布庭


        君よ咲きゆけ  香り残して


             ”友舞”より


と書き取り、押印。「これを」と宮下に手渡した。

「ここまでこまやかに心を砕かれるのかと感嘆しました。『ひと月もたない』と告げられていた森さんは、大変喜ばれ、それから5ヶ月、寿命を延ばされました」。

 歌集『友舞』が発刊されたのは1979年(昭和54年)11月18日。前月27日、香峰子は東京の世田谷文化会館でこの『友舞』を代表に贈り、語っている。

「今日、見本刷りができました。まだ湯気が出ているような本なのです・・・・・・名誉会長の昭和20年の頃からの和歌を集めまして、約500首、この中に入っております」。

 その「はしがき」。戸田城聖の和歌「雲の井に 月こそ見んと願いてし  アジアの民に 日をぞ送らん」が引用されている。

「本年の2月、インドの訪問が終わりまして、それが三代会長としての最後の海外訪問になりました・・・・・・そのことを含めまして『はしがき』にこの歌が書いてあります」。

 恩師の遺志を継ぎ、インドをはじめアジア各地にも仏法を広げてきた池田。そのインド訪問の直後に巻き起こった会長辞任への流れだった。香峰子は、そうした池田の歴史が織り込まれた『友舞』を携え、友に会い続けたのである。

「奥様との出会いで印象的だったのは、唱題の声です」(伊藤明美)。婦人会館での唱題会で「その凛々しい声に思わず襟を正しました」と語る。同様の証言は多い。堀川恵美子と前田晴枝(ともに大坂・西成区)。

1991年(平成3年)、落成したばかりの関西白百合青春会館に寄った際、松下以知子(関西婦人部長)に呼び止められ、3階に上がった。広間で唱題会が行われていた。

「導師の唱題が、聞いたことのない、ものすごく朗々とした声でした」(堀川)。

関西にあんな人、いたやろか──題目を終えた導師が立ち上がり、振り返ると、二人はあっと声をあげた。来阪中の香峰子だった。

「あの瞬間、思いました。奥様はあの凛とした題目で先生を支え、子育ても家事も全部やり抜いてこられたんだ、私も一生涯、題目根本で生き抜こうと」(前田)


 会長辞任の4月24日。池田は日記に「あまりにも 悔しきこの日を 忘れまじ 夕闇せまりて 一人歩むを」と記した。(1999年4月27日付け「聖教新聞」)。

 静岡・白糸研修道場で管理人をしていた林純子(東京・八王子市)。

「会長を辞任された後、池田先生が道場に来られた時のことです。心配そうな私たちの顔を見られ、間髪いれず『今までと同じだよ。私は全然変わっていないよ』と言われました」。

「会長辞任の直後、悲嘆に暮れる私たちに、奥様は毅然として『きっとまた、皆様のために働きますよ

』とおっしゃいました。”泣いている場合じゃない”と目の覚める思いでした」(宮田美弥子・大坂・牧方市)

 池田と二人で「不退転」の旅路を歩んできた香峰子が、この時期、学会の”屋台骨”たる婦人部の友を励ますため、足繁く通った場所がある。それは辞任の前年に誕生した、東京・信濃町の創価婦人会館だった。


 「婦人会館には、『時間があれば、どなたかにお会いしよう』と、いつも来ていました」。香峰子は、こう回想している(1986年10月17日、東京・板橋の婦人部幹部会)。板橋区婦人部長だった石井益子。

「同じ頃、ある人に『いかなる事態にも負けない生涯を』と書いて贈られたと伺いました。常に誰かを励まそうとされていました」。

 嵐の中で誕生した婦人会館。開館記念勤行会は、半年にわたって約20回行われた。北海道から沖縄まで各方面の代表が集まった。香峰子はそのすべてに出席している。

 最初に行われた勤行会は6月10日。全国の聖教新聞配達員、大ブロック担当員の代表が招待された。その日付が記された1枚の寄せ書きに、香峰子も筆を走らせている。

「京都から21人で参加し、ちょうど私が色紙を持っていまして。玄関の脇でお願いしました」(宮川シゲ、下京区)。

「よくこられましたね」とねぎらった香峰子は、「寄せ書きね。どこに書こうかしら」と少し考え、左上にサインペンで「生涯青春 池田香峰子」と記した。

 同開館落成の会合に参加した北村かづ江(京都・伏見区)。

「一番生活が苦しかった時でした」。1階ロビーに懇談の輪ができていた。その中心に香峰子がいた。北村は遠慮がちに「夫が失業中です・・・・・・」と告げた。香峰子は北村の両手を握った。

「たとえあなたのご主人が、どんな地獄のような姿であったとしても、ご主人を尊敬できるあなたになることです。自分だけが悩んでいるのではありません。一番悩んでいるのはご主人ですよ」。

 「ハッとした」と北村は語る。いつしか生活に嫌気が差し、感謝する心を忘れていた。

「あの一言のおかげで、夫に笑顔で接するようになれた。姑との問題も、人生の先輩として尊敬しようと心が変わり、乗り越えました」。一月後、夫は再就職。

「今は独立し、息子と内装の会社をやっています」。


 「毎月、婦人会館で行われる県婦人部長会で一番楽しみだったのが奥様との懇談会です。全国からの質問や報告で毎回、2、3時間はかかりました」(本田道子、大坂・阿倍野区)。宗門をめぐる質問も多かった。「いつも全部聴いてくださった。時折、メモもとられました。どんなにお疲れかと思ったが、最初から最後まで少しも変わりがない。なんという気力と忍耐の方かと感動し、申し訳なく思いました」

 坂口幾代(婦人部総合長)。「池田先生が学会内部の臆病や宗門の嫉妬によって自由に動けなかったあの時代、奥様が先生の代わりに動かれ、婦人部を全力で励まされたように思えてなりません。その”主戦場”が婦人会館だったのです」。

 香峰子の婦人会館への訪問回数はじつに607回を数える。見学で居合わせたメンバーを含め、ロビーでの激励、出会った人数、記念撮影、どれも数えきれない。

 加納ひさよ(京都・右京区)。「婦人会館を見学の最中、奥様が来館されました。丈夫だった母が脳血栓で入院したばかりで、ショックを受けていたことを正直に話しました」。

 香峰子は「日蓮大聖人は『病によりて道心はをこり候なり』(病によって仏道を求める心は起こる)とも、『業が謝せんと欲する故に病むなり』(業が消滅しようとするので病む)とも仰せですよ)と御書を諳んじ、「自分の業を今世で出して、転重軽受で必ず守られますから」と励ました。

「母は無事に退院。医者は松葉杖などを勧めてくれましたが、杖もすかず歩いて活動に励めました」(加納)