魂を揺さぶる教師
もう一人、池田が出会った早世の教育者に触れねばならない。
東洋商業を卒業した池田は、大世学院(現在の東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に通った。『校友会五十年史』に「私は、わが母校を愛する。わが母校に感謝する。わが母校を誇りに思う。そこに、魂を揺さぶる、偉大なる教師との出会いがあったからである」と寄稿している。この「魂を揺さぶる、偉大なる教師」の代表が、同学院の創立者・高田勇道だった。
「新宿の高田馬場駅で山手線を降り、西武線に乗り換え、二つ目の中井駅で下車。踏み切りを渡り、一の坂へ出た。私は、詰め襟の学生服、油の染みこんだ作業服の級友、背広姿のサラリーマン風の友、国民服を着た軍人のような仲間、皆、路地のような坂道を急いでいる」──大世学院の中井校舎(現在の新宿区中落台)へ向かう通学路の描写である(『池田大作全集』第21巻)。教室には東洋商業と同じく、敗れた窓ガラスから風邪が吹き込んだ。
高田勇道は長年、結核を患っていた。勢いのよい魅力的な授業が、咳で中断することもしばしばあった。戦争中、同学院の校舎は空襲で焼け落ちた。戦後、結核で倒れた高田は入院先から通勤し、学校運営に腐心した。
同じ結核で苦しんでいた池田は、授業にとどまらず、高田の生き方にも感銘を受けた。特に「大事なのは人間性の開発です」という一言が忘れられなかった。
同学院を新制の「富士短期大学」として立ち上げるため、高田は文字通り命を削って奔走した。文部省に提出する大学認可申請書は、病床で口述した。認可が下りたのは1951年(昭和26年)3月である。
初めての入学式を終え、新入生の授業が始まった5月、燃え尽きるように亡くなった。42歳だった。
「教育とは学生に生命をあたへてゆくことである」と書き残した。大学設立のための寄付者名簿に22歳だった池田の名前も刻まれている。
「池田さんは、おとなしく目立たない学生さんでした。私は会計事務だけでなく、試験の採点なども手伝っていましたので、非常に美しい几帳面な答案を書く方だったと記憶しています」
当時の池田の様子を、大世学院の会計事務員だった渡辺寿美子が、近所に住んでいた学会員(加藤求馬、さいたま市、副支部長)に語り残している。渡辺は自宅を空襲で焼け出され、47年(昭和22年)から大世学院で働いた。晩年まで同学院そばで暮らした。
「(大世学院は)昼間の学生はまだ恵まれていましたが、夜間生は苦学生ばかりで、授業料も分納する人が多かったです」
そのころの池田の日記には「身体が疲れてならぬ。夜学は、無理の様子。(戸田)先生も、非常に、大変な様子」(1949年10月26日)といった記述が続く。自身の体調とともに、戸田の健康を気遣う記述が増えていく。人生の師と定めた戸田を支えるため、「いつ冬が来て、いつ春が訪れたのか──それさえも判然としない苦闘の日々」(『私の履歴書』)が、すでに始まっていた。渡辺寿美子はこう振り返っている。
「池田さんは学院を辞める時、わざわざ一職員である私のところにも挨拶に来てくださり、『師匠の仕事を支えるために、学院を辞めます』と言われました。私は、あなたは頭も良いのですし、惜しい、卒業だけはしておいたほうがいいですよ、と言いましたが、決意は固かったようです」。池田は後年、富士短期大学(大世学院の後身)の勧めで論文を提出。単位を取得し、卒業した。
高田勇道の言うように、教育が「学生に生命を与えゆくこと」であるなら、「宗教」は本来「すべての人々に、たとえ苦悩のどん底にある人にも生命を与えゆくこと」でなければならない。戸田城聖のもとで、池田はその困難な道を歩き出していた。