闘病を支えた手紙①
敗戦国の日本がサンフランシスコ講和条約を結んだ1951年(昭和26年)9月。葉巻をくわえた吉田茂
(当時の首相)の笑顔が『ライフ』誌の表紙を飾った。約1800万部が世界各地を駆け巡り、「復興する日
本」を印象づけた。
撮影したのは三木淳。日本の報道カメラマンの草分けだ。足掛け8年かけて池田を取材し、『写真 創価
学会』(1968年、河出書房)を出版した。同書の写真を見て学界に入った人もいる。池田に対し「あなた
の撮った写真で写真展をやるべきだ」と強く勧めたのも三木だった。
「(三木と)初めてお会いしたのは、昭和35,6ごろ、真夏の日であった」(『池田大作全集』第21巻)。会
長就任間もない池田は、初対面の三木に「昔から毀誉褒貶を気にしてはいけないといわれていますが、私
も人間ですから少しは気にします。ほめられれば、ちょっといい気になりますし、けなされれば腹もたちま
す」と率直に話している。
「しかし、学会のことをけなされた場合、私を信じてついてくる大勢の学会員がかわいそうですから、私は
断乎として闘ってきました」。
その印象を三木はこう綴った。
「私はいままで、偉いと世間からいわれている多くの人々に会ってきたが、池田会長のように率直にものを
いう人は初めてであった。高い地位にある人はことさらに自分を偉くみせようとする衒いがあるものだが、
池田さんにはそれがない。直感的に若い人々が『先生、先生』と敬慕するだけの大人物であるとわかった」(『写真 創価学会』)
「作家の三島由紀夫はカメラを向けると、必ず身構えた。そういう人は多いが、池田さんは飾らない」とも
語った。写真家仲間から「三木は写真家には惜しい男だ。あの才智と男気があれば、政治家になればま
ず大臣は間違いない」と親しまれ、池田も「まれに見る活動家」と評した三木。聖教新聞本社まで毎週のよ
うに通い、写真記者たちに技術指導したこともある。