EIKOの気まぐれ闘病日記 -147ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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          南京桃と「宝木(うえき)屋」


 「その行商人は島村さんという名前でした」(中俣)、この日も「市ヶ谷までリヤカーを引く」という。蔵前から優に1時間以上かかる。

 都内で昭和20年代から行商を営んできた。敗戦の後、生活必需品でない植木の商売は苦しかったという。

「あめ玉とかお菓子の行商は、ある程度は売れていたよ。でも俺には植木しかなかった。それしか稼ぐ方法がなかった」。

 「あれは昭和26,7年だった。市ヶ谷の外堀通りで、『おいくらですか?』と声をかけてくれた若者がいたんだよ。それが池田先生だった。後ろに、牛乳瓶の底みたいな分厚い眼鏡をかけた戸田先生もいた。お菓子とお茶まで頂戴してね」。

当時、池田は23,4歳。戸田城聖のもとで働き始めてまだ3年ほどである。島村は40年以上も前の出会いを訥々と語った。

 「あの凛々しい青年にまた会いたい」と思い、しばらく市ヶ谷に通ったという。

 「夏の暑い日、また池田先生と会ったんだ。『植木屋さん、お久しぶりでした。お変わりございませんか?』と声をかけてくれてね。リヤカーにあった観葉植物を『全部いただきますよ』って8鉢も買って、『お身体に気をつけてくださいね』と丁寧に頭を下げてくれた。俺は今でも、あの時の温かな言葉が忘れられないんだよ」

 蔵前での語らいは続いた。

「俺は池田先生が好きなんだ。信心していないけど一番尊敬してる。先生の御恩は一生忘れないよ」「うそばかり書く週刊誌とか、先生のことを悪く言ってる奴らは、しゃくにさわってしょうがない。全部やきもちだ」。

 思わぬ話に驚いた中俣。南京桃を買った理由を伝えた。

「すると『うれしいなあ。池田先生が初めて買ってくれたのも、この南京桃だったんだよ』と、その場で涙をぽろぽろ流されました」。

 「俺は忘れないよ。だから池田先生も覚えてくださっている」。

島村はジャスミンを一鉢、差し出した。

「この香りが好きで、いつでも積んでいるんだ。植木屋からだって言って、よろしく伝えてよ」。


 中俣は「でしたら先生に手紙をかいてみてはどうでしょう」と提案し、近くの文具屋で便箋とペンを買ってきた。島村はうれしそうに筆を進めた。

「拝啓 池田先生 終戦直後、市ヶ谷ビルに居られましたる頃、戸田先生、池田先生始め・・・・親身も及ばぬ程、御世話になり・・・・・私の様な世の中の底辺をはいつづけて居る者に対し暖かい御心遣い・・・・・誠に有難う御座いました。此の世の中で一番尊敬しております」。

 「今年77歳になりました。残り少ない人生ですが、自分程幸福な人間は少ないと、今懐かしい池田先生を思い乍(なが)ら・・・・・御便りをさせて戴いて居ります」。長文を次のように結んだ。

「今日程、嬉しい日は御座いません。小生は本当に幸福者です」。


 この時、池田は香港から中部と関西を回っていた。島村に対してすぐ自著の『私の世界交友録』を贈り、帰京してあらためて写真集『平和への友情』を届けた。

 「2冊も申し訳ない」と固辞する島村に、中俣は表紙を開いて見せた。見返しに、池田の池田の自筆でこう綴られていた。


 「島村一雄大兄

 崇高な あの日の姿を忘れまじ

 世界一なる 宝木屋 万歳

   鉢植え・御手紙、感謝 合掌


  3月28日 大作」

「宝木」には「うえき」とふりがなが振られていた。島村は一字ずつ確かめ、声に出した。

「『あの日の姿を忘れまじ』まで読むと、島村さんは声を詰まらせていました。私も胸に迫るものがありました」(中俣)。

 しばらくして島村は顔を上げた。

「リヤカーを引いて半世紀近く、先生との出会いを一日も忘れず生きてきたよ。やっぱり俺の思っていたとおりの先生だった」。少年のようにはにかんだ。

 翌春も中俣は島村に南京桃を用意してもらい、学会本部に持参した。池田はその南京桃を写真に撮って島村に贈った。島村は矢花恵子(台東区副婦人部長)らの誘いを受けて、本部幹部会の衛星中継にも参加。画面に映った池田と”再会”した。その後も交流が続いた。

 「島村さんが亡くなる少し前、病院にお見舞いにも行きました」(中俣)。ここ数年、必ず題目三唱してから行商に出かけたことや、会う人ごとに池田との思い出を語ったこと──親愛を込めて「宝木屋」と呼ばれた島村は楽しそうに振り返った。

 「私は、あと幾ばくもないよ。池田先生に『ありがとう』と言えたことを感謝してるよ。思い残すことは何もない」「みんな同じ人間で、位なんてないけど、あえてつけるとすれば、池田先生は日本一、いや世界一だな」

 学会員にとどまらず、多くの人々の胸に残り続ける池田の「言葉」。それはどのような出会いのなかで磨かれたのか──源流を探りたい。

 




 エネルギーに満ちた言々句々──


 1970年発表の長編詩「青年の譜」には、


 青春の日に培った池田の信念が踊る。


 空襲で焦土と化した街での苦学、肺病。


 魂を揺さぶる教師との語らい。


 人生を決定づける恩師との出会い。


 「民衆救済に生きる」と決めた青年は


 苦悩の人々とともに歩んでいく。


「俺が一番会いたい人は、この人なんだ」


 1996年(平成8年)3月上旬、東京・台東区。中俣貴美子(台東区婦人部議長)は蔵前の路上で、ふと

自転車を止めた。リヤカーいっぱいに積まれた色とりどりの花々が、道行く人の目を楽しませている。今は

少なくなった鉢植えの行商である。創価学会はこの年の1月から3月にかけて、全国各地で小単位の婦人

部総会を行った。台東区婦人部長だった中俣。

「総会が無事に終わった感謝を込めて、池田先生と奥様への手紙と一緒に花を届けたいと思っていたのです」。リヤカーを引く行商人から声をかけられ、話が弾んだ。

「人なつっこい笑顔が印象的なおじさんでした」。リヤカーに並ぶ植木鉢。赤、白、ピンクの南京桃がひとき

わ美しかった。迷わず買い求めることにした。

 

行商人は80歳近かった。中俣は婦人部総会のために作られた栞を、思わず「自宅でお待ちの奥様に」と

手渡した。その栞には、池田大作が全国の婦人部に贈った和歌が綴られていた。

「微笑みの 母がおわせば 太陽が 照らすと等しき 平和の城かな」──

「へえ!いい歌だねえ。奥さん、和歌を詠むの?」。驚く行商人に中俣は笑いながら、「ちがいますよ」と栞

の裏を見せた。「池田大作」と記されている。

「その瞬間、おじさんの表情がみるみる変わりました」(中俣)。

「あんたは池田先生を知っているのかい?」。行商人は池田のことを「先生」と呼び、顔をほころばせて言った。

「俺が一番会いたい人はこの人なんだよ」。

 いつも連載を楽しみに読んでくださっている皆様、ありがとうございます<m(__)m>


 新しい連載が決まりましたのでお知らせします。


 次回からは「民衆こそ王者ー池田大作とその時代 青年の譜(1)」を連載しますの


で宜しくお願いします。


 池田先生が1970年に発表された「青年の譜」にまつわる話ですので、どうかお楽


しみに!