鹿島会館に着いた池田と香峰子は真っ先に管理者室へ向かった。香峰子が管理者の橋本周子に微笑む。池田は橋本に「鹿島は勝ったかい?」と尋ねた。
「緊張してしまい、初めは何についておっしゃっているのかわかりませんでした」。
橋本は「はい、勝ちました」と答えた。池田は少し語気を強めて、「鹿島は勝ったね?」と尋ねた。橋本も力を込めて「はい、勝ちました」。
さらに語気を強める池田。「鹿島は勝ったんだね?」
三度問われて、橋本は「宗門とのことを尋ねておられるんだ」と気づいた。堰を切ったように夢中で話し始めた。
「はい、勝ちました。先生、みんな一生懸命、闘いました。大変悔しい思いをしましたが、皆、必死に頑張りました」。橋本の両眼から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「そうか、よかった。頑張ったんだね。皆、闘ってくれたんだね」。池田はむせび泣く橋本にやさしく声をかけた。
「退転した人たちの厳しい現状も話しました」(橋本)。
「かわいそうだな。仏法は厳しい。何とか救ってあげたいな」と池田。
師弟の対話を、部屋に飾られた一枚の色紙が見守っていた。
「断固して 鹿島の城を 君頼む」
1979年(昭和54年)4月、会長辞任の直前に、池田が橋本夫妻に贈った句である。夫の欣也も支部幹部として、脱会者が多かった波崎を担当してきた。この日、池田は夫妻に「信義を守ったね。生涯忘れないよ」と礼を述べている。
二階の広間。総勢1000人の参加者の唱題する声も熱気にあふれていた。
「あの日は参加者の靴が下駄箱に入りきらず、床に新聞紙を敷いて対応しました」(橋本周子)。池田は広間の後方から入った。「『うわー』という声があがって振り返ると、そこに先生が立っておられた。次々と歓声が起こりました」(中澤春司、鹿島県副県長)。
「鹿島は勝ちました」。そう宣言した池田は参加者と万歳三唱した。「その後、先生は学会員の氏名が刻まれた銘板に題目を唱えられました」(山崎美智代、鹿島王者圏副婦人部長)。
「今日来られなかった人たちのために、題目を三唱しよう」「苦難の道を歩んでこられた鹿島の同志のことは、生涯、私は絶対わすれない」
この日、池田は鉾田で行われた代表者会議にも出席し、教育者のグループを結成している。
後に池田は次の和歌を贈っている。
茨城に
広宣流布の
勇者あり
その名を問わば
鹿島の地涌と
最終日の12日。池田は土浦文化会館へ向かった。駐車場には、館内に入りきれなかった200人が待っていた。「バスから降りるなり先生は『寒い中待たせたね。記念撮影しよう』と声をかけられました」(杉山英子、第一茨城総県副総合婦人部長)。会館三周年を記念する勤行会である。「土浦、霞ヶ浦というと予科練(=航空隊)を思い起こす」。池田は「時」について語った。
「時は移り変わり、軍国主義から平和な時代となった。『時』というものは、色も香りもなく、大きく移り変わっていくものだ。戦前、軍人は正義の存在であり、自由主義者や戦争反対者は極悪人とされた。時代が変わると正反対になった」
そして世界の宗教史を辿り、宗教弾圧に話が及んだ。「我々は難を恐れてはならない。すべてが広宣流布への一里塚であり、乗り越えなければならない過程だからです」