EIKOの気まぐれ闘病日記 -146ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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       「世界一の少年雑誌」


 戸田のもとで働き始める前、池田の勤め先は自宅近くの蒲田工業会だった。戦争によって壊滅した鎌田周辺で、何十もの中小企業や町工場の再建、復興を手伝う団体である。

 「たしか池田君は書記として勤めていたと思います。私も朝は早いほうだったが、池田君も早くてね。なによりも印象深いのは『お早うございます』という、彼独特の朝の挨拶です。詰め襟の服で、さっそうと出社、事務所の戸が開くと同時に、あの挨拶が部屋中にひびきましてね。雨の降る暗い朝でさえ、パッと、いっぺんに明るい雰囲気になる。だから、彼がおらんと、みんなが寂しそうな顔をしておる。そういう青年でしたよ」(同会の専務理事だった小田原政男の証言、「現代」1970年2月号)

 池田は、この蒲田工業会を惜しまれながら退職する(1948年12月)。戸田の経営する出版者「日本正学館」で働かないかと請われたためだ。

「(日本正学館では)企画から編集、原稿、挿絵の依頼、受け取り、校正まで、いっさいをしなければならなかった。それでも少年のころからの新聞記者か雑誌編集者になりたいとの希望が実現した喜びで、大いに張りきって仕事をしたものである」(『私の履歴書』)。

 21歳の池田は、少年向け雑誌「冒険少年」の編集長に就任。当時の日記からも意気込みがうかがえる。

「戸田先生の会社に、お世話になって、早、半年。実に、波乱激流の日々であった。・・・・・少年雑誌『冒険少年』7月号でき上がる。自分の処女作となる。純情なる少年を相手に、文化の先端を進む、編集を、自分の親友と念(おも)い、恋人の如く思うて、力の限り、向上発展をさせよう」(1949年5月31日)。


 ちょうどこのころ、池田が書いた「世界一」「日本一」という言葉が、初めて活字になっている。「冒険少年」のタイトルが「日本少年」という案を経て、「少年日本」へと変わるタイミングだった。

 「皆さんと、もっともっと親密に、そして世界一の少年雑誌にしたいと思いまして、冒少(=冒険少年)の題名をかえることになりました。一層の御愛読と、御期待とを下さい」

 「大きさも菊版にして堂々100頁をとり、断然日本一の『日本少年』として親愛なる皆さんの所にお送りしたいと張切っています。楽しみにお待ち下さい」(いずれも「冒険少年」1949年8月号。旧字は新字に改めた)

 「世界一」「日本一」を志す池田。日記には、その土台となる「師匠のために」という強烈な思いが記されている。

 「毎日、忙しい。だが自分に、与えられた課題に、真正面から取り組むことだ。なれば、意義ある仕事になる。苦しくとも、実に楽しい。先生の会社を、日本一の会社にしたい。日本一の雑誌を作り上げねばならぬ」(6月3日)

 「2時より、編集会議。『冒険少年』の改名問題がでる。日本一の少年雑誌に、何が何でも、仕上げねばならぬ。これが、自分の使命である。戸田先生に御恩をかえす所以でもある」(6月4日)

 「少年日本」は好評だった。しかし不況に加え、大手出版社の攻勢を受けて、まもなく廃刊となる。

「全く意気消沈・・・・・自転する地球が、急停止したら、その反動は、大である・・・・昨日まで、全生命を賭した仕事が、急停止したのだ。驚くのは、当然だ」(10月25日)。


 しかし、戸田とともに民衆救済に生きるという「世界一」のロマンが潰えることはなかった。日記はこう続く。

「世法の人々の曲解を、私は恐れる・・・・・先生の指示のもと、私は、再び、次の建設に、何でも、お尽くししていけばよい・・・・・戸田先生の人格は、嵐や、波浪で、押し流されるようなものではない。最終の事業によって、その偉大な、人格の勝利は、決定されるものだ」。

 池田の覚悟は、その後もぶれず、むしろ強まっていった。

 「そしる者には、そしらせておけ。笑う者には、笑わせておけ。そんなものが何だ。吾人を、照覧するものは、大聖人様あるのみ。小善に、死すること勿れ。大善に生きよ。人の為、世の為、法の為に」(22歳。1950年5月29日の日記)

 「本の歴史は、間違いだらけだ。自己の歴史には、自己の胸中の歴史だけは、一分の、嘘も、飾りも書けぬことを知れ」(同6月15日)

 「学会批判しきりなり。弱気者は、退す。強き者は、喜ぶ。大聖人も、賢者ハヨロコビ、愚者ハ退スルナリ、と。感情の批判、無認識の誹謗。当分の間、いや、一生涯、大聖人の弟子なれば、批判はあることだろう。御金言(=日蓮の言葉)なれば──覚悟は磐石」(27歳。1955年3月4日)

 約20年後、池田は「青年の譜」に書いた。

「笑う者には/汝の笑うに任せよう/誹る者には/汝の誹るに任せよう/われらには/洋々たる前途に/幾百万年の証明の歴史が待っている/人類悠遠の/栄光と勝利の記念塔が待っている」。

 利害だけで働く一部のマスコミや言論人からどれだけ冷笑を浴びせられても、軽んじられても、びくともしない土台は、すでに20代の日々に鍛えられてあった。

         「この人なら」


 戸田との運命的な出会いは、東洋商業の夜間部で学び始めて2年が経とうとする1947年(昭和22年)。19歳の夏だった。池田にとっても、そして戸田にとっても、その後の人生を決定的に変える出会いとなった。

 ──不敬罪と治安維持法違反の容疑で2年間、牢獄につながれた戸田。出獄後、身近な人々に法華経講義を始めた。受講者の一人だった故・辻武寿(学会本部参与)。

「昭和21年でした。毎週3回、月水金と楽しみに通いました」と語る。

 「戸田先生は御書(日蓮の遺文集)や法華経を拝しながら、『我々学会員は地涌(じゆ)の菩薩として、自ら願ってこの世に生まれてきたのです。衆生(しゅじょう)=民衆を救うために、福運をかなぐり捨てて、貧乏人や病人になって、御本尊の功徳を示し、広宣流布するために生まれてきたのです』と励ましてくださった。あの五体に染み入るような声は忘れられません」。辻は思わず戸田に「先生、それは本当ですか」と何度も聞き返した。

 「3日も飯を食わない者の顔を見たかったら、辻の顔を見ろ」と言われるほど貧しかった。人生観が変わった。

 

今、貧乏や病気に苦しんでいるのは、その苦しみを信仰によって乗り越え、さらに周囲の人々を救っていくためなのだ、というのである。

 ──学会は貧乏人と病人の集まりだとバカにされる。しかし貧乏と病気を誰が悪く言えるのか。信心をやめて誰が救ってくれるというのか。信仰の力で貧乏人と病人を救うことこそ最高の誉れではないか──

 この戸田の訴えは学会という民衆運動を支える要の一つである。仏法を根本に「悲惨」の二字をなくす。戸田のこの思いは「75万世帯世帯の達成」や「地球民族主義」「原水爆禁止宣言」などに結実していった。

 

19歳の池田は、戸田の「民衆を救おう」という気迫と、思想の巨大さに打たれた。初対面の池田の質問に対して、明快に答えた戸田。その印象を池田はこう綴っている。

 「直截(ちょくせつ)感銘な、しかも誠実な答えが返ってきた。少しの迷いもなく、理論をもてあそぶようなこともない。『これだ!』と思った。この人の言っていることは本当だ!私は、この人なら信じられる、と思った。いっさいのもののあまりにも急激な変化のためであろう、何も信じられない、といったような心とともに、しかし、何かを探し求めていたのである」(『私の履歴書』)

 それは池田にとって「本当の言葉」に巡り合えた喜びでもあった。戸田を人生の師匠にする。それは「民衆救済に生きる」という戸田の壮大な理想に、自らの人生を投ずることだった。と同時に、それは生涯を通じて、自らの「言葉」で師の理想を人々に語り、実現する闘いとならざるをえない。

 池田の「言葉の闘争」は、戸田との出会いによって本格的に始まった。その経験は雑誌編集の仕事にも生かされていく。

    魂を揺さぶる教師


 もう一人、池田が出会った早世の教育者に触れねばならない。

 東洋商業を卒業した池田は、大世学院(現在の東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に通った。『校友会五十年史』に「私は、わが母校を愛する。わが母校に感謝する。わが母校を誇りに思う。そこに、魂を揺さぶる、偉大なる教師との出会いがあったからである」と寄稿している。この「魂を揺さぶる、偉大なる教師」の代表が、同学院の創立者・高田勇道だった。

 「新宿の高田馬場駅で山手線を降り、西武線に乗り換え、二つ目の中井駅で下車。踏み切りを渡り、一の坂へ出た。私は、詰め襟の学生服、油の染みこんだ作業服の級友、背広姿のサラリーマン風の友、国民服を着た軍人のような仲間、皆、路地のような坂道を急いでいる」──大世学院の中井校舎(現在の新宿区中落台)へ向かう通学路の描写である(『池田大作全集』第21巻)。教室には東洋商業と同じく、敗れた窓ガラスから風邪が吹き込んだ。

 高田勇道は長年、結核を患っていた。勢いのよい魅力的な授業が、咳で中断することもしばしばあった。戦争中、同学院の校舎は空襲で焼け落ちた。戦後、結核で倒れた高田は入院先から通勤し、学校運営に腐心した。

 同じ結核で苦しんでいた池田は、授業にとどまらず、高田の生き方にも感銘を受けた。特に「大事なのは人間性の開発です」という一言が忘れられなかった。

 同学院を新制の「富士短期大学」として立ち上げるため、高田は文字通り命を削って奔走した。文部省に提出する大学認可申請書は、病床で口述した。認可が下りたのは1951年(昭和26年)3月である。

 初めての入学式を終え、新入生の授業が始まった5月、燃え尽きるように亡くなった。42歳だった。

 「教育とは学生に生命をあたへてゆくことである」と書き残した。大学設立のための寄付者名簿に22歳だった池田の名前も刻まれている。


 「池田さんは、おとなしく目立たない学生さんでした。私は会計事務だけでなく、試験の採点なども手伝っていましたので、非常に美しい几帳面な答案を書く方だったと記憶しています」

 当時の池田の様子を、大世学院の会計事務員だった渡辺寿美子が、近所に住んでいた学会員(加藤求馬、さいたま市、副支部長)に語り残している。渡辺は自宅を空襲で焼け出され、47年(昭和22年)から大世学院で働いた。晩年まで同学院そばで暮らした。

 「(大世学院は)昼間の学生はまだ恵まれていましたが、夜間生は苦学生ばかりで、授業料も分納する人が多かったです」

 そのころの池田の日記には「身体が疲れてならぬ。夜学は、無理の様子。(戸田)先生も、非常に、大変な様子」(1949年10月26日)といった記述が続く。自身の体調とともに、戸田の健康を気遣う記述が増えていく。人生の師と定めた戸田を支えるため、「いつ冬が来て、いつ春が訪れたのか──それさえも判然としない苦闘の日々」(『私の履歴書』)が、すでに始まっていた。渡辺寿美子はこう振り返っている。

 「池田さんは学院を辞める時、わざわざ一職員である私のところにも挨拶に来てくださり、『師匠の仕事を支えるために、学院を辞めます』と言われました。私は、あなたは頭も良いのですし、惜しい、卒業だけはしておいたほうがいいですよ、と言いましたが、決意は固かったようです」。池田は後年、富士短期大学(大世学院の後身)の勧めで論文を提出。単位を取得し、卒業した。

 高田勇道の言うように、教育が「学生に生命を与えゆくこと」であるなら、「宗教」は本来「すべての人々に、たとえ苦悩のどん底にある人にも生命を与えゆくこと」でなければならない。戸田城聖のもとで、池田はその困難な道を歩き出していた。

      廃墟の中の光


 「そのころの本校の界隈は、焼瓦の赤茶けた単調な色彩の向こうに、音のない干からびた弱い起伏が、九段方向へ続いていた・・・・・・赤く焼けただれた水道橋のホームは、土手の上で恐竜の骸骨のように見えた・・・・・その色彩のない廃墟の中にポツンと校舎が焼け残っていた」

 『東洋商業60年史』の一節である(「嵐の暗闇を乗り越えて──終戦後」)。敗戦直後の1945年(昭和20年)9月、17歳の池田は東京・水道橋駅に近い同校(現・東洋高等学校)夜間部に編入した。半年前の東京大空襲で、街は焦土になっていた。

 「先生も生徒も、軍服かその仕立て直しが多く、若手の先生と(戦争から)復員した上級生の区別がつかず」「飢えと寒さの中で震えながらの授業だった」という同校。

 機関誌『東商学園100年のあゆみ』に、池田次のような感謝の言葉を寄せている。

 「『全魂を打ち込んで諸君を鍛えよう。遠慮なくぶつかってきてくれ給え』と、毎回気迫のあふれる授業をしてくださった英語の先生。悪い点数をとった時、近くの喫茶店でコーヒーをご馳走し、温かく励ましてくださった珠算の先生・・・・・。その学舎の明かりは、敗戦の焼け跡に灯された『希望の光』でした」

 同校で英語を教えた中西信夫(後に校長)池田の印象を「病弱でやせていたが、鋭い青年だった」と語り残している。生前の中西を取材した聖教新聞記者のメモには、「160人くらいの夜間生がいた。やめていく学生も多かったが、池田会長は最後までやり通したグループの人間だった」「(教室の)窓カラス1枚もなかった」「教科書もカストリ・ペーパーで、(袋綴じされたページの)折り目を自分たちで切って使った」等と記されている。

 苦学のなかで出会った人間性豊かな教師たちは、池田に少なからぬ影響を与えた。もう一つ、このころの池田にとって忘れがたい出あいがあった。「活字」である。


 池田は日本経済新聞に連載した『私の履歴書』(『池田大作全集』第22巻に収録)に当時の思い出を綴っている。

 「廃墟と化した市街の上に、悠々と広がる澄み渡った青い空は、いま思い出してもあまりにも鮮やかである。・・・・・薄給のなかから蓄えた小遣いを持っては、神田に飛んでいき、望みの本を見つけて喜んだのもこのころである」

 東洋商業時代、池田は地元の読書グループ「郷友会」にも参加した。学生、技術者、公務員など約20人が集まっていた。そしてそれぞれが持ち寄った本を貸し出す「草水文庫」の運営に携わった。「東京一の軍需工業地帯」(『大田区政50年史』だった大森・蒲田地区は、合計17回の空襲に遭っている。その焼け跡から復興する文化運動のさきがけとなった。

 「古典、新刊書など、手にはいるものは乱読というか、片っぱしから読んだといってよい。読書は、私の人生にとって最大の趣味の一つである。素晴らしい良書に巡り合った喜びはなににもまして、といってよいほどのうれしさがあった。岩波書店へ行って、列をなしているところに並んで、やっと一冊の本を手に入れたこともある」(『私の履歴書』)という時代である。本そのものが貴重だった。のちに「草水文庫」は大森第四小学校の図書館(戦争中の銃器庫を改修)に贈呈された(1948年)。

 この時期、池田は西新橋にあった昭文堂印刷という小さな会社で一年半ほど働いている。

「朝、家を6時半ごろ出て30分ほど歩くと梅屋敷駅へ着く。そこから京浜急行に乗り、品川駅まで行き、国電に乗り換え新橋駅で降りる。露天の闇市が線路ぎわに立ち、日用雑貨を売っていた」(同)。午後4時ごろまで働いてから、東洋商業に向かった。

 仕事は得意先回りから図面のトレース(薄紙をあてて写す作業)、公正など幅広い。神田や銀座の大通りを大八車で回ったのもこのころである。届いた原稿のとおりに一文字ずづ活字を拾って箱の中に並べる「分選」もやった。

 

池田はこれらの仕事を通して得た、「ことばの力」をめぐる実感を東洋商業の教師にぶつけている。

 「─一つ一つの活字は、鉛の塊にすぎない。しかし、それが、一旦、組み合わせられ、文章になって印刷されると、実に大きな力をもつ。文字通り、活字は生きている。文字は偉大な生命をもっている。

 ある日、この思いを、通っていた夜学の校長先生に話すと、嬉しそうな顔をされて言われた。

 『君は、すばらしいことを言うじゃないか。その通りだよ。トルストイを見るがいい。ユゴーを見るがいい。人間ばかりでなく、社会も、世界も動かしていくのが文学だ』」(「聖教新聞」1998年8月5日付)

 戦争中、病気がちな体に鞭打って新潟鐵工所の旋盤工として働き、軍事教練で倒れ、血痰を吐いた池田。「戦争と病気という二つの『死』に直面していた」(「聖教新聞」2001年3月4日付)灰色の時代から、敗戦を経て、幾つかの出会いを重ね、新しい世界へ目を開き始めていた。

             破壊と建設


 池田の青年時代を辿るキーワードは何か。昨年、モンゴルで池田の写真詩集『わが心の詩』が出版された(モンゴル文化詩歌アカデミー刊)。「森ケ崎海岸」「月光」「民衆」「無冠の友」など、1976年(昭和51年)までに発表された詩や贈言が収録されている。その序文に印象的な一節があった。

 「エネルギーや活力に満ちた言葉が、どんなに価値あるものだったかということを、いまの日本の、偉大な建設に携わった世代は、よく認識しているだろう」(同アカデミー総裁のG・メンドオーヨ)

 この写真詩集の冒頭に、「青年の譜」という詩が載っている。70年(同45年)12月、「言論・出版問題」の後、池田が詠った長編詩だ。次の時代を担う青年に自らの思いを託した。その中に、池田の人生を象徴するような言葉がある。


  天空に雲ありて

  風ふけど

  太陽は 今日も昇る

  午前八時の青年の太陽(かれ)は

  無間の迫力を秘めて

  浸透しつつ 正確に進む・・・・・


  ある時は 社会の動きを

  静かに考察しながら

  ある時は社会に 融合しつつ

  深く広く

  ある時は 中傷と誹謗の川に

  激怒しながら

  ある時は 忍耐の鎧を着して

  沈黙と対話の二重奏で進む

  そして ある時は

  思想を護るために

  純粋と徹底の抗戦に

  死を賭して戦う


 メンドオーヨが指導した「偉大な建設」の前には、言うまでもなく太平洋戦争という「巨大な破壊」があった。日本でも兵員の死者は230万人、市民の犠牲者は80万といわれる。すでに「昭和時代」と呼ばれるようにもなり、「戦後生まれ」は日本人の75%を超えた。

 「大本営発表」に一喜一憂し、前代未聞の悲劇に襲われた日本。戦後の学会の歴史は、敗戦からの再生の歴史に重なる。それは「本当の言葉」「力に満ちた言葉」を探し求める庶民が仏法と巡り合う歴史でもあった。