民衆こそ王者ー池田大作とその時代   青年の譜(1)7 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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       「世界一の少年雑誌」


 戸田のもとで働き始める前、池田の勤め先は自宅近くの蒲田工業会だった。戦争によって壊滅した鎌田周辺で、何十もの中小企業や町工場の再建、復興を手伝う団体である。

 「たしか池田君は書記として勤めていたと思います。私も朝は早いほうだったが、池田君も早くてね。なによりも印象深いのは『お早うございます』という、彼独特の朝の挨拶です。詰め襟の服で、さっそうと出社、事務所の戸が開くと同時に、あの挨拶が部屋中にひびきましてね。雨の降る暗い朝でさえ、パッと、いっぺんに明るい雰囲気になる。だから、彼がおらんと、みんなが寂しそうな顔をしておる。そういう青年でしたよ」(同会の専務理事だった小田原政男の証言、「現代」1970年2月号)

 池田は、この蒲田工業会を惜しまれながら退職する(1948年12月)。戸田の経営する出版者「日本正学館」で働かないかと請われたためだ。

「(日本正学館では)企画から編集、原稿、挿絵の依頼、受け取り、校正まで、いっさいをしなければならなかった。それでも少年のころからの新聞記者か雑誌編集者になりたいとの希望が実現した喜びで、大いに張りきって仕事をしたものである」(『私の履歴書』)。

 21歳の池田は、少年向け雑誌「冒険少年」の編集長に就任。当時の日記からも意気込みがうかがえる。

「戸田先生の会社に、お世話になって、早、半年。実に、波乱激流の日々であった。・・・・・少年雑誌『冒険少年』7月号でき上がる。自分の処女作となる。純情なる少年を相手に、文化の先端を進む、編集を、自分の親友と念(おも)い、恋人の如く思うて、力の限り、向上発展をさせよう」(1949年5月31日)。


 ちょうどこのころ、池田が書いた「世界一」「日本一」という言葉が、初めて活字になっている。「冒険少年」のタイトルが「日本少年」という案を経て、「少年日本」へと変わるタイミングだった。

 「皆さんと、もっともっと親密に、そして世界一の少年雑誌にしたいと思いまして、冒少(=冒険少年)の題名をかえることになりました。一層の御愛読と、御期待とを下さい」

 「大きさも菊版にして堂々100頁をとり、断然日本一の『日本少年』として親愛なる皆さんの所にお送りしたいと張切っています。楽しみにお待ち下さい」(いずれも「冒険少年」1949年8月号。旧字は新字に改めた)

 「世界一」「日本一」を志す池田。日記には、その土台となる「師匠のために」という強烈な思いが記されている。

 「毎日、忙しい。だが自分に、与えられた課題に、真正面から取り組むことだ。なれば、意義ある仕事になる。苦しくとも、実に楽しい。先生の会社を、日本一の会社にしたい。日本一の雑誌を作り上げねばならぬ」(6月3日)

 「2時より、編集会議。『冒険少年』の改名問題がでる。日本一の少年雑誌に、何が何でも、仕上げねばならぬ。これが、自分の使命である。戸田先生に御恩をかえす所以でもある」(6月4日)

 「少年日本」は好評だった。しかし不況に加え、大手出版社の攻勢を受けて、まもなく廃刊となる。

「全く意気消沈・・・・・自転する地球が、急停止したら、その反動は、大である・・・・昨日まで、全生命を賭した仕事が、急停止したのだ。驚くのは、当然だ」(10月25日)。


 しかし、戸田とともに民衆救済に生きるという「世界一」のロマンが潰えることはなかった。日記はこう続く。

「世法の人々の曲解を、私は恐れる・・・・・先生の指示のもと、私は、再び、次の建設に、何でも、お尽くししていけばよい・・・・・戸田先生の人格は、嵐や、波浪で、押し流されるようなものではない。最終の事業によって、その偉大な、人格の勝利は、決定されるものだ」。

 池田の覚悟は、その後もぶれず、むしろ強まっていった。

 「そしる者には、そしらせておけ。笑う者には、笑わせておけ。そんなものが何だ。吾人を、照覧するものは、大聖人様あるのみ。小善に、死すること勿れ。大善に生きよ。人の為、世の為、法の為に」(22歳。1950年5月29日の日記)

 「本の歴史は、間違いだらけだ。自己の歴史には、自己の胸中の歴史だけは、一分の、嘘も、飾りも書けぬことを知れ」(同6月15日)

 「学会批判しきりなり。弱気者は、退す。強き者は、喜ぶ。大聖人も、賢者ハヨロコビ、愚者ハ退スルナリ、と。感情の批判、無認識の誹謗。当分の間、いや、一生涯、大聖人の弟子なれば、批判はあることだろう。御金言(=日蓮の言葉)なれば──覚悟は磐石」(27歳。1955年3月4日)

 約20年後、池田は「青年の譜」に書いた。

「笑う者には/汝の笑うに任せよう/誹る者には/汝の誹るに任せよう/われらには/洋々たる前途に/幾百万年の証明の歴史が待っている/人類悠遠の/栄光と勝利の記念塔が待っている」。

 利害だけで働く一部のマスコミや言論人からどれだけ冷笑を浴びせられても、軽んじられても、びくともしない土台は、すでに20代の日々に鍛えられてあった。