「この人なら」
戸田との運命的な出会いは、東洋商業の夜間部で学び始めて2年が経とうとする1947年(昭和22年)。19歳の夏だった。池田にとっても、そして戸田にとっても、その後の人生を決定的に変える出会いとなった。
──不敬罪と治安維持法違反の容疑で2年間、牢獄につながれた戸田。出獄後、身近な人々に法華経講義を始めた。受講者の一人だった故・辻武寿(学会本部参与)。
「昭和21年でした。毎週3回、月水金と楽しみに通いました」と語る。
「戸田先生は御書(日蓮の遺文集)や法華経を拝しながら、『我々学会員は地涌(じゆ)の菩薩として、自ら願ってこの世に生まれてきたのです。衆生(しゅじょう)=民衆を救うために、福運をかなぐり捨てて、貧乏人や病人になって、御本尊の功徳を示し、広宣流布するために生まれてきたのです』と励ましてくださった。あの五体に染み入るような声は忘れられません」。辻は思わず戸田に「先生、それは本当ですか」と何度も聞き返した。
「3日も飯を食わない者の顔を見たかったら、辻の顔を見ろ」と言われるほど貧しかった。人生観が変わった。
今、貧乏や病気に苦しんでいるのは、その苦しみを信仰によって乗り越え、さらに周囲の人々を救っていくためなのだ、というのである。
──学会は貧乏人と病人の集まりだとバカにされる。しかし貧乏と病気を誰が悪く言えるのか。信心をやめて誰が救ってくれるというのか。信仰の力で貧乏人と病人を救うことこそ最高の誉れではないか──
この戸田の訴えは学会という民衆運動を支える要の一つである。仏法を根本に「悲惨」の二字をなくす。戸田のこの思いは「75万世帯世帯の達成」や「地球民族主義」「原水爆禁止宣言」などに結実していった。
19歳の池田は、戸田の「民衆を救おう」という気迫と、思想の巨大さに打たれた。初対面の池田の質問に対して、明快に答えた戸田。その印象を池田はこう綴っている。
「直截(ちょくせつ)感銘な、しかも誠実な答えが返ってきた。少しの迷いもなく、理論をもてあそぶようなこともない。『これだ!』と思った。この人の言っていることは本当だ!私は、この人なら信じられる、と思った。いっさいのもののあまりにも急激な変化のためであろう、何も信じられない、といったような心とともに、しかし、何かを探し求めていたのである」(『私の履歴書』)
それは池田にとって「本当の言葉」に巡り合えた喜びでもあった。戸田を人生の師匠にする。それは「民衆救済に生きる」という戸田の壮大な理想に、自らの人生を投ずることだった。と同時に、それは生涯を通じて、自らの「言葉」で師の理想を人々に語り、実現する闘いとならざるをえない。
池田の「言葉の闘争」は、戸田との出会いによって本格的に始まった。その経験は雑誌編集の仕事にも生かされていく。