少年と見たヒマラヤ①
モンゴルの首都ウランバートルの国立現代芸術ギャラリー。「自然との対話」展のオープニングを前に、スタッフの高木義介(総千葉長)たちは準備を進めていた(1997年8月)。いつの間にか入ってきた1人の老人が、設置し終わった一枚の写真に近づいたり、離れたりして熱心に眺めている。
「誰だろうと不審に思い、声をかけました」(高木)。その老人は、モンゴルで知らない人はいない国民的画家のニャムオソリン・ツルテムだった。
「この写真には物語があります」。高木に語りかけた。ツルテムが見ていた写真は、池田が2年前にネパールで撮ったヒマラヤの風景だった。「ウィンザーの道」などと並ぶ、池田の代表作である。
聖教新聞のインタビューを受けたツルテムは、鋭い眼光をたたえて答えた。
「『一瞬』を超えた写真です。哲学があり、芸術があり、物語を紡ぎ出す確かな眼がある。ただ現地に行きさえすれば、このように見ることができるというものではない。私もヒマラヤ絵を描いてきましたが、こんなふうに描くことは不可能です」。74歳の老画家は「この作品を見て、私にはもうなすべき仕事は残されていないと思いました」とまで評した。
それは池田自身が「できれば撮りたかった。日本の青年にも見せたかった」と望んだ絶景だった。
「なんとしても先生にヒマラヤを撮影していただきたい」。ネパールSGI名誉顧問の川村良子(東京・目黒戸田区婦人部主事)は長年、願い続けていた。きっかけは池田の第三代会長辞任だった。
「ただ悔しかったんです。私自身、山歩きが好きだったこともあり、『世界一の山々を、世界一の先生にご覧いただきたい』と強烈に思った」。
商社で働いていた川村。「エベレストを一望できる場所にロッジを建てよう」とも決意した。何のつてもなかったが、現地のシェルバ(ヒマラヤを案内する少数民族)と一から信頼を築き、会長辞任から10年後、その夢を実現する(1989年)。池田は「世界一高き道場 川村城」と詠んで川村に贈った。
「1980年代後半、ネパールのメンバーは12人でした。カトマンズ市内のアパートで勤行会を開いていました」。そのなかにネパールSGI理事長となるケシャブ・シュレスタもいた。メンバー数が100人を超えた頃、池田の訪問が決まった。
「先生は『写真を撮りに行くよ』ともおっしゃいました。受け入れ準備の合間を縫って、『ヒマラヤを撮れる場所』を必死に探しました」(川村)。