母たちの合掌(いのり)     「不退転」の旅路② | EIKOの気まぐれ闘病日記

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このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 会長辞任の4月24日。池田は日記に「あまりにも 悔しきこの日を 忘れまじ 夕闇せまりて 一人歩むを」と記した。(1999年4月27日付け「聖教新聞」)。

 静岡・白糸研修道場で管理人をしていた林純子(東京・八王子市)。

「会長を辞任された後、池田先生が道場に来られた時のことです。心配そうな私たちの顔を見られ、間髪いれず『今までと同じだよ。私は全然変わっていないよ』と言われました」。

「会長辞任の直後、悲嘆に暮れる私たちに、奥様は毅然として『きっとまた、皆様のために働きますよ

』とおっしゃいました。”泣いている場合じゃない”と目の覚める思いでした」(宮田美弥子・大坂・牧方市)

 池田と二人で「不退転」の旅路を歩んできた香峰子が、この時期、学会の”屋台骨”たる婦人部の友を励ますため、足繁く通った場所がある。それは辞任の前年に誕生した、東京・信濃町の創価婦人会館だった。


 「婦人会館には、『時間があれば、どなたかにお会いしよう』と、いつも来ていました」。香峰子は、こう回想している(1986年10月17日、東京・板橋の婦人部幹部会)。板橋区婦人部長だった石井益子。

「同じ頃、ある人に『いかなる事態にも負けない生涯を』と書いて贈られたと伺いました。常に誰かを励まそうとされていました」。

 嵐の中で誕生した婦人会館。開館記念勤行会は、半年にわたって約20回行われた。北海道から沖縄まで各方面の代表が集まった。香峰子はそのすべてに出席している。

 最初に行われた勤行会は6月10日。全国の聖教新聞配達員、大ブロック担当員の代表が招待された。その日付が記された1枚の寄せ書きに、香峰子も筆を走らせている。

「京都から21人で参加し、ちょうど私が色紙を持っていまして。玄関の脇でお願いしました」(宮川シゲ、下京区)。

「よくこられましたね」とねぎらった香峰子は、「寄せ書きね。どこに書こうかしら」と少し考え、左上にサインペンで「生涯青春 池田香峰子」と記した。

 同開館落成の会合に参加した北村かづ江(京都・伏見区)。

「一番生活が苦しかった時でした」。1階ロビーに懇談の輪ができていた。その中心に香峰子がいた。北村は遠慮がちに「夫が失業中です・・・・・・」と告げた。香峰子は北村の両手を握った。

「たとえあなたのご主人が、どんな地獄のような姿であったとしても、ご主人を尊敬できるあなたになることです。自分だけが悩んでいるのではありません。一番悩んでいるのはご主人ですよ」。

 「ハッとした」と北村は語る。いつしか生活に嫌気が差し、感謝する心を忘れていた。

「あの一言のおかげで、夫に笑顔で接するようになれた。姑との問題も、人生の先輩として尊敬しようと心が変わり、乗り越えました」。一月後、夫は再就職。

「今は独立し、息子と内装の会社をやっています」。


 「毎月、婦人会館で行われる県婦人部長会で一番楽しみだったのが奥様との懇談会です。全国からの質問や報告で毎回、2、3時間はかかりました」(本田道子、大坂・阿倍野区)。宗門をめぐる質問も多かった。「いつも全部聴いてくださった。時折、メモもとられました。どんなにお疲れかと思ったが、最初から最後まで少しも変わりがない。なんという気力と忍耐の方かと感動し、申し訳なく思いました」

 坂口幾代(婦人部総合長)。「池田先生が学会内部の臆病や宗門の嫉妬によって自由に動けなかったあの時代、奥様が先生の代わりに動かれ、婦人部を全力で励まされたように思えてなりません。その”主戦場”が婦人会館だったのです」。

 香峰子の婦人会館への訪問回数はじつに607回を数える。見学で居合わせたメンバーを含め、ロビーでの激励、出会った人数、記念撮影、どれも数えきれない。

 加納ひさよ(京都・右京区)。「婦人会館を見学の最中、奥様が来館されました。丈夫だった母が脳血栓で入院したばかりで、ショックを受けていたことを正直に話しました」。

 香峰子は「日蓮大聖人は『病によりて道心はをこり候なり』(病によって仏道を求める心は起こる)とも、『業が謝せんと欲する故に病むなり』(業が消滅しようとするので病む)とも仰せですよ)と御書を諳んじ、「自分の業を今世で出して、転重軽受で必ず守られますから」と励ました。

「母は無事に退院。医者は松葉杖などを勧めてくれましたが、杖もすかず歩いて活動に励めました」(加納)