闘病を支えた手紙②
三木はブラジルをはじめ海外で信仰に励む学会員の日常もフィルムに収めた。香港では小さな船の上で暮らす水上生活者の様子を撮った。「香港仔(ヒョンゴンジャイ)」、英語で「アバディーン」と呼ばれる地域である。
「当時は読み書きのできない人も多かった。この写真は、庶民に仏法が広がる様子を伝える貴重な記録です」(李剛寿、香港SGI名誉理事長)。香港初代理事長の周徳光も写っている。
「バスや電車を乗り継いで『船上座談会』に集う人もいた。波止場で『仏の船』はどこかと尋ねれば、誰でも知っているくらい勇名でした」(李)という。
「アバディーンの座談会の話は有名ですね。香港の方々の信心に多くを教わりました」。島田寿雄(大阪・豊中市、副支部長)が語る。1987年(昭和62年)、25歳の時に香港へ赴任した。服飾資材を扱う商社で海外第一号となる現地法人づくりを任された。
「広東語もまったくわからないなかのスタートです。回りの状況が見えてくるにつれ、プレッシャーで自信を失いそうになりました」と語る島田。香港に来て1年半が過ぎた頃、池田から写真が届いた。
「香港の有名な高層マンション『エリザベスハウス』の写真です。右端に窓枠が写り込んでいて、車の中から撮られたことがわかります。思いもよらない激励でした」。88年(同63年)2月、香港訪問の際に池田が撮った1枚だった。
島田は「ここで負けられない」と奮起した。香港の中国返還までの約10年間、駐在し、今は同社の代表取締役専務を務める。会社は北京、上海、タイ、ベトナム、米国にも事務所を構えるようになった。
「あの時の写真が、自分にとって大きな転機でした」と振り返る。
三木が残した「昭和50年5月3日の池田会長」という書き出しで始まる、自身の闘病記録だ。
「私が3年前(1973年)、脳腫瘍を手術した後、枕の下から水ににじんだ手紙を発見した。開けてみると池田先生からのお見舞いの手紙であった。私は即座に『手術前、先生からお手紙を戴きましたとあなたにいったら、枕の下に入れてくれといったじゃありませんか』と逆に家内からしかられた」
53歳の三木。大手術を乗り越えた。18日間も意識がなかったという。退院後、池田は三木の自宅まで見舞いに行った。三木はかつて池田から聞いた「人の3倍働けばなんどかなる」という言葉を支えに、リハビリに励んだ。ひと月後に全快し、ヨーロッパ取材に飛んだ。
手術から2年が経った。三木は池田の会長就任15周年の式典を取材した。
「1度死んで、先生のお陰で甦った私のせめてものご恩返しはこれ以外にない」とまで意気込んだ。
「お二人の再会の場面はよく覚えています。池田は車から降りるや『三木さん!』と呼ばれた。三木さんは涙を浮かべ、構えていたカメラを下ろされた」(牛田恭敬、聖教新聞写真局主事)。その瞬間を三木自身が記している。
「つかつかと私の所にこられて手を差し延べられた。『よく頑張りましたね。元気になられましたね、いつもお祈りしていますよ。お互いにもう少し長生きしましょうよ』と励ましてくださった。私は泣いた。涙が吹き出て止まらなかった。『先生のお陰でこんなに元気になりました。ありがとうございます』と、申し上げたつもりだが、はたして言葉になったかどうかわからない」
三木は日本大学教授や国内初の写真専門美術館「土門拳記念館」の初代館長を歴任。後進の育成にも力を注ぎ、72年の生涯を終えた。