EIKOの気まぐれ闘病日記 -145ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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      「自分との戦い」


 「毎日毎日病魔と戦いながら唱題に励み、時には呼吸困難となり、1日1日魔との戦いでした」。末子は横になったまま祈り続けた。1ヵ月後、座って勤行できるようになった。台所に立てるようになり、数ヵ月後初めて座談会に出席した。

 翌年、川崎の南加瀬に引っ越した。夫との口論が絶えず、夫婦仲が裂けそうになった時、鶴見市場駅に近い佐々木庄作(鶴見支部第二代支部長)の家まで指導を受けに行った。

 その場に24歳の池田がいた。

 家庭のこと。自分の病気のこと。そして、もう一度子どもを産みたいこと。末子の悩みを聞いた池田は、「奥さん、地に依って倒れた者は、地に手をついて立つ以外にないでしょう」と語り、悩みを土台にして立ち上がり、何があっても信心根本で生き抜くよう励ました。

 この一言が「生涯の指針」になり、「苦しい時も楽しい時もこの指針を支えに生きた」と末子は書き残している。


 池田の日記にはこういう記述があった。師である戸田の事業難を支えていた渦中である。

「前途が、暗黒であることを感ずる。先生の胸中、父母の心配を思うと、胸が痛む。

 地に依って倒れた者は、地に依って起つ以外ない。この現状を、再起させれば、最大の活躍の証明となる。先生に心から歓(よろこ)んで戴(いただ)けることだ。阿修羅の如く、奮い起とう」(1950年8月30日)

 大地で倒れた者は、その大地から立ち上がるしかない──日蓮は、亡くなる8ヶ月前、重病に伏せっていた何条時光という門下に、一通の手紙を書いている(「法華証明抄」)。

 そこに「地にたう(倒)れたる人は・かへりて地よりを(起)く」という一節がある。当時、日蓮は弟子に代筆を頼むほど身体が弱っていたが、若くして病に倒れた門下のために自ら筆をとったのが、この「法華証明抄」だった。

 同抄には「人の命には限りがあるから少しも驚いてはいけない。また、鬼神どもよ。この人(何条時光)を悩ますとは、剣を逆さまに飲むのか。自ら、大火を抱くのか。三世十法(さんぜじっぽう)の仏の大怨敵(おんてき)となるのか」(現代語訳)等々、火を吐くような激励が書き連ねられている。病気に直面した時、多くの学会員がこれらの御書を教え合い、学び合ってきた。

 

若き池田もまた、戸田から教わった日蓮の言葉を、自らの体験を通して一つずつ現場に注ぎ込んでいった。26歳のある日の日記。

 「蒸し暑い一日であった。身体の調子、全く悪し。肺病、胃病、糖尿病もか。健康になりたい。次第に、身体の衰えゆく事を痛感する。・・・・・・強情なる信心を確立せねばならぬことを、反省する。宿命との戦い。自分との戦い。これこそ、一生の信心にふさわしい尊い価値だ。

 夜、鶴見に抗議。講義のたび毎に思う、勉強せねばならぬと」(1954年5月19日)

 その翌月。「夕刻、鶴見の講義。於鶴見市場S宅、少々、身体を休めたためか、力強い、良い講義が出来て嬉しい。終わって個人指導する。京浜急行・鶴見市場駅まで2,3の同志が送ってくれる。感謝の念が心から起きる。

 ・・・・・・人の心ほど尊く、美しいものはない。だが一面は、人の心ほど醜いものもないであろう。

 19世紀、20世紀と、機械文明がいくら進歩しても、人の心のこの原理には、変化はない。──十界三千、本有常住(ほんぬじょうじゅう)が、生命の本質であるから」(同6月16日)。

 佐藤末子は、こうした日々のなかで池田が励ました一人だった。


 末子はやがで故郷の福島まで遠出できるようになった。

「病院通いしていた私がうれしくてどこへでも折伏しに行き、本当に楽しい折伏がどんどんできました」。

 2年後妊娠2ヶ月であることがわかった。「産めば、あなたが死んでしまう」。助産師からも、保健所からも止められた。夫と話し合い、唱題を重ね、出産を決めた。生まれてた赤ちゃんは女の子だった。

 「母は満州の話や、私を産んでくれた時の体験談を、包み隠さず、いろんな会合で語っていました」──末子の娘、大内正子(川崎市、婦人部副本部長)。

「『この信心で幸福になったのよ』と、耳にたこができるくらい聞かされた」と笑って振り返る。

 「私が小学3年生の、母のカリエスが治り、ギブスが外れました。それまでは、地区担(現在の地区婦人部長)として学会活動でどこに行くにも歩いていました。『やっと自転車に乗れる』と喜んだ顔が忘れられません」

 末子は54歳で亡くなった。正子が20歳の時だった。

「私を産んでから20年も寿命を延ばしたのです。最後の最後まで、鶴見市場で池田先生から受けた指導を口にしていました。父も信心をまっとうしました」。

 末子は亡くなる前年、女子部で活動し始めた正子に手紙を送った。遺言のようなその一枚の便箋を、正子は今も大切に持っている。

 「人から云われてやる斗(たたか)いは負ける。自発的に何でも責任を持って進む事です。

  解らぬことは先輩に聞きながら、事故なく・・・・・どんな事が有っても勝たねばの一念で頑張って下さい。

 私も残る日を一生懸命頑張ります。福運積むのは今ですから頑張って下さいよ。菓子とくだものを入れましたから、皆さんと一緒に食べる様に」

 絶望の淵で信仰を抱きしめ、自分の道を自分で切り開いた女性が残した言葉だった。


 「この地上から悲惨の二字をなくしたい」という戸田の悲願を受け継ぎ、目の前の悩める人を懸命に励まし続ける学会員たち。彼ら一人一人こそ、池田が「青年の譜」で讃えた「午前八時の青年の太陽」だった。自分自身がその先頭を走った青春時代、池田はどんな歴史を切り開いていったのか。さらに探りたい。


       三八度線を越えて


 佐藤末子は1920年(大正9年)、福島県の船引き町(現・田村市)で生まれた。21歳で結婚。嫁ぎ先の三春町は、「日本三大桜」の一つ、樹齢1000年を超える「三春滝桜」で知られる小さな街である。夫の誠は通信担当の軍属として満州(現・中国東北部)に出征した。40年(昭和15年)、末子も満州の首都・新京に渡った。

 戦況が悪くなり、突然、夜中に疎開命令が出た。ソ連軍の攻撃である。末子は暴徒に襲われないよう坊主頭にした。そこからの地獄を、末子は詳しく書き残している。

 「着のみ着のまま主人と別れ別れに成り、主人は関東軍のほうへ、私と二人の子供は平壌へ下り、そこで終戦となりました」

 5歳と2歳の子を抱え、末子は鉄道司令官の清掃員として働いた。「ソ連兵は日本の婦女子をさらっていく」という話が広がっていた。

「帰宅して子供の顔を見ると、1日無事に過ごせたことが何より幸いだったと思い、その日その日が闘いでした」。


 翌年9月、帰国できると聞いた。1週間分の焼米(保存食)を持ち、2歳の長女を背負い5歳の長男の手を引き、朝から晩まで歩き続けた。力尽きた人が次々と倒れていった。

 川が多かった。ずぶ濡れになって渡った。8日目、朝鮮半島を横断する三八度線まで来た。昼間は越えられない。

「登り8キロ、下り8キロの険しい山道で、真っ暗だが国境ゆえに明かりをつけることができず、頭に白いものをかぶりそれを目標に歩く・・・・・声を出すこともできず、子どもは靴ずれと雨に濡れて泣き、背中の子どもは動くこともなく、死んだのか生きているのかわからない状態で山を下りました」。

 飲まず食わずで丸1日歩き続け、港から帰国船に乗った。2歳の長女は痩せ細り、高熱が続いていた。

「何の手当てもできず、医者がいても薬がない。死人がどんどん甲板から薦(こも)に包まれ海に落とされる。(長崎の)佐世保が近づくにつれて山々が見えると懐かしさでいっぱいになりました」。

 佐世保港に着いた。伝染病検査で下船まで1週間ほど待たされた。長女のツヤ子は船の上で息絶えた。


 夫の誠は無事帰国していた。しかし末子の苦闘は続いた。それまでの無理がたたり、国立郡山病院に2年以上入院した。肺結核に加え脊椎カリエスや多くの臓器不全に苦しんだ。「ここでは手の施しようがない」と医師から告げられ退院。横浜に移り住み、東京都内の病院を回った。

「どこの病院に行っても治療方法がないといって入院させてくれませんでした。生地獄とはこの事かと思い、くる日もくる日も薬と注射で生きている毎日でした。ある日近所の奥さんが訪ねて来られ、信心すれば病気はなおり、生活は楽になり、どんな悩みも解決すると聞かされました。この世の中にそんな事があるかしらと信じられませんでした」

 1951年(昭和26年)の夏のことだった。当時、長男も肺結核で学校を休んでいた。本当に自分も息子も治るのだろうか。末子はこれまで何度も死を決意し、死にきれなかった。夫の誠が猛反対したが説得し、信心を始めた。

 先月は京都で痛ましい交通事故が数件発生しました。


 中でも18歳の無免許運転の少年が、通学中の子ども達の列に突っ込み、妊


娠中だった26歳の女性と、小学2年生、小学3年生の少女が死亡した事故は


記憶に新しいと思います。


 昨日のニュースで、この事故に対しては「危険運転致死傷罪」が適用されない


ということを知りました。


 危険運転致死傷罪には5つの条件があります。


①飲酒及び薬物等で酩酊状態で運転する「酩酊運転致死傷罪」


②制御不能なほどのスピードで運転する「制御困難運転致死傷罪」


③危険な割り込みや煽り行為などの「妨害運転致死傷罪」


④信号を守らず事故を起こす「信号無死運転致死傷罪」


⑤運転技能が未熟なまま車を運転する「未熟運転致死傷罪」


 運転していた少年は50キロくらいのスピードで運転していたので、制御不能


運転には当たらず、飲酒もしていません。


 私は自動車学校も行っていないのだから、未熟運転致死傷罪に当たるのでは


ないかと思うのですが、一晩中運転し続けたのだから、ある程度の運転技能は


あったとみなされるのだそうです。


数年前に、福岡海の中道大橋で、一家5人で走っていた車に、大量に飲酒した


元市役所職員が追突し、一家5人の車が海に転落し、3人の幼い兄弟が死亡し


た事故がありました。


 この事故も最初は「危険運転致死傷罪」の適用が難しいとされていましたが、


長い裁判の結果「危険運転致死傷罪」が適用され、元市役所職員は懲役20年


の判決を受け現在服役中です。


 今度の事故が「危険運転致死傷罪」が適用されなければ納得できないし、遺


族の方々の無念の思いを考えるとたまりません。


 何とか適用になることを願うしかありません。


何のために「危険運転致死傷罪」が制定されたのか考えて欲しいと思います。

 


         青年を率いて


 「大東亜戦争に、若き花と散った青年たちよ。それを思うと、今、同じ青年として、生きていることが感謝にたえぬ」──池田が23歳の時の日記である(1951年1月18日)。

 「銃を持ち、戦場に活躍した若人の心境よ。操縦桿を握り、敵機と闘った、青年の心境よ。

 何処の国でも、青年だけは、大事にせねばならぬ。未来の祖国の為に。未来の人類のために。

 20代で死すも、死の一瞬は、刹那なり。50代、80代で死すも、同じく死は一瞬刹那なり。

 悔いなき人生をを生きることは、実に難しい。更に、立派に死すことは、もっと難しい。仏法以外に、解決の途(みち)なきを沁々(しみじみ)感ずるなり」(同)

 この2年後、池田は男子部の第一部隊長として、学会青年部の最前線の指揮に立った。

「(戸田)会長より、第一部隊長に就任の発表あり、戦う、第一歩の正月となり、これからの一年を象徴した如くである。健男子として、何ものにも恐れず、青年を率いて起(た)とう」(1953年1月2日)

 任命から4日後の日記。

「6時、池袋、常在寺において、新部隊長等の就任式をなす。『五丈原の歌』を、幾度となく、先生、歌わせる。そして、先生自ら、さんさんと泣いて居られた。何のために、泣かれるのか──、この未熟の弟子に悲しまれるのか。自己の未熟なるに、あきれる。25歳。勉強せねばならぬ。・・・・・自己を練っていかねばならぬ。修養せねばいけぬ」(1月6日)。


 当時、学会は15支部、男子部の部隊は4つしかなかった。第一部隊の所属は小岩(中心は東京の江戸川区)、城東(江東区)、向島(墨田区)の3支部。いずれも下町で、地方出身者や工場勤めの青年が多い。

 新潟の江口金吾も第一部隊だった。当時は、入会を勧めた紹介者と同じ組織で活動することになっていた。新潟は向島支部による弘教が進んでいたので、新潟の男子部員の多くが第一部隊に所属した。

 江口は早くに両親と死別し、幼いころから病弱な体質だった。苦労して郵便の仕事に就いたが、肺結核を患ってしまい休職。将来の見えないなか学会に入った。池田と出会ったのはその4ヶ月後である。

 「新潟行き準急にて、新潟方面の折伏に行く。・・・・・7時、O宅にて、指導会、出席者、百名」(池田の日記、1954年2月13日)。池田が初めて新潟を訪れた際の会合は、江口が下宿していた家で行われた。

「炭火の火ばちしかないのに、会場は人の熱気が満ちていました」(梶井孝子、総新潟婦人部総主事)。

 壮年と婦人が体験発表を行った。二題とも病気を克服した体験だった。江口にとって新鮮な話が続いた。池田は上着を脱ぎ、時折、汗を拭きながら語った。

「私も病気で苦しみました。胃病とか結核とか、7つの病を患っていた。しかし私はこのように元気になりました」。生気みなぎる池田を前に、同い年の江口は圧倒された。

 会場終了後も池田は残ったメンバーと懇談を続けた。

「青年部員11名と、深夜まで語り、激励する。此の地よりも、未来の大指導者の輩出する事を祈りつつ」(同日の日記)。江口は後年まで、「先生から『君の一生は僕が面倒を見よう』と言われたこの日が、私の人生の原点になった」と、この夜の感動を語っている。翌日、青年部の分隊長に任命された。

「今晩は君の出陣を祝って、一詩を贈るよ」。池田は、

「大聖の 嵐の因縁(えにし) ある地にて 法旗を高く 君等起(た)ちゆけ」

 と記し、江口に渡している。

 「大聖」とは日蓮であり、日蓮が流罪された佐渡を擁する新潟は、まさに「因縁ある地」だ。江口の目の前に、想像もしたことがない世界が広がった。それ以来、上京のたびに勇んで池田のもとを訪れた。

「先生は青白い顔をしている私を見るたびに『食欲があるか』『体重が増えたか』『うんと食べて題目をあげるんだ』と激励してくださった」。

 全快までは10年近くかかった。1964年(昭和39年)の新潟地震の際は、新潟市議会議員として不眠不休で救援活動に取り組んだ。引退後、2009年に80歳で亡くなるまで仏法を語り続けた一生だった。


 若き日の池田の言葉によって立ち上がった世代は、青年に限らなかった。誰も経験したことのない戦後の混乱の真っただ中で、創価学会は誰を励まし、誰の人生を変えてきたのか。その原風景を探るために、一人の女性の手記を紹介しておきたい。