母たちの合掌(いのり)       「不退転」の旅路① | EIKOの気まぐれ闘病日記

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このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「私も三人の男の子がいますが、小さい時は泥だらけになって洋服は破いてくるし、縫っても縫っても破いてくるので、いっそのこと針金で縫いたいくらいでした」。香峰子の話に笑いが弾けた。東京・練馬の支部座談会(三原台支部、山本宅)。

「15畳ほどの会場が廊下まで人で溢れました」(山本典子。当時、支部婦人部長)。1979年(昭和54年)3月17日のことである。

 この時、香峰子は「我が家は家族全員が揃うということがなかなかないので、どこにいても、この時間には題目を唱える、という同盟を決めております」と語っている。練馬区婦人部長だった大塚泰江。

「ご自身の家庭の話を通して、学会永遠の指針である『一家和楽の信心』を、参加者に教えられたのだと思います」。

 長男の博正は関西。次男の城久は創価大学のある八王子。三男の尊弘は信濃町──まさにこの時、池田とその家族はそれぞれの場で、「第一次宗門事件」の暴風雨と闘っている渦中だった。

 参加者の求めに応じ、香峰子は色紙に「不退転 七つの鐘 総仕上げの年」と書き、「どんなことがあっても一生、御本尊様を離さないで幸せになってください」と呼びかけた。


 第一次宗門事件──香峰子は関西婦人部長だった栗原明子に手紙を送っている(1877年10月27日付け)。「僧侶のこと、まさに御書(日蓮の遺文集)の通りですね。残念なことですが、明らかに見えて良かったとも思います」。


 「当時、宗門の僧は狂ったように学会員を痛めつけ、その裏で贅沢三昧の信じがたい遊興をかさねていた。大迷惑です。彼らの行状があまりにひどく、報告したのです」(栗原)

 池田と香峰子のもとには、全国から深刻な状況が伝えられていた。香峰子は「何とか変毒為薬になり、学会にとって、この事があったから良かったのだと将来言えるようになりたいと、願って唱題している昨今でございます」と綴っている。

 その頃、香峰子は自ら弘教にも率先して取り組んでいた。

 1978年(昭和53年)1月17日、杉並区婦人部総会。「あの時、奥様は、『お正月から折伏を始めた』という話をされました」(山川佳子。当時、杉並区婦人部長)。

 前年末の12月28日。香峰子に一通の便りが届いた。夫が仕事で学会本部に出入りしているという夫人からの手紙だった。夫から聞く話や、身近な学会員の姿に親しみを覚え、思い切って日ごろの悩みを直接、香峰子に送ったのだという。

 「その方は私宛に縷々、悩みを書いて『来年は良い年であるように』と手紙をくださったのです」。

 1月2日、香峰子は静岡の大石寺にいた。「お手紙でそういう心の中を語ってくださって、私も仏法者として黙っていられないと、電話しました」。

「いかがですか、私たちのお仲間に入りませんか」と語る香峰子に、その夫人は「よろしくお願いします」と答えた。「とにかく一度、座談会に出ましょう」と香峰子は応じ、1月11日に先方を訪問している。杉並の会合では「その方と、座談会のほかにも会合に出てから決めましょう、と約束したところです」と、ありのままに語った。そして日蓮の主著「観心本尊抄」を通し「折伏するには勇気が必要です」「一人増やすことを目指しましょう」と訴えた。

「宗門事件の渦中、皆の不安を晴らすように1月2日から折伏に励んでおられたのですね。本当に驚きました」(山川)。

 本部周辺の懇談会で、池田が香峰子について「この人は強いんだよ。何があっても動じないんだよ」と語ったことがある。「先生が会長を辞任される直前の懇談会でした。時が経つにつれ、先生の言葉の重みを感じます」(大塚泰江)。