自然と対話する──1971年6月、池田が初めてレンズをむけたのは
漆黒の湖の向こうに輝く満月だった。
「苦労の人を そっと照らしてあげたい」
奮闘する同志に、伝言を添えて
自ら撮影した写真を贈ってきた池田。
病室の窓辺で、被災地の仮設住宅で、
飾られた一枚の写真は、希望の光となった。
山田郁子(東京・新宿本陣区婦人部主事)が和歌山に住む母、政子の危篤を知らされたのは、1982年(昭和57年)の10月だった。
「私は『女性自身』という雑誌の編集者でした。仕事の段取りをつけ、新幹線と南海電鉄を乗り継いで病院に辿り着いた時は夜中でした」。入院当初の9月に医師から「もって1週間か2週間と思ってください」と告げられていた。
「お母さん、郁子ですよ」と声をかけると政子の目から涙が流れた。3日目に医師が戻った政子は、開口一番、「池田先生が撮られた写真が見たい」と言った。郁子は目を丸くした。
「母は信心したばかりだったからです」。半信半疑で「先生のどの写真?」と尋ねた。「海の写真」と政子は答えた。
郁子は実家に飛んで帰った。すぐ見つかった。
「東京で私がいただき、母に送った写真でした」。太陽に照らされた長崎の大村湾──5ヶ月前に池田大作が撮影したばかりの一枚だった。
「母は幼い頃から女学校まで、長崎で過ごしたのです」。